goo blog サービス終了のお知らせ 

遠い家への道のり (Reprise)

Bruce Springsteen & I

Bruce Springsteen "Human Touch"

2011-03-28 22:10:23 | Human Touch
俺達は自らを偽ったまま
すべてを手中から手放してしまった
終いには諦めまいと思うものも
奪い取られてしまう

他人の顔に優しさを見出すことなんてできない
ここでは奇跡なんて起こりっこない
救われるのを待っていてどうなる
でも俺には考えがあるんだ

賛美や情けを期待しているんじゃない
支えを求めている訳でもない
俺は言葉を交わす相手が欲しいだけ
そしてささやかな人とのふれあい
少しばかりの人の温もりが

この冷たい町の通りでは
天の助けなど得られない
身代わりになってくれる人などいやしない
今夜 いるのはお互いだけだ

この無情な世界で
俺は求めすぎているのだろうか
ただこの身をあずける何かと
ささやかな人とのふれあいがあるだけでいい

お前が大切にする安心感というものは
とても高くつくんだ
危険や痛みを排除することなんてできない
残された愛を失うことなしには
俺達はみんな同じ列車の乗客なんだよ

お前は傷つきふさぎ込んでしまったという
だけどそうでない人がいるだろうか
俺はいけ好かない人間かもしれない
だけどたぶん 少しの努力
ちょっと手を加えれば…

お前も頼るものが必要なのかもしれない
どんな答えも十分だと感じられない時
ただ話をする相手が要るかもしれない
そしてささやかな人の温かさが

この無情な世界で
俺は求めすぎているのだろうか
俺はただお前を腕に抱いていられればいい
誰かと少しばかりふれ合って
人の温かさを感じたい
ちょっとした温もりを感じたいんだ

ENGLISH


既に広く知られていることとは思いますが、『Song for Japan』という日本の東北関東大震災のためのチャリティアルバムが海外アーティストの協力のもとで製作されました。iTune Storeで日本では1500円で購入することができ、収益は日本赤十字へ寄付されることになっています。28曲を収録したこのアルバムにブルース・スプリングスティーンは1992年のアルバム『Human Touch』からタイトル曲を提供しています。私の思うところとしては、たぶんコロンビアの社員さん達があらかた決めたものにブルースがいいよ、と言ったという感じなのかなという気がします。70年代後半からチャリティ目的のコンサートや曲の発表はしばしば行なわれるようになったと言われていて、1984年、85年にそれぞれ"Do They Know It's Christmas?""We Are The World"がリリースされたことが1つの頂点になっていると思います。最近では、2001年のアメリカ同時多発テロの後のテレソンや昨年のハイチ地震後のものも記憶に新しいです。私は"We Are The World"についてあまり良い印象を持っていなかったことをかつて書いたことがありました。
それで今回の『Song for Japan』はどうなのかということですが、やっぱりある種の渋谷陽一さんが「ロック的でない」と言ったような側面はあると思います。これだけ沢山のチャリティがある中で、ある程度の影響力を持ったアーティストが沈黙を保つことにいささかの居心地の悪さを感じてしまうといったような。そして、このアルバムに1曲を提供するくらい、少しも損失にならない、プラスにはなってもマイナスにはならないという気軽さ、気楽さもあると思います。その一方で、ブルースが曲を提供してくれたことを嬉しいと思う気持ちもやはりありました。過去に2度来たきりであっても、大勢のミュージシャンが参加する作品の中でブルースの名前を見られることは、ファンとして誇らしい思いと感謝の念を感じずにはいられないのです。矛盾していると思うけれど。

"Human Touch"はもともと、男女の繊細な関係を歌った曲でした。1992年にリリースされた『Human Touch』と『Lucky Town』『Tunnel of Love』(1987)でブルースが潜ってしまった長く暗いトンネルを漸く抜け出し、向き合うことで克服しようという作品です。"Human Touch"は少し苦みのある曲で、世界の描かれ方は厳しいものだし、愛することの甘い幻想をきっぱり否定する内容になっています(ブルースの歌にはそういうものが多くて、私はそれが好きなのでもあるけれど)。でも、今回改めて聴いてみると、不思議と『Song For Japan』に収めるに相応しいと思われるフレーズがあるように思いました。それはブルースが何かを求めることに伴う責任や人との関係に真面目すぎるほど誠実であり、同時に畏れを持っているからかもしれません。私が特に今の状況においてはっとしたのは3連目の前半でした。苦労を耐え抜く我慢をいたずらに称賛したり、他人事のように憐れみをかけることではどうしようもないのだというところです。

それから最後に、ブルースのファンサイト、Backstreetsからの逸話を1つ書いて終わりにします。Backstreetsでは『Songs for Japan』の紹介と共に、現在韓国にお住まいの日本人であるヒロキさんという方がブルースの本(For You, The Light in Darkness)を書いたLawrence Kirschに宛てたEメールを紹介していました。日本では警察官をされていて、15年来のブルースファンだという彼は福島原発の傍に故郷の町があるということでした。そして今のような時期にあって、"The Rising""You're Missing," "Roulette," "This Hard Land"といったブルースの作品に境遇を重ねていると書かれていました。けれども、中でも私の胸に突き刺さったのは彼がその次に書いていらっしゃったことです。
「日本や韓国にいて、ブルースの大ファンであるというのは時に'寂しさ'を感じることです。傍に似た人を見出すことは容易ならざることなのです。」
だから彼はKirschさんにメールを書いたのです。これは遍く日本のブルースファンの悩みと言ってもいいのかもしれません。こうしてブルースについて少しずつ書いていると、自分が決して珍しい存在でも、孤独な存在でもないことに気が付くけれど、私も以前は小さな世界に残された最後のひとりのブルースファンであるかのような気がしたものでした。或いは、どこかにいる自分と似た人たちからも隔絶されているような気がしたのです。ブルースの曲というのは引き裂かれたところがあって、コミュニティや人とのつながりを求める一方で深い孤独もあるものだから、ほかのブルースファンと親しさを感じることが最初は難しく思えたこともありました。でも、本当はそんなことはなかった。そして、こういう形でしかはっきりと意識することができないのは悲しいことではあるけれど、今は東北地方を中心に寛容や思いやりが広く日本を覆う(もしかすると少し全体主義のきらいがあると言ってもいいくらいに)稀有な時期と言っていいと思うのです。そういう意味ではひとつの国に何らかの形でつながりを持つ者として、孤独感が薄らぐ時でもあるかもしれない。そして、ブルースを聴いて震災や津波や人や故郷を失う恐怖や悲しみの前で挫けないように踏みとどまろうとしている人も、確かに多くはないかもしれないけれど、傍に見出すことは容易ではないかもしれないけれど、本当にいるのです。それは本当の「human touch」というには少し不十分かもしれないけれど、それでも何かしらの温もりを感じさせるものです。ヒロキさんはメールの最後に「どうか私たちのために祈っていてください」と書かれていました。あまりにも凡庸ではあるけれど、そしてあまりにも微力ではあるけれど、「ブルースの音楽に対して同じパッションを抱く」私の祈りもたくさんの知られざるブルースファンに届きますように。「human touch」を望むことは決して求めすぎなんかではない。



Bruce Springsteen "Roll of the Dice"

2011-02-17 01:32:41 | Human Touch
俺は負け続けのギャンブラー
全くつきなしさ
恋に落ちてもへこたれはしない
すぐそこまで行けば
また夢を見ることができる
もう1度 賽を投げれば

じきにつきが回ってくる
勝負は決まらないまま
だけどお前に心を奪われてからというもの
何だか流れが変わったよう
賭金が上がる中 時機を待っている
更に賽を投げながら

へまもしたし 確かに過ちも犯した
だけど今夜 俺は全てを賭して勝負に挑む

遅すぎるなんてことはないから加われよ
席はあるよ
俺とお前と幸運の女神のために
そしてお祝いをするのさ
冷えたシャンパンを飲みながら
もう1度賽を振って

大金が賭けられるが俺はその上を行く
歩がいい訳じゃないのは分かってるさ

俺は愚かな挑戦者でしかないのかもしれない
やがて無一物になってしまうのかもしれない
俺は愛の家に忍び込んだ盗人だから
信用するなよ
今にすべて俺のものにしてしまうから
もう1度賽を振るだけで
始めようじゃないか
7が出るように!
賽を投げろ
このあてにならない世界で

ENGLISH


今日取り上げたのは、ブルース・スプリングスティーンの1992年の作品『Human Touch』からの1曲です。共作者として、ロイ・ビタンの名前が入っている少し珍しい楽曲で、ピアノの音がとても印象的です。歌詞については、サイコロ賭博の用語が基本的なものですが、用いられたりしているので英語そのままというよりも意味をとった訳にしました。そうした点については、追記の中に書いたので関心のある方はご覧ください。

今日は私にとって、1年のまとめになるような記事を書こうと思います。前回の記事では、最近はこのブログで自分自身について書く傾向が強まっていること、そしてその中で、私はどのような自分と向き合っているのかを強く考えるようになったことについて少し書きましたが、その理由を明らかにするのが今日の試みです。といっても、何も複雑な話ではなくて、ほんの一言で済む内容でもあります。端的に言って、それは私や周囲の沢山の人が新しい生活環境に入ったからです。ただ、その新しい生活環境の持つ意味がこれまでの人生の中で1度も無かったものだったという点がとても特別でした。今年度より以前は、私は自分が何をしていようと、自分の社会的なステータスについて何かしらの言い訳をする理由というのは全然なかった。何故、あなたは高校生なのですか、とか、なぜあなたは大学に行くのですか、という質問は本当ならあっても良いはずのものだけれど、今の日本社会にあって、そういう疑問を投げかける人はめったにいない。大概の人は適当な年齢の若者は高校に行き、それが終わったら更に大学や専門学校に行くものだと思っている。けれどもそうした時期が終わって、去年の4月に始まった新しい生活は、誰にとっても当たり前の(と思われている)ものでは最早ありませんでした。同じ学校に通った人や親しいいろいろな人もそれぞれに異なる生活を始める中で、なぜ私はこの生活を選んだのかということを強く意識させられると同時に、自分の選択に責任を持たなければいけないという思いに常に捉われました。誰も私にこの選択を期待していないし、強いていない。私自身が自分で、しかも主流のあり方には逆らう形でこの選択を下したのだ、という思いがありました。けれども、その中でも確信を持って自分が正しい道に進んでいると思えることは案外少なかった。というよりも、自分がどこかへ向かっているのか心許なくなったと言う方がいいのかもしれません。自分が選んだ道については、間違っていると思ったり後悔したことはないし、関心のある事柄に日々心を砕くことができるのはとても幸せでした。ただ、そのことを通じて自分はどうなっていくのかについては見通しを失ってしまったということです。見通しがなくなってしまったからには、それが現実かどうかは別としても自分自身で何かしらの像やヴィジョンを組み立てるしかなく、それがこのブログの中でも繰り返し拘ることになった生き方や夢として立ち現れてきたのだと思います。それでも、私は1年を通じていろいろな人や考えや出来事に出会い、自分を説得し続けることで、何とか進んで行くことができました。傍から見ている人の方がこの人はどうなってしまうんだろう、と不安に思うような生活をしているのは分かっているけれど、私は賽を投げ続けているのだと、それなりに自分で納得することができていると思います。

それから、周囲の近しい人達が同じように自分で下した選択と様々な苦しい形で向き合わざるを得ないのを目にしてきたことにも強く影響を受けました。もともと、やっぱり流れに抗う傾向が強い人との交わりが多かったこともあるかもしれないけれど、確信は無いまま、何はともあれ掴み取った新しい生活に挑んでいった人がとても多かった。そして、なんとなく本人が予想していたように、選択の過ちを認めてしまった人、思いもかけない理由から挫折に追い込まれていった人が何人もいました。今は寄る辺の無い立場にあるために、そして、それが大多数の同年代の人々とは異なる立場であるために、彼らの言葉から不安が垣間見えることはとても多い。そして、それは私にとってもとても馴染み深い感情でもある。けれども、再び賽を投げるためにテーブルにつくこと、再び勝負に挑むということ、それはいつだって、何度だってすればいいじゃないか。少なくとも、私達はその機会を与えられていて、妨げるものは何もない。それは非常に幸運なことではあるけれど、だからといって、それを敢えて捨てて心にもないことにしがみつく理由なんてどこにもない。人は甘いと言うかもしれないけれど、愚かな挑戦者だと言うかもしれないけれど、そんなことは自分で決めることだと私は思っています。

今年度が始まった頃、春の陽気の中で"Roll of the Dice"を聴くことがとても多くて不思議に感じていたのだけれど、今になってみると、この曲が1年間を予示する内容であったことに気づいてはっとさせられます。或いは私は知らず知らずのうちに生き抜く術をここから学んでいたのかもしれない。ブルースは、歌詞の中で「愚か者の楽園(fool's paradise)にいる」のだと言っていて、自分が夢を見ているかもしれないことや、勝負の結果が不確かであることについて、本当はとても冷静に見据えています。時々、胸が冷たくなるような不安に襲われることもある。現実が見えていない訳でも、人が思っているほど愚かな訳でもない。それでも、愚か者の楽園で自分を鼓舞して賭金を上げて、賽を振り続けるのだと。

■歌詞と和訳について。
サイコロ賭博のルールについて調べてみると、最も基本的なゲーム「クラップス」のルールでは、7か11が出ると、賽を振った人の勝ちになるということです。反対に2、3、12では負け。
そして、その他の目が出ると引き分けでゲームが続いていくという仕組みだそうです。それを踏まえて歌詞は以下のように訳をしました。

All my elevens and sevens been comin' up

⇒「11や7がじきにまとめてやってくる」
⇒「じきにつきが回ってくる」

Sixes and nines

⇒「6や9が出ている」
⇒「勝負は決まらないまま」