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遠い家への道のり (Reprise)

Bruce Springsteen & I

Butch Walker "The Weight of Her" (Live @Stone Pony, 2013/10/30)

2013-12-11 02:22:32 | In the U.S.A.
さあキャプテンのお通りだよ
爆竹みたいな彼女 スキニ―ジーンズを履き
蜂蜜のような唇をして
ガソリンの跡を残していく
親父さんよりもウィスキーを呑むんだぜ
歌まで歌えて
お喋りな連中は
彼女の世界に君が絡めとられていると言う

通りで噂が広まる
彼女はコカインの匂いが好きで
シャンパンと混ぜるとやばいことになるって
檻に閉じ込めておかなきゃ
君の方が生き延びられない
今頃、他の女の子なら誰でもいいのにって
後悔しているんじゃないの

彼女の世界の重みに
引きずられちゃだめだ
部屋に入れてぼろぼろにされるようなことをしちゃ
彼女の手にふれて
傷つけられたりするなよ
今も
この先も2度と

6時45分に起きると
彼女は布団に入ったばかり
読んでもいない大量のメッセージを
携帯から消す
彼女が欲しいのは君だけだけど
それはもっと遅い時間、彼女が酔ってラリっている頃
よく考えてみなよ
彼女の世界に絡めとられているだけだろ
スウェーデン人の女の子たちが
ホテルの外で待っているけど
グリーンカードのために寝たいだけ
君のこともよく知っているんだろうよ
映画のワンシーンみたいな
真っ暗なエンディングが見えるだろ
今頃 他の女の子なら誰でもいいのにって
思っているところなんじゃないの

そもそも君と一体何の話をすればいいって言うんだろ
君が生まれた年に僕は高校を卒業してるんだよ
運転係をやりながら君のちゃちなカーステで
君が自分で発見したと思っているバンドのCDを焼いたやつを聴いたりしたくないんだよ
心許ない気分になるだけなんだ

ENGLISH


前回に続いて、アズベリー・パークのストーン・ポニーでのブッチ・ウォーカーのコンサートについて。

ブッチ・ウォーカーを私が知っていたのは、かつてのカリフォルニアへのひとり旅があったからでした。その頃は、ニューヨーク州北部の雪がどさどさ降るオルバニーという街に滞在していたので、冬休みを使って、カリフォルニアをあちこち歩き回ったりしていたのでした。カリフォルニアのどこかで夜に大きなCD屋さん(ヴァージン・メガ・ストアだった…?RIP)を見つけ、そこで面出しして並べられて試聴機に入った『Sycamore Meadows』(2008)を目にしたことや1曲目の"The Weight of Her"を聴いて、すぐに好きになったことなんかをよく覚えています。けれども『Sycamore Meadows』はいつでも、このカリフォルニアの思い出のために少し特別な存在ではあったけれど、アルバム自体はそれほど心に残ることはありませんでした。"The Weight of Her"は折にふれて聴いたり、今年になっても走るときに聴いたりしていたけれど、暫く聴くとそのうちまた聴かなくなる、ということを繰り返したりしていました。結局のところ、あまり思い入れることができなかったのだと思う。

だから、そんな薄いつながりが、大好きなフランク・ターナーのコンサートさえ凌いでしまうかもしれないくらい、忘れられないコンサートに結びつくというのは、本当に驚くべきことでした。「次の水曜日にストーン・ポニーでブッチ・ウォーカーを観るんだ」とアズベリー・パークで出会った人が言ったときに、私は「ふうん」と言わずに、「『Sycamore Meadows』を持っているよ」と答えることができた。このアルバムは、そのブッチ・ウォーカーが昔から好きだという人にとってもそれほど心に残っている作品ではないようだったけれど、それでも、少なくともそんな話ができたし、そういうところから、じゃあ私も行ってみようかな、という気持ちになりました。

私はブッチ・ウォーカーがどういう人か全然知らなかったし、見た目も『Sycamore Meadows』のジャケットを見て、お洒落そうなハンサムな人、という印象を持っていただけでした。だから、ストーン・ポニーに行って、ピアノから離れてステージに立った彼が、『Sycamore Meadows』のアートワークのような綺麗な艶のある黒髪のあごの細いお兄さんではなくて、結構普通のおじさんだったことがすごく印象的でした。でも彼の姿を見て、お客さんたちの穏やかさや和やかさになんとなく納得がいった。超売れっ子のプロデューサーやソングライターというイメージがあったから、スター然とした雰囲気を想像していたけれど、彼はとても気さくで、暖かい感じのする人でした。そして、彼ならではのキャッチーな曲の助けもあって、曲や彼のことをほとんど何も知らなくても、親しみを感じられたし、その場の居心地がすごく良かった。

ショウの半ばで"Let It Go Where It's Supposed To"という曲が演奏されて、それが今回の旅の中でも最も心に残った出来事のひとつである、ということは前回の記事の中で書いたのですが、そのすぐ後に演奏されたのが、私が唯一知って(覚えて)いた曲だった"The Weight of Her"でした。そしてそのこともまた、なんだか運命的に感じられたのです。『Sycamore Meadows』を買ったとき、5年後にこんな所で、ブッチ・ウォーカーを観ているなんて、夢にも思わなかった。だからやっぱり彼は正しいのかもしれない。人生なんて窓の外に干しておけばいいのかもしれない。風をとらえて、アズベリー・パークでのコンサートに辿り着くかもしれないのだから。間奏の部分では、"Baba O'Riley"を挿入していたのも彼の真っ直ぐさを感じたし、最高に気持ち良く、胸がいっぱいになりました。

この日はハロウィンの前日だったからか、メインセットの後、バンドは黄色い全身タイツ姿でステージに再登場して、"Hot Girls in Good Mood"を演奏しました。ブッチも頭まですっぽりと黄色いタイツをかぶっていて、それでもちゃんと歌を歌ってギターを弾いていたので、すごいな、と感心したものです。途中で頭だけ脱ぎたくなったのに、脱げずにもたもたしていると、バンドの人とローディさんが助けに来たりしました。ブッチは間奏に入ると、ステージから降りて人をかき分け、いちばん後ろのバーカウンターまで行ってお酒をあおると、お客さんの真ん中に戻ってきた。それが、ちょうど私の目の前でした。隣にいる、ブッチのことが昔からずっと好きなんだ、と言ってコンサートに誘ってくれた人のことを思うと本当に嬉しく、彼がどんな顔をしているか振り返らずにはいられなかった。どれだけコンサートに通っても、こういうことはいつも起きるわけじゃない。そういう特別な機会を、ブッチのことがそれだけ好きな人と共有できてとても幸せだった。そして、黄色い全身タイツの彼を目の前にしているのはどう考えてもひとりでいるより、誰かと目を丸くして見ている方が楽しい。すぐ傍で見ているとブッチはお腹もぽちゃぽちゃで、全然スターという感じではなくて、ハロウィンだからと差し出されたお菓子をむしゃむしゃ食べたり、背中にお菓子を投げつけられたりしていた。でも、そんな雰囲気が本当に素敵でした。そして、彼はしゃがませたお客さんに、してほしいことがあるのだと言いました。「亡くなった父親はきっと今頃、僕のことを見てくれていると思うんだ。だから僕がカウントしたら、みんな一斉に跳び上がって叫んで踊ってほしいんだ。ここはニュージャージーだからな。みんな恥も外聞もないだろ!殆どの人は白人で、どうせ踊れやしないんだから、好きにやってくれよ!」。すると、「おれ、黒人だよー」という陽気なお兄さんが現れて、「確かにどう見てもあんたは黒人だ」とブッチに脇へ呼び寄せてもらったりする。そして、ブッチがせーのでカウントすると同時にみんなが一斉に跳び上がり、銀テープや紙吹雪がばっと会場に降り注いだ。

アズベリー・パークは、ずっと日本の真冬のように寒い日が続いていたけれど、この日は上着が要らないくらい暖かい気温が夜まで続いていました。ブッチ・ウォーカーが好きだという人に、少しだけボードウォークを歩きたいと頼むと、いいよと言ってくれた。そして、ボードウォークを降りて、浜辺をどんどん海の方へ歩いて行くと、あっという間にボードウォークの明かりは遠くなって、波の音が大きくなる。"4th of July, Asbury Park (Sandy)"の歌詞を思い出すような、ボードウォークの煌めきや星空が本当に綺麗で、夢のようだった。




Butch Walker "Let It Go Where It's Supposed To" (Live @Stone Pony, 2013/10/30)

2013-11-30 16:29:42 | In the U.S.A.
朝にはその日1日について最良の決断を下し
夕方にはいろんな最悪なことを決めてしまう
毒が回ってくるから
母親が言っていたっけ
あれこれ考えすぎないで時々は頭を使えばいいのよって

なるように任せればいい
人生なんて窓の外に干しておけばいい
もし風に乗って 2度と目にすることがなかったら
きっとそういうタイミングだったってことなんだろう

ファストフード店やショッピングモールだらけになる前のこと
親父は土地を持ち続けるか売るかの選択を迫られて
20エーカーの土地だったけどいつだって売るのは拒否していた
だけどとうとうトラクターが入ってきて
僕は親父が心の内を見せまいと平気なふりをするのを見ていた

親父は言ったよ なるように任せればいい
人生なんて窓の外に干しておいて
もしも風をとらえて飛んでいき 2度と戻って来なかったら
きっとそういうタイミングだったってことなんだろう

今では僕自身が大人になって 親父の骨は塵になろうとしている
僕にも苦労を重ねて育てていく息子ができた
死んだ親父の半分の歳にはなってくれますようにと思うんだ
歳を重ねてもうすべて経験済みだと思っても
死に対する心構えなんて得られない
だから僕がいなくなる前にこうした言葉を受け取ってくれよ

なるように任せればいい
人生なんて窓の外に干しておけばいい
もし風に乗って 2度と目にすることがなかったら
きっとそういうタイミングだったってことなんだろう

ENGLISH


3週間半のアメリカ滞在のなかでも、とりわけ印象深かった出来事といえば、アズベリー・パークのストーン・ポニーで観たブッチ・ウォーカーのコンサートでした。私は彼のアルバムは『Sycamore Meadows』(2009)を持っているだけだったし、それもあまり入れ込むことはないアルバムになってしまっていたけれど、数日前に別のコンサートで出会った人が彼の大ファンで、ぜひ来るといいと言って誘ってくれました。ハロウィンの前日のコンサートでした。

ショウはソールド・アウトになっていたようで、少し遅れて行くと、ストーン・ポニーはもう人でいっぱいでした。ブッチ・ウォーカーはピアノを弾きながら"Joan"を歌っていて、正確にはどこにステージがあるのか、彼がどこにいるのか私にはよく分からないくらいだった。それでもぎらぎらした熱狂というよりは、なにか暖かくて穏やかな雰囲気がお客さんのなかにあったのがとても心に残っています。カリスマ的な人を迎える、というよりも、暫く会っていなかった友達や親戚を空港に迎えに行くときのような高揚感。私の場合は、ブッチ・ウォーカーに特別な思い入れがあった訳ではなくて、その彼のファンだという人の思い入れを聞いて心を惹かれたり、アズベリー・パークの伝説的なライブハウスとされているストーン・ポニーでコンサートを観てみたくてやって来ていたので、そういうコンサートでは、結構お客さんの方に注意を惹かれたりする。みんながどんなふうに、ブッチ・ウォーカーのどんなところに心を奪われているのかが気になったし、その様子はとても素敵でした。ブッチ・ウォーカーはどちらかというと、ミュージシャンとしてよりもプロデューサーとして名前をよく知られた人だと思うのだけれど、ストーン・ポニーに来ている人達にとっては、そんなのは全然関係ない、彼が誰と仕事をしていようと彼が書いて、彼が歌う曲が好きなんだな、と感じて心が温まるようでした。どの曲も歌詞を知っていて、たくさんの人が大切そうに歌っていた。それが、日常を忘れて没頭する、というよりも、日常と地続きの雰囲気を持った不思議な落ち着きのあるものだったのが心地良かったし、特別に感じた。

たぶん、それだけでもこのコンサートはそれなりに思い出に残るものになっただろうし、ブッチ・ウォーカーのことも前よりも好きになって他のアルバムを買ったりもしたと思う。でも、それが決定的に変わり、この夜が忘れ難くなったのは、ショウの中ごろでブッチ・ウォーカーが少し長い話をしたからでした。それは、彼の最近亡くなったばかりのお父さん、ビッグ・ブッチとジョージアの故郷の話でした。カーターズヴィルという彼の育った町は、小さく、保守的で、彼のお父さんもそんな町を反映した心性の持ち主だったそうです。だから、ブッチがやりたいようなロックミュージックに対して理解があったとはとても言えなかった(それは後年大きく変わることになるのだけれど)。それでも、ブッチは自分のやりたいことがロックンロールバンドであるとはっきり分かっていたから、高校を卒業すると、僕は大学には用なんかないんだと言って、バンドをやるためにカリフォルニアへ行くよ、と父親に告げます。それに対してお父さんは、「そうかい、じゃあ空港まで送ってやるよ」とだけ言った。「でも、その後に父親が言ってくれたことは、本当に素敵なことで、今でも忘れることができないんだ」とブッチ・ウォーカーが言ったとき、私には彼のお父さんがブッチに何と言ってくれたか、殆ど一言一句違うことなく分かった。「たとえカリフォルニアでうまくいかなくても、失敗しても、ここへ帰ってくれば、いつでもここがお前の家だからな」。それは、何年か前に私がオルバニーという町にいた頃、私自身の父親が私に言ってくれたことと同じだったからです。

今回のアメリカ滞在は3週間半に過ぎなかったし、その場その場を切り抜けていくことに精いっぱいだったということもあったし、そもそも、私の普段の生活は今は東京にあって、故郷の小さな町にはない。だから、シアトルやニュージャージーにいて、困難なことがあっても、それは私がなんとかするしかないことだと思っていたし、そうしているような気持ちになっていた。はっきりとそう考えたわけではなかったけれど、故郷のことはとても遠く、まるで切り離されたかのように、あたかも存在しないもののようにも感じられていた気がする。そんなときに、ブッチ・ウォーカーが彼の小さな故郷について話すのを耳にして、自分の育った町のことが唐突にものすごいリアリティを持って迫ってきたのでした。そしてとても胸を打たれた。今私が夢にまで見たアズベリー・パークのストーン・ポニーにいるのも、かつて父がそう言ってくれたように心から思い、私がどれだけ不甲斐なくても、見込薄でも、結果の如何にかかわらず、私を支えてくれているからなのだということを考えずにはいられなかった。私の父と母はそれぞれに愛情の示し方がずいぶん違っていて、子供にとって言葉を介さない父の愛情というのは実感するのにより時間がかかるものでした。それに加えて父親が普段、どんな現実に直面しているのかを知る想像力を私が得るのにも長い時間がかかりました。でもだからこそ、それをいちど身に染みて感じて、父のことを以前よりもよく知ったと思ったとき、自分がいかに多くを父に負っていることかと驚きを持って実感しないではいられませんでした。そして小さい頃の父との思い出がもっと意味を持つようになり、自分の多くの部分がどこからやって来たものかを理解するようになった。そして、それはみんな今のこのアズベリー・パークのストーン・ポニーでの、ブッチ・ウォーカーのコンサートにまで何らかの形でつながっている。私は好むと好まざるとにかかわらず、根なし草なんかじゃない。ブッチが父親についての話を終え、彼に捧げると言って歌ったのが今日取り上げた"Let It Go Where It's Supposed To"です。

Setlist:
Joan
Passed Your Place, Saw Your Car, Thought of You
Don't Move
Mixtape
Freak of the Week
Peachtree Battle
Going Back/Going Home
Pretty Melody
Let It Go Where It's Supposed To
The Weight of Her
Closest Thing to You I'm Gonna Find
I've Been Waiting for This
Coming Home
Synthesizers
She Likes Hair Bands
Summer of '89
The 3 Kids in Brooklyn

Encore:
Hot Girls in Good Moods

Wilson Pickett "634-5789" & Hostel 89 in Brooklyn

2012-12-08 05:37:23 | In the U.S.A.
もしちょっとした愛を求めているなら
電話をくれたらいいよ
もしちょっと抱きしめてくれるくれる人が必要なら
電話をかけなよ ベイビー
俺は家にいるからさ

受話器を取って
番号を回すだけでいいんだよ
634-5789って
(俺の番号は何だい)
634-5789

もしちょっと抱きしめてくれる人が必要なら
俺に電話しなよ
今の君がしなきゃいけないのはそれだけ
ちょっとキスをしてくれる人を求めているなら
電話をくれたらいいよ
孤独な夜とはもうさよなら
君はひとりぼっちになりそうだって?

受話器をとって
番号を回すだけでいいんだよ
634-5789って
(俺の番号は何だい)
634-5789

きっとそこに行くよ
できるだけ早く
もしも少しばかり遅れても
分かってくれるといいんだけど

俺に電話しなよ
634-5789に
そうすればもう君はひとりぼっちにはならない
634-5789
(俺の番号は何だい)634-5789
(それが俺の番号)634-5789

ENGLISH


あっという間に12月になってしまって、もうこちらの更新もあと何回できるのかな…と思うとできなかったことが多すぎてちょっと愕然としてしまいます。やります、と言ったことをやらないというのはこのブログの定番のようになりつつありますが(すみません…)、それにしても今年は何だかこんなことが多かった気がする。いろんなことをやり遂げられないままどんどん時間だけが過ぎてしまったような。

1つでもけじめをつけるために、4月の旅のお話を今回と次回で完結させます。どちらかというとメモであり、旅先で出会った人たちへのお礼のようなものでもあるので長くてつまらないかもしれません。今回は、私がアズベリー・パークを去った後、暫く滞在していたブルックリンの「ホステル89」というホステルについてです。今日、ウィルソン・ピケットの"634-5789"を取り上げたのは、最後の2桁が89だったからというそれだけの理由です。でも、ブルース・スプリングスティーンもその頃、"Apollo Medley"と称して、テンプテーションズ"The Way You Do the Things You Do"と共に歌っていたので…(一時、セットリストから外れていたようだけれど、アリゾナ公演ではサム・ムーアの客演のときに2,3か月ぶりに演奏されました)。『Wrecking Ball』ツアーの前半では、この曲が大体真ん中くらいで演奏されて、セットリストの重要な軸になっていました。というのも、ここでブルースが客席に駆け込んでクラウドサーフでステージまで戻るということが半分儀式のようになっていて、それがブルースの考える、コンサートではバンドもお客さんもお互いに力をもらって家へ帰る、という助け合いの理想が体現されているというような受け留め方もあったからです。手から手へとブルースの身体を運んでいく儀式にお客さんが参加する、というのは確かにシンボリックな光景であるように思います。ブルースの汗だらけの背中や靴や頭やお尻を支えた人たちは、きっとその重みや熱を忘れないだろうし、彼が運ばれていくのを横目に見た人びともそうだろうし、それは特別な経験として心に残るに違いないと思います。たぶん、辛い時の支えにもなるんだろうと思う。私はスタンド席にいたし、展開を知っていたけれど、それでもやっぱりどこか強い印象を受けた気がします。

ホステル89もある意味、コンサート会場のような趣きのある場所でした。いろんな、たぶん、普通に自分の日常生活を生きていたら出会わないような人たちが1つの目的のために偶然集まっているという点で。私がホステル89を選んだのは、とにかく安い所に泊まりたかったからです。だから、場所はマンハッタンではなくブルックリンだったし、それなりに良い地域かなと思いこんでいたら、ベッドフォード・スタイヴセントというJay-Zなんかが育ったような地区の一部だったようです。マンハッタンから乗った地下鉄を降りた途端、雰囲気ががらりと変わって通りはゴミが散っているし、街角には警官が立っているし、歩いている人にも人種的に偏りがあった。ホステル89があるはずの場所もただのアパートみたいなので、困り果てて、おまわりさんに尋ねたら、「どうなんだろう、呼び鈴を押してみればいいんじゃない」と言うので仕方なくそうした。実際にそこがホステルだったのですが、普通のアパートを勝手にホステルにしているだけで無許可の違法宿なんじゃないかという話も後から聞きました。中は地下に1部屋、1階に2部屋のベッドルームがあって、ぐらぐらする無骨な金属枠の2段ベッドが詰め込んである。1階には共同のバスルームとキッチンとリビング。何だかとんでもないところに来てしまったのかな、と思っていたのですが、ここで沢山の人に出会いました。

1.日本人女性のMさん
彼女はお客さんではなくて、マンハッタンに住んでいる若い方なのですが、ホステルに着いて30分も経たない頃にたいへんに助けてくれた方でした。そういう無許可のビジネスだったからか分かりませんが、ホステルはクレジットカードの支払いができなくて、私には1週間分くらいの宿泊料を払うだけの現金がありませんでした。マンハッタンに出れば日本のカードでお金を出せる所はあるのだけれど、この付近にはない。その時、たまたま会った彼女が一緒にいたお友達と彼女が持っていた現金を合わせて貸してくださったのです。初めて会うこんなホステルに泊まっている人にいきなり300ドルくらい貸してくださる人がいるなんて思いもしませんでした。後からも心配して連絡をくださり、とても優しい魅力的な人でした。

2.ゲアレス、バクル、ルイーズ、チャン
この4人は、私のルームメイトでした。それぞれ、ウェールズ、シリア、イングランド、カナダ(韓国)から来ている人たちでした。私のベッドルームは1階にある、2段ベッドが2台しか入らない狭い部屋です。風通しが悪くて、外は寒いのに日中は信じられないくらい暑くなる。そこに入れ替わり人が来てはいつの間にかいなくなる。ベッドは空いているところを好きにとっていい。私が着いたのは週末前だったので丁度誰もいなくて、4つあるベッドを私がいちばんにとることができた。その後、ゲアレスが来た。彼は、私が日本人と聞いて、「へえ、ベトナムで1人だけ日本人の人と知り合いになったよ。でも君と知り合いな訳がないから名前は言わないけれど」と言っていた。私は翌晩から、アズベリー・パークが恋しくなって荷物を置いたまま2晩ホステルに戻らず、彼はその間にカウチサーフィンをやっているブロンクスのドミニカ系の家庭へ移っていったので、会った時間はとても短かったです。けれども、私が戻らない間、彼が(地域が地域だったので)心配して、宿の管理人に私の名前と苗字を聞いてフェイスブックで探して安否を確認してくれるということがありました。それで私たちに共通の知り合いがいることが分かり、彼がベトナムで会った日本人というのは、私の留学時代の先輩だったことが分かったのです。いろんな親切な人がいるし、いろんな信じられないことが起こる。

バクルはシリア人の医学生でしたが、私が会った中で誰よりも彼がホステル周辺の治安を心配していたことが少しおかしかった。偏見かもしれないけれど、シリアの方が危ないようなきがするのだけれど。彼はたぶん、あの宿が大嫌いだったと思う。私が虫に刺された時に、塗り薬をくれたやはり親切な人でした。

ルイーズは同じベッドルームになった唯一の女性でした。百戦錬磨のバックパッカーで、翌日にはロンドンに帰るけれど、その前にニューヨークを少し見て回るつもり、と言っていました。でも、お金が全然ないからただで観られるものしか観られないとも言っていました。へそピアスに耳にも沢山ピアスをつけたワイルドな女の子だったけれど、故郷では小学校の先生をしていたそう。長いこと家を離れていたから、そろそろ帰って家族に会うのが楽しみだと言っていました。

チャンは、カナダの大学に通う韓国人の大学生で、もうじき卒業して帰国してしまうので春休みを利用してボストン、ニューヨーク、マイアミを旅しているところでした。中南米でもバックパッカーをしたことがあるのでホステル89なんて全然問題ないよ、と言っていた。彼とは半日、プロスペクト・パーク9.11メモリアルに一緒に行って、ぶらぶらといろんな話をしたのだけれど、印象的だったのは、神様はいるだろうかという話だった。彼は結構真剣にそのことについて考えていて、いるか分からない、まだ心を決めかねているけれど、いるとしたらきっと1人しかいなくてすべての宗教はその1人についてそれぞれ異なる解釈をしているだけなんだ、と言っていた。どうしてそんな話になったのだろう?

3.ティム、ジャスティン、ヨハネス、たかしさん
最後の2晩は、リビングルームで他の人達と喋ったり、好きなことをしながら過ごし、彼らはその時知り合った人たちです。ベッドルームが狭すぎるのと、Wi-Fiの接続が悪いせいで、みんなリビングルームに出てくる他にどうしようもないので集まっていると、なんとなく飲み物や食べ物を買いに行こうと言って近くのコンビニまでぶらぶら一緒に出かけたり、話が始まったり、終わったりする。

ティムは、アトランタから出てきたという黒人の男性で、額に大きな雫形のあざがあるのがとてもクールな温和な人だった。彼は、人口1000人の町で生まれてから死ぬまで、同じ家、同じ隣人、同じ仕事と永遠に付き合い続けていくなんて絶対嫌だと、新しい生活を求めてニューヨークへやってきたという映画の主人公みたいな人で、その時は仕事を探している途中で、ホステル89には、泊まっているというよりも、一時的に住んでいた。だから、他の観光客のようにせかせか出かけていくということもなく、日中や夕方の早い時間でもリビングルームのソファに寝転がってパソコンで映画を観たりしていた。私がブルースのコンサートのためにニューヨークに来ているというと、コンサートなんてデスティニーズ・チャイルドくらいしか観たことないわ!あれは良かったなァ、というような話をしていた。今では不動産の仕事を見つけて、ホステル89も去って、夢見た通りのニューヨーク暮らしをしているようで良かったです。

ジャスティンはオクラホマのオマハから来たデザイナーで、大体ティムと同じような状況だった。仕事ができたからニューヨークへ移ってきたけれど、今はお金がないからいつホステルを出られるか分からないということだった。"Omaha"という(モービー・グレイプの)曲を知っているよ、と言ったら、「うん、僕も知ってると思う」と言われて、同じ話を彼はもうニューヨークに来てから58回くらいされているんじゃないかと思って反省しました。オマハには他に何があるんだろう。彼とは1晩しか話さなかった。というのも彼はその後、もうどこかで知り合った女の子と仲良くなってホステルに連れてきて、ベッドルームにこもっていたから。他の3人のルームメイトが帰ってきたらどうするんだろう、と時々気になった。

ヨハネスは、スウェーデンから来ているとてもお洒落な建築学生だった。「タドゥー・アンドゥーは素晴らしいよね!」と言うので、誰かと思ったら安藤忠雄のことで、私が全然知らない日本のいろんな場所にある安藤忠雄の建築の話をしてくれて、何だか不思議な気持ちになりました。そして、私がブルースファンだと言うと、なぜかとてもおかしがって大笑いをするのですが、ブルースについていちばんよく知っているのも彼でした。彼自身はそんなに興味ないけれど、スウェーデンにブルースが来ると大騒ぎになるというようなことを言っていました。クラレンス・クレモンズが亡くなったことも知っていて、今はどうしているの、と訊いたり、ジョニー・キャッシュ"Further on up the Road"のカバーが好きだと言ってパソコンでみんなに聴かせたりしていました。

たかしさんは日本人のバックパッカーの方で、2年をかけてもう殆どぐるりと世界を廻ったということで、とても落ち着いた人でした。あまり沢山は話せなかったけれど、バックパッカーとして世界1周をひとりでやり遂げるには、ずいぶん精神力が要るんだろうな、ということを感じました。将来についても自信やヴィジョンがあってとても頼もしかった。私には無理だと思う。

4.ナビ、ティト
ホステル89で私がいちばん親しくなったのが、ナビとティトでした。ナビは、今回出会った中でもなんとも印象深い人でした。トルコ人だけれど今はスイスに住んでいる彼はキャンピングカーで何か月もアメリカ中を旅していて、最初に来た時も同じホステル89に泊まっていたそうです。そして、もうすぐこの長旅を終えるということでまたニューヨークに戻ってきているという人でした。とても人懐こいひとで、最初は地下のベッドルームにいたのですが、地下は暗くて空気も悪いから嫌だと言って、ゲアレスがいなくなった後、空いた私たちのベッドルームに引っ越してきて、いろいろ話をしてくれた。アメリカでいちばんの場所はテキサスにあるカールズバッド洞窟群だと言っていた。岩(洞窟?)の写真やこれまでの旅で彼が撮った写真を数百枚見た気がする。有閑階級なのかボンクラなのかよく分からないのですが、40歳で仕事も何もしていないと言っていて、どうやって暮らしているのかと訊いたら、「安く暮らしている」と答えていたのが忘れられません。「スイスでもキャンピングカーで暮らしているから」と言うけれど、そういう問題ではないような気がする。でもそののんびりした感じがとても素敵でもありました。ブルースはいいアーティストだ、"I'm on Fire"が好きだね、と言っていました。そしてパソコンで"Born to Run""Streets of Philadelphia"なんかをかけてくれた。でもその一方で、いろいろこだわりがあったり、悲観主義的なところがあったりして、iPadを使っているのに、「アップル製品はキライ」と力説したり、「僕は愛も神様もお金も信じていない」と断言したり、「人間の未来は暗い」ということを言い張って、ジャスティンとティトにそんなことはない、と強く反論されたりしていた。親に殆ど頼まれて2回結婚したけれど、うまくいかなかった、仕事しないで気ままに生きているから家族を持っている時間もお金もない、ということでした。トルコでは徴兵逃れをしたので、もうトルコには帰れないんだということを言っていたので、やっぱりボンクラなのかもしれない。極端に吹っ切れた好き放題な生き方だけれど、正直なところやっぱりちょっと羨ましいなと思いました。

ティトはスロヴェニア出身だけれど、スペインやカナリア諸島に住んだ後、今はリスボンに住んでいるというカメラマンでした。彼もアメリカを方々旅していて、それをすべてグレイハウンドの乗り放題チケットを使ってこなしているものだから、「バス男」と呼ばれていた。ニューヨークの後はナッシュヴィルまでバスで行くと言って、みんなを驚愕させていました。でも、ナビは彼がスティングに似ていると言って、スティングと呼び、反対にティトはナビがフランス人のサッカー選手のジダンに似ているといって、ジダンと呼んでいた。たぶん、ナビはティトのことが結構気に入っていたんじゃないかなと思います。ティトも人懐こい人だった。旅をしながらいろんなところで心を惹かれる人に出会うと声をかけて写真を撮らせてもらっていて、綺麗な写真を沢山見せてくれた。でも、30代だけれど写真が仕事になったのはここ2年くらいで、それまでは特に写真を専門的にやってきた訳ではないとも言っていて、それものんびりしていて良いものだなと思いました。彼とは1日、セントラルパークやグリニッジ・ヴィレッジを歩き回ったりもしました。

旅の最後の夜、ナビとティトは朝早く飛行場に行く私に殆ど明け方まで付き合って起きていてくれました。ティトも最初は地下のベッドルームにいたのですが、(彼はそれを「ダンジョン」と呼んでいた)新しく入ったアジア人のカップルの片割れの中年男性のいびきがひどすぎると言って、ナビと私のベッドルームに移ってきていた(いびき男性は、ちゃんといびきの自覚があって、ドラッグストアでいびき止めの道具を買ってきて、みんなの前で装着していたのですが効果がなかったようです)。朝早くに薄暗いベッドルームを去る時、さよならを言ったナビとティトがベッドの上からこちらを見ている姿が影のように見えていたのが忘れられない。

たぶん宿泊施設としては、ホステル89は、決して良いところではないです。口コミサイトのレーティングも悪いものの方がずっと多い。ロッカーなども何もないし、持ち物はすべていつも持ち歩く訳にはいかないから、ベッドルームに置いているものは、シャワー中や、出かけている最中は置きっぱなしになるし、実際にナビはスーツケースを誰かに破壊されてしまった(けれども彼はホステルのオーナーのユダヤ人男性にきっちり話をつけて、「あんたがここに置いておいても安全だと言うから置いといたらこんなめに遭ったんだ、弁償してくれ」と迫って、本当に弁償してもらったようです)。気ままな旅人だけではなくて、叶うか叶わないか分からない夢を抱えてそこで生活している人もいました。私がいる間に、いろんな人が入れ替わり立ち代り来たけれど、枕やブランケットはその間いつも同じだったし、運が悪いとバスタオルも貸してもらえないし、ネズミも住んでいるみたいだった。でも、今回の旅で私はホステル89に泊まったことはとても良い選択だったと思っています。私はひとり旅は全然辛いと思わないし、その間にいろんな人と話せなくても別にそれはそれで構わない。でも、今回ここで出会った人たちにはニューヨークにいる間も何かというと助けられたり、気に懸けてもらったりしただけでなく、今もどこか常に助けられているように思います。今の私の生活とは全然違う生活や可能性がどこにでもある、ということを確信させてくれる、という意味で。ホステル89の地下牢のようなベッドルームでも、ウェールズでもシリアでも韓国でもポルトガルでもスイスでも、そこでちゃんと私の会ったことのある人達が生活をしている。いつだって自分の生活から逃げ出すことはできる。勇気があれば。アトランタの小さな町やオマハを抜け出すように。でも、旅馴れたナビとティトとたかしさんは口を揃えてこうも言っていた「長い旅をしていると、それはもう休暇ではなくなる。2,3週間経つと、最初の高揚感や新鮮さはなくなって、もう後は仕事と同じ。何時に起きても、1日ホステルにいても気にしなくなる。それが生活(life)になるんだよ」。


Fountains of Wayne "New Routine"

2010-04-08 00:05:53 | In the U.S.A.
ダイナーの隅に2人の男が座っている
2人共かなりカール・ライナーに似ていて
1人は禁煙だと書いてあるのにタバコを吸っている
ウェイトレスが消してくださいと言っても
悪いけど無理なんだと言う
2人は互いが知っていると分かっているジョークを言い合ったり
不動産や前立腺やコストコの話なんかをしている
そして食事が終わるとテーブルに20ドル札を置いて出て行く
ウェイトレスは半分食べかけのベーグルと共にそれを手に取る
勤務時間が終わってミネオラへ帰ると
彼女はソファに腰掛け ダイエット・コーラを開けて言う

もう本当にこの場所にはうんざり 
今すぐにだって違う生活がしたい
何か新しい日常が欲しい
そこで彼女は地球儀を回して何と次には
彼女はリヒテンシュタインに住んでいる

彼女はドイツ語は話せない 高校で習ったスペイン語だけ
だけど数週間のうちにそれでも何とかやっていけるものだと気づいた
けれど銀行業とスキーの他には大した事もなく
それで彼女は付き合い始めたばかりの男と別れ
彼はメルセデスのディーゼル車で彼女を空港まで送って行き
1人考える 俺は女にめっぽう弱くて そして

もう今いる場所には飽き飽きした
今すぐにでも違う生活がしたい
何か新しい日常を探したい
そこで彼は帽子を手に取り
地図に向かってダーツを投げる
そして今や彼はボーリング・グリーンに住んでいる

彼はうまく自分を売り込み
ラ・キンタで仕事を得ると
マネージャーに恋をした
彼女は丁度カナダへ戻るところで
ロアノークもレイキャビクもローマにも住んでみた彼女は
あなたはとても素敵だけど私はもう家に帰りたいと言う

ダイナーの隅に2人の男が座って
1人は中国にでも旅行しようかな
こういう事ってあまりに歳をとる前にやらなくちゃねと言う
ありがとう でも結構
僕のエッグ・ロールを返してくれ
持って来てくれ

(参)カール・ライナー:映画監督ロブ・ライナーの父親で同じく映画業界で活躍している。
     ミネオラ:ニューヨーク市の東に位置するナッソー郡の村。
     ボーリング・グリーン:アメリカに幾つかこの名前の街があってどこか正確には分からないです。
     ラ・キンタ:アメリカに沢山あるホテル・チェーン。
     ロアノーク:アメリカの街。1番大きなものはヴァージニア州にあるようですが、やはり複数あります。


ENGLISH

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オルバニーという街に行く時には、必ず1曲はFountains of Wayneの曲が聴きたくなります。理由は大した事はなく、彼らの"Someone To Love"という曲の歌詞の冒頭の1節、「セス・シャピーロは法学を修めて ブルックリンからスケネクタディへ引っ越した」に由来しているようです。オルバニーはニューヨーク州の州都ですが、かの有名なニューヨーク・シティからはバスでおよそ3時間北上した所にあり、その辺りの地域はニューヨーク・シティ近郊と区別するために「アップステート・ニューヨーク」と呼ばれる事もあります。そんな区別が確かに必要だというのははっきり分かるくらいニューヨーク・シティとオルバニーの差は大きいです。そして、スケネクタディはオルバニーに程近い街なのです。私は1度も訪れる機会が無かったけれど、きっと雰囲気は近いと思います。

初めてニューヨーク・シティからグレイハウンドのバスでオルバニーに向かった時、高速道路の風景があまりに変わり映えしない様子に血の気が引く思いをしたのを覚えています。原っぱや山のようなものの他にはたまに見られるガソリンスタンドやモーテルの他には何もない。一体どうやって生活しているんだろうと思わせるようにぽつんと立っている家が幾つか。田舎だとは聞いていたけれど、まさかこんなに何も無いなんて、と思ったのでした。結局、それは杞憂であって、アメリカの高速道路というのは大抵そんなふうですが、人がまとまって住んでいる所はきちんと街らしく整っています。特にオルバニーは州都であるため州の行政機関が集まっています。そのため立派な建物も多く、交通の便も悪くなく(バスが沢山走っている)、ウォルマートだけでなくショッピングモールも2つありました。他の町から転校してきた人の話によると、遊びに行こうという話になったらウォルマートしか行く所がないというくらい何もない田舎町もアメリカには少なくはないそうです。それでも、例えば少しの移動時間でどんな娯楽も手に入る東京や大阪のような都市に比べるとやはり圧倒的につまらない、というのが大方のオルバニー評でした。何もないから週末にはパーティをしてお酒を飲むしかする事がない、そんな退屈な街だと自嘲気味に学生達が話すのをよく耳にしました。まさに今日取り上げた"New Routine"の舞台になりそうな街だという訳です。

けれども私はこの街にそれなりの愛着を持っています。オルバニーは歴史の深い街でアメリカ独立の遥か昔からヨーロッパからの入植が始まっていた土地でした。独立期の名士も大勢この地を訪れています。また、後に大統領となるフランクリン・ルーズヴェルトが州知事時代に暮らした土地でもあります。州議会が位置するエンパイア・ステート・プラザやブルース・スプリングスティーンが昨年5月にもコンサートを行なったアリーナのあるダウンタウンの周辺に残る家並みは古く19世紀半ば前後に建てられたもので、天気の良い週末にそうした通りを歩くのは素敵なものでした。また、そうした家々や議事堂とは対照的に、「エッグ」と呼ばれるホールや武道館のようなニューヨーク州博物館、そして何だか分からないけれどオルバニーのモノリスとでも言えるような超高層ビルなど非常に近代的な建物もその傍に集まっていて、行政がお休みになる休日の正午前などは、それほど立派な建物に囲まれているにも関わらず、広場はひっそりとしています。この独特な時間の流れを持った街に私は10ヶ月暮らし、それは私の人生の中でも特別な、それまでの生活とは比べ物にならないくらい新鮮なものでした。初めての外国での生活と、アメリカ留学と、ブルース・スプリングスティーンのコンサートを観るという長年の夢の結実と、どれだけ傍にいても時間が気にならない人との出会いと、想像もした事が無かったような人々との出会いがこの退屈極まりないと言われる街で起きたのです。今回、オルバニーを訪れる前には、きっとこれが最後の訪問になるだろうと思いました。オルバニーはちょっと行ってみようという気になる所にはありません。そして、確かにちょっと行ってみて何かをしよう、という所でもありません。議事堂も博物館も見てしまったし、ダウンタウンのカフェやレストランはまだま開拓したかったけれど、そのために行くという事はまずないと思います。それでも、去る間際になった時、これでもう2度とこの街を訪れる事がないのだと考える事はあまりにも悲しかった。この街がいつの間にかこれほど自分の中に根を張っていたという事は驚きでした。私は長い間自分が故郷を持たない「tramp」のように感じてきたからです。オルバニーは確かに故郷ではないけれど、私にとって慈しみを感じながら、ここに生活したのだと話をしたい街になったのです。私が"New Routine"の歌詞が好きなのは、結局新しい生活を求めてさまよった人々が期待を裏切られながらも、最後は家に帰っていくという結末を感じさせるからでした。より満足のできる暮らしを求めて出て行ったにも関わらず、その生活にも満足を得られなかったという成り行きは暗澹としたものにも思えるかもしれません。けれど、帰って行く場所、帰りたいと思える場所があるという事は本当は常に救われる事です。オルバニーは私にとって1つの避難場所になったのかもしれません。






Badly Drawn Boy "Something To Talk About"

2010-04-07 20:06:05 | In the U.S.A.
ある少年について知った事をずっと夢見ている
傷ついた少年
陽気に楽しもうじゃないか
痛みを知る事が無ければ喜びもこうはいかない

その事実によって
酸素を全部使って 僕は浅薄な人間で
更なる助けを必要としている
僕を受け容れるかそれとも自由にしてくれなくちゃ

話すべきこと
話題にすべきこと

ある少年について聞いた事をずっと夢に見ている
いちかばちかの挑戦のために全てを投げ打つ少年の事を
僕を受け容れるか それとも自由にしてくれなくちゃ

ENGLISH

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アメリカに留学する、という事の私にとって最大の動機は、ブルース・スプリングスティーンでした。彼の音楽に惹かれて、そうした音楽が生まれる土壌とは一体どのようなものなのかを自分の目で確かめたいという気持ちで、それは私にとってとても自然で、そのためにアメリカ東海岸に渡るという事は再考の余地のない事だったのです。しかしオルバニーで出会った多くの同郷の人々は経済学やビジネス、或いは英語教育に携わるために言語学やコミュニケーション学を専攻していて、歴史や音楽といった実践性のないものを学んでいた私はどちらかというと外れ者でした。そんな中で1人、哲学を専攻する人に出会えた事は私の中で小さな喜びでした。私にとって学問とは、必ずしも実益性がなくたっていい、何か世界をこれまでとは違った側面から眺め、その事から幸せを得るものです。歴史学はたぶん、社会に貢献するという意味では有益性は低いけれども、私にとっては生きていく上で大切な糧として働いています。そして哲学を専攻する彼を見ていると、彼にとっての哲学もまた、どんなに難しくてもついていこうと思わせる魅力を持つものであるように思えました。人に流されない芯の強さを持ちながらひたむきに哲学を学ぶ彼の様子は私にとって魅力であり、励みでした。

オルバニーを去る最後の夕方、私が時間潰しに図書館を訪れるといつものように彼に出会う事ができました。その日はとても穏やかな春のお天気で、彼はキャンパス内にある池のほとりに連れて行ってくれました。そこは昨年、私がオルバニーにいた頃から彼が好きだと言っていたけれど、私自身は1度も訪れた事のない場所だったのです。(アメリカの大学のキャンパスは本当に広いです。特に小さな単科大学出身の私にとっては巨大に見えます。)アメリカでは3月2週目の日曜日にサマータイムが始まり、夜7時くらいまでは明るい、日本の夏のような時間が流れています。私達が歩いたのも6時を過ぎた頃だったけれど、とても綺麗な夕空が見え、西を向くとまだ眩しいくらいでした。池は想像以上に大きく、傍の林の梢が水面に映る様子が何とも美しかった。そして、あひるが泳いでいるのを見つけると私は『アバウト・ア・ボーイ』の中で主人公の少年マーカスが池で石のように堅いパンをあひるにやるために投げたら、それに当たってあひるが死んでしまうというシーンの話をせずにはいられなくなりました。私にとってこの物語は、なかなかに大きな意味を持っているもので、この話をするという事も従って、私にとって何か意味のある事です。一見、それが何でもない話のように思えたとしても。私達の話は本当にどれもこれも一見、何でもない話のように思える事ばかりでした。奇妙な色の鳥の話や、交尾の後に雌が噛み付くと、雄は雌に同化してしまうというあんこうの話、真冬に雪をかき分けてこの場所を訪れた話、『スパイダーマン3』の奇妙な設定の話。それでも、何故か広いアメリカの空を染める眩しい夕日と滑らかな水面を眺め、春の匂いをかぎながら、歩いていた記憶が驚くほどくっきりと脳裏に焼きついています。

人にとって何が本当に大切なのかは表面的には分からない事です。そして、本当に大切なものが分かったところで、それがどんな意味のある事なのかはそう簡単に人には理解されないかもしれない。(先にリンクを貼った"Something To Talk About"のビデオを観てみてください。奇しくもこれも1つのそんな話です。)どうして雪かきもされていない道をはるばる歩いて、氷点下の中に池を見に行くのか。それはただただそこに惹きつけられるから。その場所が好きだから。そしてそれは全ての答えなのです。

「あなたがセルフレスな愛を注ぐ事のできる何かを見つけること。それがどんなに社会において実益性や有益性を欠くように思えても、セルフレスな愛によってそれは社会においての実益性や有益性を超えた本当の実益性や有益性を持つ事ができるのです。」
これは先日私がある先生から聞いた言葉です。いつかまた彼と一見何の意味もないような話をする事ができたら、何でもないようなふりをして、この先生の言葉を伝えられるといいなと思っています。