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遠い家への道のり (Reprise)

Bruce Springsteen & I

Bruce Springsteen "Long Time Comin'"

2011-09-13 06:29:18 | Devils & Dust
小川が浅く砂っぽくなるところ
そして星々の間をすり抜けて月が昇ってくるところで
風が丘の上からメスキートの木々を抜けて
僕の腕に流れ込む
僕の腕の中へ

僕は馬で旅をしているところ 集めたばらの花と
自分で仕上げたばかりの地図を携えて
今夜 僕は裸で生まれ この古い魂を葬る
そしてその墓の上で踊るんだ
その墓の上で踊る

随分長い時が流れたね
随分とかかってしまったけれど 遂に時が来たんだ

僕の父親は他人に過ぎなかった
ダウンタウンのホテルに住んでいて
僕が子どもの時分は そこいらの人でしかなかった
そこらで見かけるだけの人
ただそこらで見かける人

今では足元で僕のシャツを引っ張っている
子どもたちが僕にもいる
もしもこの神に見放された世界で1つだけ願いをかけるとしたら
いいかい子どもたち
過ちはその人だけのものであってほしいと思う
誰かの罪はその人自身のものであってほしいと

カシオペア座の腕の下
オリオンの剣が舞うあたりで
僕とロージー、君とはパチパチと音を立てる2本の電線のよう
そして君の安らかな寝息が聞こえる
君の安らかな寝息が

キャンプの炎がはぜ
2人の子どもは傍の寝袋で眠っている
僕は君のシャツの下に手を伸ばし その腹に両手を置く
そしてもう1人の子が内側から蹴っているのを感じる
今度こそしくじるものか

随分長い時が流れたよ
随分とかかってしまったけれど 遂に時が来たんだ

ENGLISH



もう2日前になってしまうけれど、11日の日曜日は2001年9月11日のアメリカでの同時多発テロから10年目になる日でした。日々の生活は連続しているものだから、10年が経ったからと言って、何かが突然に変わる訳ではないのだけれど、1つの節目として、今現在の立ち位置とそこへ至った道のりを考え直す機会としては意味があるように思ったので、どのような雰囲気の中で10年前の出来事がアメリカでは振り返られるのか私は興味深く感じていました。でも、マンハッタンやペンシルヴァニア、ワシントンDCで行なわれた式典の様子をテレビで観たり、New York Times特集記事を読んだり、幾つかの報道にふれた結果、私が最も強く感じたのは10年というのは同時多発テロほど大きな出来事を歴史化したり、客観視するには短すぎるのだろうか、という疑問でした。

10年と一口に言うと、それは随分長い時間のように思えます。私は中学2年生だった13歳から23歳になり、40代だった親は50代になり、その間に生まれた人も沢山いるはずです。でも、その一方で10年前の9月の出来事はそんなにも遠くのようには感じられない。アメリカの新聞を読んでいても口々に言われているように、多くの人がその日、その時に何をしていたかをとても鮮明に覚えていて、それは私にとっても同じことです。翌日の日記の出だしの1文まで思い出すことができる。遠い日本の中学生だった私にとってそうであるなら、自国の出来事として経験した人、そして特に直接に誰かを失くした人にとっては、精神的なショックや、悲しみが未だに続いていることも当たり前のことなのだとは思います。そして、式典や報道には、そうした感情面を尊重する向きが何よりも強いように私には感じられました。それは最も害の無い、たぶん慈愛に満ちたと言っても良い、善意や思いやりから生じたものなのかもしれない。10年前の大統領のように戦闘的な姿勢を示す訳でもなく、恨み言を言うのでもなく、悲しみと、それを支える温かみに満ちているようでした。
でも、そうだとすれば、悲しみはいつ乗り越えられて、いつから内省や本当の再出発は可能になるのだろう?どの国にもそういうところはあるのかもしれないけれど、私は幼い頃からアメリカに心を惹かれて、遠くから、近くからこの国を眺めてきた結果、アメリカは前を向くことにかけては誰にも引けを取らないほどの力を発揮するけれど、自己の過ちの歴史を丁寧に辿ることは本当に苦手な若い国だと感じています。だから、9/11もなにか自然災害のような不幸な出来事として、単にそれを乗り越えることだけに終始して、輝かしい国の再生の物語の1つとして終わらせてほしくないという気持ちが私には強くあります。謙虚な原因の追究や、その後の行動を真摯に評価し直す姿勢があってほしいという希望があります。

今日取り上げた楽曲は、ブルース・スプリングスティーンの2005年の作品『Devils & Dust』からの1曲です。直接には9/11とは関係のない曲だけれど、アルバム自体は「2001年以降」の厳しい社会の中から届けられたものでした。そして、"Long Time Comin'"は連続した時と場所の中で、過去ときちんと折り合いをつけて自分の道を歩んでいくことを歌っていると思います。歌の冒頭のイメージから既に、何かの流れや円環的な運動の中に主人公が位置づけられていることを感じさせるものになっています。どこかから脈々と流れてくる小川の透明な水や、ぐるりと地球の周りを巡る月、そして遠くの丘から自分の腕に吹き込んでくる風、というふうに。そして、曲の中心に据えられているのは、父親、主人公、その子ども達という3代に亘る人間の連なりです。長い旅路をやって来た主人公は今夜、再び生まれ直すのだと言っている。そこに至るまでは随分長い時間がかかったけれど、今がその時なのだ、と。大切なのは、その再生には過去と向き合うことが不可欠だということです。父親とは自分にとって何だったのか。彼の過ちとは何だったのか。それを知ることなしには過ちを父親だけのものに留めておくことはできず、「今度こそしくじらない」という決意を固めることもできない筈です。そうでなくては再生の意味がない。

確かに自分自身が実際に生きてきたからこそ、この10年間を客観的に、フェアに振り返ることはとても難しい。そしてNew York Timesの記事の中で引用されていたイェール大学の歴史家の言葉によると、ある出来事の意味とはその後に起こった歴史に左右されるということです。そうだとすれば、今の経済的に厳しく、文化的にも分断されたアメリカにはやっぱり内省の余裕はあまりないのかもしれない。それに、多くの出来事に関してまだ、現在進行形の問題として解決するべきことが残りすぎているのかもしれない。(ヴェトナム戦争の時のことを考えてみても、一応アメリカにとって終戦とされたのは、1973年のことだったけれど、ブルースが帰還兵についての問題提起である"Born in the U.S.A."を発表したのはそれから11年後の1984年のことでした。)
ですから、最初の私の疑問に戻ると、たぶん10年間というのはやっぱり十分に長くはないのかもしれません。きっと、「遂に時が来た」と言って過去と向き合えるまでにはもっともっと長い時間を要するのだろうけれど、そして、その向き合い方は論争を呼ぶかもしれないけれど、私はそれをきちんと目にしたいです。それを経て初めて、この10年間も葬り去ることなく、今に至る道として存在したことを受け容れることができるし、それは今現在のあり方を正々堂々と受け容れることにもつながる筈です。

最後に小さな事実を1つだけ:"Long Time Comin'"は本当は『The Ghost of Tom Joad』(1995)のツアーの頃からステージで演奏されていた曲だそうです。つまり、この曲も書かれてからアルバムに収録されるまで、大体10年の時を経ているのでした。