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遠い家への道のり (Reprise)

Bruce Springsteen & I

Bruce Springsteen "Prove It All Night"

2012-01-14 01:37:35 | Darkness
俺は力を尽くしてきた 正しい道に乗ろうと
今夜はモンローからアンジェリンへ 埃っぽい道を飛ばしていこう
お前に金の指輪といかした青いドレスを買いに
たった1度のキスでどちらもお前のものになる
今夜俺たちに起こることを封印する1度のキス
それを一晩かけて示すキスで

夜を徹して証明するんだ
他に俺たちにできることなんて何もない
だから一晩中 夜を徹して示すんだよ
そして俺は一夜をかけてお前に示してみせる

誰もが飢えを抱えている 決して抗えない飢えを
お前が求めるものはあまりに多いが 更に望んだって構わない
だがもしも夢が現実となったら それは素敵じゃないか
けれども今夜俺たちが生き抜くのは夢でも何でもない
いいか 望んだものを手にしろ そして代価を支払うんだ

夜を徹して証明してみせる
怯むことなんかない
一晩中 休むことなく示すんだ
俺はお前への愛のために示してみせる

白い長いリボンで髪を後ろで束ねて
発電所裏の空き地に会いに来てくれ
行くなという声を耳にするだろう
奴らは自分の選択を下したんだ
連中には決して分からない
盗みや欺瞞、嘘が一体何を意味するのか
生き、そして死ぬことがどんなものなのか

ENGLISH


1978年8月15日の演奏。
今日はブルース・スプリングスティーン『Darkness on the Edge of Town(闇に吠える街)』(1978)からの1曲、"Prove It All Night(暗闇へ突走れ)"を取り上げました。私が最初にこの曲を聴いたのは、『Live in New York City』(2001)の2曲目としてでしたが、コンサートの中でも演奏されればハイライトの1つになる楽曲だと思います。特に『Darkness』ツアーの頃の長い長いドラマティックなイントロをつけた10分前後に及ぶ演奏は、何だかなにかに憑りつかれているような鬼気迫る様子さえする凄まじいものです。私は曲も歌詞も、少しハードでタフすぎる気がして以前は他の曲に比べてとても好きという訳ではなかったのだけれど、近頃じわじわと心を惹かれるようになってきた1曲です。

最初にはっとしたのは、『The Promise: Darkness on the Edge of Town』(2010)に収められたドキュメンタリ『The Promise: The Making of Darkness on the Edge of Town』を観た時でした。この中にとても印象的なシーンがあるのです。話はミキシングに関する部分で、『Darkness』の楽曲のレコーディングは終わったものの、ミキシングで行き詰まり、ジョン・ランダウチャック・プロトキンというプロデューサーとして活動していた男性に助言を頼みます。それまでミキシングをしたことはなかったという彼が、結局ミキサーとして携わることになるのですが、最初に手を加えたのが、たぶん"Prove It All Night"だったとブルースは振り返っています。プロトキンが作業をする前にブルースは、曲について説明を与えたといい、それをプロトキンが話すシーンがとても印象深いところです。
ブルースの説明の仕方は、「君は映画館にいると思ってくれ。スクリーンではカップルがピクニックをしている。そこでカメラがぱっと、1つの死体に切り替わる。アルバムの中でこの曲は、必ずその死体の場面なんだよ」というようなものだったそうです。このブルースの言葉を話している時の映像と音がとてもいいのです。画面では再生機の上で回転するレコードが大写しになっている。「そこでぱっと」とプロトキンが言ったところで針がレコードに落ちて、"Prove It All Night"の「You hear the voices telling you not to go」という部分で最も耳に残る鍵盤の澄んだ音が零れ落ちるように聞こえてくるのです。それがまるで、その死体から血がしたたり落ちる音のように聞こえる。初めてこのシーンを観た時に、なんてかっこいいのだろう…!と思いました。プロトキンも言っているけれど、曲を書いた人からこのような表現で、曲のイメージを告げられるというのは、とても胸の躍ることだと思います。そして、プロトキンにはそれを実際に音にする力があった。その過程を想像するだけでも本当に興奮を誘われます。

歌詞は改めてじっくりふれると、アルバム『Darkness』の真髄のように感じられます。『Born to Run』(1975)が若者の見果てぬ夢とロマンを描いたアルバムであったとするならば、『Darkness』というアルバムは、現実との対峙が主題であると思います。夢ばかり見ている訳にはいかない。逃げ続ける訳にはいかない。ブルースはドキュメンタリーの中でこう述べています。

「大人の生活には多くの妥協がつきものだ。それは避けられない。多くのことに妥協を迫られる。その一方で、決して妥協したくないという自分の本質に関わる物事がある。それらを見極めていくんだ。自分の人生において、世の中を渡っていくために妥協しなくてはならないこととは何なのか?何だっていいさ、請求書の支払いをするだとか、人付き合いをうまくするとか、子どもを食べさせていくとかいったことだ。そして、自分の人生において、決して妥協できないことや我を忘れて夢中になることとは何なのか?」

"Prove It All Night"の中で主人公が懸命に示そうとしているのは、その妥協できない部分についてなのだと思います。自分は完璧ではないし、"Thunder Road"での意味より更に厳しく、確実に「ヒーローなんかではない」。けれども、決して譲れない部分があり、それが自分自身の本質にかかわる物事(essential things)であり、それこそが自分の生き様を肯定してくれる。だから望んだからには手にしなくてはならないし、そのためにいかなる代価を支払わねばならないとしても、それは甘んじて受ける外ない。これはその覚悟と挑戦と努力の歌だと思うのです。

けれども、この曲は、それだけではなくて、とてもタフなラブソングにも聞こえるように書かれているために、物語的なふくらみを持っている点が少し特別です。言わんとしていることはアルバムの中で続きになっている""Darkness on the Edge of Town"ともたいへん近いと思うのだけれど、女の子に話しかける体裁をとることでやっぱりロマンティックな要素が加わって、何だかとても映画的な感じがする。発電所裏の殺風景な空き地で白いリボンをたなびかせて立っている女の子の姿が目に浮かびそうです。そして、何よりいいなと思うのは、この主人公が示すと言っているのは、彼女への愛ではないというところです。彼女のため、彼女への愛のために、「俺はそれを示してみせる」というふうに言っている。これは私にはとてもとても誠実に思われるのです。自分にとって決して妥協できないことを守り抜く。自分に対して忠義を尽くす。そうすることができて初めて、ひとは他人に対しても誠実であることができるように私には思えるからです。

たぶん、私自身ここに書いたような観点で自分自身に向き合うことが多いからかと思うのだけれど、年末くらいからはずっといろいろなバージョンの"Prove It All Night"を聴き続けています。昔はかなり鋭くきりきりと突き刺さるような突き放すような演奏だったのが、いつ頃からか、もっと吹っ切れて太いどっしりとした印象に変わっているのが面白いです。『Live in New York City』の方はもう完全に後者で、これも良いのだけれど、今は私は古いものやスタジオ録音のものが胸に迫るように感じます。


『Live in New York City』の演奏。2000年。



Bruce Springsteen "Racing In The Street" (Reprise)

2011-07-30 16:28:40 | Darkness
俺が手に入れたのは69年型のシェヴィ 396ciのエンジンに
フューリーのシリンダーヘッドとハーストのフロアシフトを備えている
今夜 そいつはセブンイレブン前の駐車場で
出番を待っている
俺と相棒のソニーがゼロから組み立てた
そして2人して町から町へと走る
ただただ金を勝ち取るために 一切の交渉も妥協もなく
相手はがたがた言わせず 破ってしまう

今夜 通りはレースには申し分ない
俺は最初の一瞬で差をつけたい
夏が訪れ 今がまさに格好の時
通りでレースに出るには

俺達は出会った機会は決して逃さない
北東部の州はすべて守備範囲
いつものレース場が閉じられていれば
緊急用の通りだろうと州間高速だろうと構わず
通りで飛ばす
生きることを諦め
少しずつだんだんと生気を失ってしまう者や
仕事から帰り着くと汗を流してまた
通りのレースに繰り出す者達がいる

今夜 通りはレースには申し分ない
連中を残らず打ち負かし度肝を抜いてやりたい
世界中に 俺達は通りでレースをしているんだと訴えながら

彼女と出会ったのは 3年前のレース場でのこと
LAから来た男のカマロに乗っていた
俺はそのカマロを楽々破り 女を連れ去った
しかし今では愛しい女の目の周りには皺が目立ち
夜は涙に暮れて眠りに就く
俺が帰ると家は暗く
彼女が「今日は勝てた?」と囁く
父親の家のポーチに腰かけた女の
甘い夢は打ち砕かれ
ひとり夜の闇を見つめる目は
生まれたことを恨む者のよう

この約束の地を音を立てて疾駆してゆく
すべての敗北したよそ者達とホットロッドの天使たちのため
今夜 俺は愛する女と2人海へと走る
そしてこの幾つもの罪を2人の手から洗い流そう

今夜 ハイウェイは眩しく輝いている
どいていてくれ ミスター 離れていた方がいい
夏が訪れ 今こそ最高の時なのだから
通りで車を飛ばし合うには

ENGLISH


このブルース・スプリングスティーンによる"Racing In The Street"は3年ほど前にも、1度取り上げたことがあったのだけれど、当時は気持ちが先行してしまって、特に冒頭部分、主人公とソニーの自慢のシェヴィが一体どういう車なのか、よく分からないままだったというのが正直なところです。昨年末の『Darkness On The Edge Of Town』(1978)のボックスセットがリリースされた際に、三浦久さんの訳を読んで、そういうことだったのか、と訂正しなくてはいけないな、と思った部分もあったのだけれど、そうしないままここまで来てしまいました。今回、改めてきちんと取り上げようと思ったきっかけは、『What's Goin' On Out There?』というブログを書かれているYasunori Taniikeさんから一連の記事(「コラム・シフトの車って普通はもう知らんでしょう」「一行でも調べるだけ調べる」「自分の拘り、原作者の思い、業界の慣習。」「元サイトの人々には合わなかったようで」)の中で、私の訳についての問題点をご指摘いただいたことです。これは3年前の自分自身の訳よりも、事実として正しく、また自分としてもより納得のいく訳を作り直す貴重な機会でした。この場をお借りして再度、お礼を申し上げます。

今回の記事は、ご指摘を頂いたことについて、私が前回から訂正した点やその理由を少し述べる形になります。最初に訳詞の作業について。訳者は訳すものを取り囲む世界のすべてを把握しておくのが大前提だというご指摘はもっともだと思います。前回の私の訳が、覚悟も努力も不十分に作られたものだったこと、結果として誤りを含んでいたことは本当に反省しています。
けれどもそれをきちんと踏まえた上で、訳詞には正しい答えもないということもまた事実だと思っています。歌詞や詩、小説というのは詩的な要素を多分に含んだものであって、「文書」とは異なる書きものです。仕様書や、学術論文のように、議論の余地のない文章やポイントを押さえればいい文章ではなくて、むしろ受け手による解釈の余地があり、その部分を自分で埋めないことには訳はできない。そういう意味では、歌詞の翻訳というのは訳者の主観から完全に自由になることはできないものだと思っています。一人称の選び方による人物設定、口調、語彙、ひとつひとつが主観的な選択であって、訳す人の世界観の反映だと思うのです。だから、正確な事実の把握は訳者の義務だと私は考えるけれど、同時に正確さに必ずしも拘らないと言ってくださる方の思いは的外れだとも思わない。

具体的な内容に入る前にもう1つだけ。今回、私がこの「通りでのレース」の世界を構成し直す際に、Yasunori Taniikeさんから教えて頂いたことに加えて、映画『断絶』(1971)が大いに参考になりました。これは、『スプリングスティーンの歌うアメリカ』(音楽出版社・2009年)の著書である五十嵐正さんから、"Racing In The Street"の世界を理解するなら、とお勧め頂いたものでした。びっくりしてしまうくらい、"Racing In The Street"と設定の似た映画で、主人公の2人が乗っている車が55年製のシェヴィで、エンジンは"Racing-"に登場するのよりも更に大きな454ciのものを積んでいました。ブルース自身も、後になってこの映画を観たそうだけれど、初めて観た時は本当にはっとさせられたと、2005年のステージで"Racing In The Street"を演奏する際にも話をしていたようです(参考 via 五十嵐正さん)。時代も70年代初頭なので、どんな所でレースをしていたかという風景を知るのにも、とても役立ちました。五十嵐さんにも本当に感謝しています。

それでは具体的に歌詞を見ていきます。指摘点については、①「with a 396」、②「fuelie heads」、③「a Hurst on the floor」、④「straight out of scratch」、⑤「strip」、⑥「Springsteen 周辺のアメリカ人はベトナム帰りの、社会復帰が困難だった人も多いが、そのニュアンスが出ていない」という6点に分け、考慮に入れた上で、今回私がどうしてこういう訳にしたかを説明したいと思います。

「with a 396」:これは前回の私の訳で誤りだった部分で、正しくは「396ci (キュービックインチ)」の排気量を意味しているとのことです。『Darkness』のボックスセットの訳では三浦久さんが注として、「1ci=16cc」と書いてくださっています。Yasunoari Taniikeさんはそれをリットルに直して「6.5リッター」と訳されています。これを、キュービックインチのままにするかにリットル直すべきか、という問題なのだけれど、これは特に仕様書などではない、小説や映画の字幕、音楽といったものでは、ばらつきがあると思います。他にもアメリカでよく使われる単位に、マイルやフット、ポンドなどがありますが、これらは、メートルやグラムに直す訳者も直さない訳者もいます。
私が今回、キュービックインチに拘ったのは、396という数字を残したかったからです。それは私が車に疎いせいで、キュービックインチでもリットルでも得るイメージが大して変わらないせいもあるかもしれない。でも、396という数字はブルースファンにとっては、ぱっとこの曲を連想させる、意味のある数字だと思います。クラレンス・クレモンズの伝記『Big Man』(2009)でも、「俺とブルースは396(ciのエンジン)のシェヴィに乗っていた」という記述が唐突に出てきたりするけれど、私にとって大切なのは、これが何リットルのエンジンか、ということよりも、すぐに"Racing In The Street"への連想がなされることです。また、『断絶』を観ていると、396ciのエンジンというのは割とポピュラーなようで、何度か登場しました。字幕は396という数字をそのまま使っています。

「fuelie heads」:これも前回、はっきり分からなかった点です。Yasunori Taniikeさんは「直噴式ヘッダ」と訳をされていて、ヘッダというのはエンジンのカバーのような部品というふうに教えていただきました。そして、もう少し調べてみると、「fuelie heads」というのは、1957年に登場した、「camel-hump heads」とも呼ばれるシリンダーヘッドと呼ばれる部品らしいことが分かりました。シヴォレー社の「コルヴェット」というスポーツカーによく使われていたみたいです。

「a Hurst on the floor」:これは、「ハーストのフロアシフト」とYasunori Taniikeさんからの訳をそのまま頂いてしまいました。Yasunori Taniikeさんはコメントの中で「"走り屋さん"ご用達のギアチェンジレバーはハーストのコラムシフトだった」とも書かれています。私は彼の記事のタイトルずばりで、コラムシフトが何なのかも分からないのだけれど。「Hurst」は3年前の記事の注にも書いたように、改造車の部品を作っているペンシルヴァニアにある会社のようです。

「straight out of scratch」:これも3年前とは表現を変え、今回は「ゼロから」というふうに訳しました。私は自分の「ゼロから」という表現とYasunori Taniikeさんの「パーツから」という日本語の表現がそれほどかけ離れているとは思わないのだけれど、ただ、英語の解釈は異なるのかもしれません。私は「scratch」という単語の意味が「キズ」であることには拘っていません。むしろ「out of scratch」という慣用句として捉えています。辞書(ジーニアス英和大辞典、リーダーズ英和辞典)には、「from(at, on) scratch=最初から、ゼロから」という慣用句が載っているけれど、これのバリエーションだと考えています。「out of scratch」を引用符でくくってGoogle検索にかけてみて実例を幾つか確認したことと、身近な英語話者の方に、歌詞の文脈でこのイディオムから受ける印象を尋ねてみたところ、「from scratch」と同義と考えて構わないだろうと結論した上での訳です。

「strip」:この言葉について、Yasunori Taniikeさんは、「アメリカのドラッグ・レース場のことなので、street とは明確に違いを意識して書くべき」とおっしゃっています。私は「strip」にドラッグ・レース場という意味があることは今回まで知らなかったので、これもたいへん貴重な情報でした。
私は前回の訳では、コーラス部分の「strip」を「ハイウェイ」、「When the strip shuts down」という部分を「サンセット・ストリップ」のような賑やかな「通り」というふうに訳していたのだけど、これらは誤りです。今回の訳で私が念頭に置いたのは、ここで用いられている「strip」はあくまでも、「レースをする場」という意味であって、本当のレース場では必ずしもないということです。この曲のタイトルは"Racing In The Street"であり、登場する人々はプロのレーサーなんかでは全然なくて、夜毎に通りに繰り出しては危険な賭けを繰り返す男達です。ご指摘の通り、「strip」という語には、「street」には無いニュアンスがあるのだろうけれど、指しているものは、「stripに見立てたstreet」だということです。訳ではそれが伝わるように気を配ったつもりです。
Yasunori Taniikeさんによると、「ちょっとした街にもドラッグ・レース用のストリップがある」とのご指摘だったので、それがどんなものかを確認したくて、なにか映画を観たいと思ったのだけれど、『断絶』にも、レースをするシーンが幾度かあります。普通は、ここに行けばレースをやっているという場所があるようでした。それは、単に走りたい人が集まっているだけの、単なる車道を即席のレース場にしたものかもしれないし、本当に立派なレース場のこともある。また、その場で勝負をすることに決めて、どこまで走るかも適当に指定する、ということもありました。

「Springsteen 周辺のアメリカ人はベトナム帰りの、社会復帰が困難だった人も多いが、そのニュアンスが出ていない」:これはどのように弁解してよいのか、ちょっと分からない、というのが正直なところです。個人的には、ここで描かれるレーサー達や女性が昼間の社会、生活に生き甲斐を見出せず、顧みられることもない人々であることは受け留めているつもりだけれど、それが伝わらないとしたら、一重に私の表現不足のためであると思います。今回の訳でそれが改善されたかどうかは心許ないけれど、ご指摘は心に留めて訳をしました。

何だか長くなってしまって、曲全体について書く余地がなくなってしまったのが、何だか心残りだけれど、以上です。
このブログも、始めてから殆ど4年近い月日が流れました。この4年間、ブルースの音楽も聴き続けて、書き始めた頃は出会って4年だったのが、丁度今では倍の8年になりました。その間、沢山の方のコメントや、他のブルースファンの方のブログを通じて、新しく知ったこと、新しく出会った音楽も本当に沢山あり、そうして他の方の思いにふれたり、支えて頂いたりしながら、私自身のブルースの音楽への思い入れや知識を少しずつ深めていけたことが、この4年間で何よりも幸せな出来事でした。また、私自身、19歳から23歳の間に新しい場所に行ったり住んだり、新しい人に出会ったり、ブルースや音楽に限らず、新しく学んだことも数多くあります。書ける内容、書きたい内容も随分変わったと思います。数年前の記事なんて、自分では殆ど読み返さないけれど、今回改めて、"Racing In The Street"の記事を読んで、こんなことしか書いていなかったのかと、ちょっとショックを受けました。今から思うと恥ずかしいような内容も少なくないので、歌詞の訳の見直しを兼ねて、以前取り上げた曲も、再度取り上げることもこれからは考えてもいいかな、と感じてもいます。本当に今回のご指摘は様々な点でとても貴重なきっかけでした。
そしてまだまだ学ぶべきこと、学びたいことも山のようにあります。4年後に、今日の記事や訳を振り返った時、更に恥ずかしいと思うかもしれないくらい、成長できていればいいと思います。これからも精進しますので、ぜひぜひまたお越しください。



Bruce Springsteen "Factory"

2010-12-18 22:14:39 | Darkness
朝早く 工場の汽笛の音が聞こえる
男は床から起き上がり
服を着る
昼食を携えて
朝の光の中へと出かけていく
働いて、働いて、働きづくめの人生

聳え立つような恐怖の中を
痛みの中を
父親が歩いて行く姿が見える
工場のゲートを雨の中通り抜けて行くのを
工場のせいで父親は聴力を失い、工場が父親の生活そのもの
働き、働き、働くばかりの人生

1日の終わり 工場の汽笛が再び鋭く響く
男達が幾つもの門を通り 外へ出る
生気のない目をして
いいか、
今夜きっと誰かが傷つくことになる
働いて、働いて、働きづくめの人生で

ENGLISH

</object>
今日、取り上げる"Factory"は『Darkness on the Edge of Town』(1978)からの1曲です。新しくリリースされた『The Promise』(2010)には、この曲の別バージョンとして、"Come On (Let's Go Tonight)"という曲も収められています。歌詞は全く異なるのですが、音が何しろ同じなのでとても新鮮ですが、私はやっぱり"Factory"が1つの短い物語として描き出す一貫した灰色の風景が見事だと思います。けれども、本当は私はこの作品について長い間、なんて地味な曲なのだろうと思っていて、あまり関心を払っていませんでした。今回、『The Promise: Darkness on the Edge of Town』(2010)の発売に伴って、改めて『Darkness』のアルバムを聴き直したこと、そしてJoe Posnanskiさんの以前取り上げたエッセイに出会ったことで、この曲に心を惹かれるようになったのです。また、そのことには、自分にとって父親の存在がやはりかつてとは意味を変えてきていることも大きな理由なのではないかとも思っています。

『Darkness on the Edge of Town』には、ブルースが父親について書いた自伝的な作品が2曲あり、1つは"Adam Raised a Cain,"そしてもう1曲が"Factory"です。ブルースが10代の頃、父親としょっちゅう衝突していた話は有名だけれど、(『The Live 1975-1985』における"The River"の演奏前の語りが代表的です)、『Darkness』を制作していた頃の彼は既に27歳です。この時になって父親について語らなければならかったのはどうしてなのか。そして、その語りは10代の若者が体当たりで権威としての父親にぶつかっていくのとは全く異なる語りです。それについてブルースは、『Darkness』の頃には、自分の核たるものを見つめ直し、失わないようにし、そして自分が向かうべき道を見出す必要があったと述べています。それには、今の自分を形成するルーツを辿らなければならなかった。都会を目指したのが『Born to Run』(1975)という作品だったけれど、『Darkness』では再びざらついた田舎の風景に戻り、そこには父親の姿もあったのです。この時期、ブルースは精神的な成長を、本当の意味で大人になるということを人生の妥協という観点も含めて強いられたということですが、親について、それなりに落ち着いた目線で語るということもまた、大人になることを意味していると思います。自分自身のことしか見ることができない時には、自分の独自性や独立性にはひどく拘ってしまうものだけれど、本当はどうしたって自分がひとりきりで生き抜いてきたとはなかなか言えない。その若い強がりを抜け出して、もう1度自分の出てきた場所を思いを訪れられるようになることが1つの成長なのだと思うのです。ブルースは『Rolling Stone』(日本版、2011年1月号)の中でこのように語っています。

「あの頃、なんとなく考えるようになったんだ。
俺の中の何かが自分史を記録している、
俺の歴史は両親の経験や自分の成長の経験と結びついている。
どうしてなんだろうと思って、その謎を解いてみたくなった。
で、あっと気がついた。ここには俺が子供の頃に過ごした人生がある。
いや、俺のだけじゃない、いくつかの人生がここで紡がれてきた。
その人生のひとつひとつが
俺の生き方にものすごい衝撃を与えているんだって。」


そして、より難しく辛い作業となるのが、親の妥協と彼らがその裏で何を守ろうとしてきたのかを知ることです。自分自身が妥協を強いられて初めて思い至るのが、その事実であるからでもあり、自分がいかに償いようがないほどに頑強に親の妥協を否定し続けたかを突きつけられるからでもあります。

こうした話は私にとっては両親のどちらにも少なからず当てはまることだと思うけれど、私が父と接するあり方と母とのそれとは随分異なるものでした。母とはあまりの近さが支えでもあり、問題の常なる源でもあった。父とは接点を見出すことの難しさが距離感を生むと同時に、自分が歳を重ねるにつれて、その距離が本当はいかに近いものであるかに気づかされることになりました。自分が何をしたいのか、何に心を惹かれるのか、どんな語りをするのか、どこへ足を向けるのか。自分自身のそうした選択の中に、母のものだけではなく、いつ受け取ったのかも判然としない父の影がある。そして今や私はそれを独自性の欠如ではなくて、自分の歴史を流れる1つの脈として受け留めることができる。

でも今の私にできるのはここまでです。今回、この曲だけでなく、『Darkness』にまつわる楽曲について語ることに私が一定の後ろめたさを感じてしまうのは、端的に言って私がまだ自分で自分の生活を立てていないからです。もちろん、10代の頃のように夢が奔放に持てないこと、或いは夢見た先の現実にぶつかることはあります。けれども、『Darkness』の中でブルースが歌っているのはもっと大きな挑戦があり、もっとはっきりとした独立を成し遂げた後に経験する挫折と現実との出会い、妥協と自分の信念を守る果敢な闘いについてでした。父親の現実をここまで慈愛に満ちながらも、離れて遠景のように描き出すことができ、その資格を彼が得たのもこれらすべての経験があったからでした。私にはまだ挑戦すべきこと、見るべき現実、受けて立たねばならない挫折、そしてそれを乗り越えるだけの強靭さが必要です。その時には、一層『Darkness』という作品に私は寄り添うことになるだろうし、迷いなく自分の文章を書くことができるはずだと思います。



Bruce Springsteen "Badlands"

2010-07-13 03:26:07 | Darkness
明かりが消え
街の中心では騒ぎが
正面衝突で
俺は腹に強打を受ける
これは他人の争い
俺には理解のできないもの
だけど1つだけ確かなことがある
かかずらうつもりはない
目新しくもない悶着なんかには
どうだっていい
中途半端な連中だって
俺が求めているのは核心、そして魂
主導権が欲しい 今すぐに
夢について語り
実現に向けて力を尽くす
お前は深夜に目覚める
あまりにリアルな恐怖に捉われて
待ち続けて終わるのか
永遠に来ない一瞬のために
待つことで時間を無駄にするんじゃない

バッドランズ 日々生き抜かなくては
折れた心を立て直せ
自分で支払うしかない代償と同じこと
俺達は頑張り続ける いつか理解され
この荒地が俺達にとってまともなものになるまで

野で汗を流す
背が真っ赤に焼けるまで
車輪の下で働く
真実を知るまで
いいか ダーリン
貧しい者は豊かになりたいと望み
豊かな者は王になりたいと望む
そして王は決して満たされない
何もかもを手中に収めるまでは
俺は今夜 出て行きたい
自分には何があるのか知りたい

俺はお前の与えてくれた愛を信じている
信じる気持ちは俺を救えるかもしれないと
俺は希望を信じて
祈る いつか
俺が制することができるように この

バッドランズを そして日々生き抜かなくては
折れた心を立て直せ
自分で支払うしかない代償と同じこと
俺達は頑張り続ける いつか理解され
この荒地が俺達にとってまともなものになるまで

1つの考えを持っていた人々
心の奥深くで
生きていることを喜ぶのは
罪なんかではないと
俺は出会いたい
俺にしっかりと目を留めてくれる誰かに
必要なのはたった1つの場所
この荒地に向かって唾を吐いてやりたい

ENGLISH

</object>
今日、取り上げるのはブルース・スプリングスティーン『Darkness on the Edge of Town (闇に吠える街)』(1978)の冒頭を飾る1曲です。私にはブルースを毎日のように聴き続ける時期と、ブルース休憩期みたいなものがあって、特に元気がいい時には、何曲かは日々の中で聴いても、アルバムやライブ音源を続けて沢山聴かないでいることがあります。ここ暫くは少しそんな時期でした。ですが、7月4日前後になって”4th of July, Asbury Park””Independence Day”を中心に再びブルース回帰をしていた中、心を惹かれたのが『The Live 1975-1985』(1985)に収められた”Badlands”でした。

ブルースはこの曲を近年でも毎晩のように演奏していて、私が2度観ることのできたWorking on a Dream Tourでも2晩ともこの曲からコンサートが始まりました。”Badlands”はたぶん、ブルースにとっても最も大切な1曲なのではないかと思います。1978年当時には、自分の周りで結婚生活や労働といった日常に捉われて、生気を失いそうになっている人々を讃え、励ます思いで書かれ、辛い側面の多い『Darkness on the Edge of Town』に決定的な前向きな意味を与えました。そして1980年には大統領選挙の翌晩、アリゾナでのコンサートを、ロナルド・レーガンの大勝は「恐ろしいことだと思う」というコメントと共に、この曲で幕開けます。(その時の演奏が『The Live』に収録されたものです。素晴らしい!)そして、現在に至るまで「荒地」は本当に様々な機会に意味を変えて、まさにその時に何よりも必要とされ、助けとなる1曲として演奏され続けてきました。2004年のVote for Changeでは少しテンポの落ちた演奏がとても重たく感じられ、(2004年ほど、アメリカがバッドランズとなった年は過去になかった筈です)、2009年にも未だにこの曲が毎晩のようにコンサートのオープニングを飾ることは、アメリカの現状への憂いを感じさせると共に、ブルースのコンサートに人々が何を求めてやって来ているのかを、とても雄弁に語っているようにも感じさせます。

この曲が特別なのは、単なる応援歌や働いたり、努力したりすることの賛歌ではないところです。そういう曲なら世間に本当にいくらでもあると思います。ここには目を背けたくなるような苛酷な現状認識が最初にあり、それがとても真に迫っている。あまりにもリアルな恐怖に捉われて夜中に目を覚ます寒々しさ、生きていることを喜ぶことは罪ではないのだと考える日々、それは能天気な姿勢では決して書くことのできない現実です。

また、この曲のもう1つの魅力は、ライブ演奏の中でオーディエンスが1つになって一生懸命に歌詞のない(「オーオーオー、オーオー」という)シンガロングをするところです。1人1人が抱えているバッドランズが本当に先に述べたように切迫したものであるならば、ここで何千人という人と共にブルースに煽られて声を張り上げることは、何の解決にもならない筈だけれど、まさに「magic in the night」がかかる瞬間のように思えるのです。バッドランズからの解放、或いは孤独に立ち向かうしかなかったバッドランズを他の人とほんの一瞬であっても共有しているような気持ちになってしまうのです。それはライブ録音を聴くだけでも伝わってきて、長い間私のブルースのライブへの憧れを強める一因となってきました。

こうして、30年以上、毎晩毎晩毎晩歌われることで、そこに含まれる意味というのは限りなく拡大して、ブルースにとっても、オーディエンスにとっても深い意味を持つようになったのではないかと思います。私にとってもこの曲は、15歳の時から支えとなるフレーズを沢山含んだ作品であってきたにも関わらず、常に「今」の状況に当てはめて新鮮な思いで聴くことのできるものであり続けてきたことに、この週末に思い当たりました。何度も何度も聴いた曲なのに、今まさに高揚感をもたらされ、決して来ない一瞬を待って時間を無駄にするなと言われて泣きたい気分になったのでした。



Bruce Springsteen "Darkness on the Edge of Town"

2010-02-19 00:09:23 | Darkness
連中は今でもトレッスルでレースをやっている
だが その情熱も彼女の思いをかき立てる事はなかった
聞いたところでは 彼女は今じゃフェアヴューに家を持ち
自分の生活様式を維持しようとがんばっているらしい
もしも彼女が俺に会いたければ
伝えてくれよ 俺なら容易に見つかるからと
彼女に言っておいてくれ アブラム橋の傍に場所があると
伝えてくれ 街の外れには闇があるんだよ、と

人はみんな秘密を抱えているんだ ソニー
向き合う事のできない何かを
それを隠し通す事に一生を費やす者もいる
どこへ足を運ぼうと 手放す事もない
いつか思い切ってそいつと手を切るまで
手を切るか さもなきゃ自分がすっかり駄目にされてしまうまで
誰も何1つ尋ねる事の無い
或いは 人の顔などまともに見る事もない
街外れの暗闇の中の場所で

生まれた時から暮らし向きのいい者もいるが
そうでない連中は何とかやっていくしかない
俺は財産を失い 妻を失った
それももう俺には大した意味を持たない
今夜 俺はあの丘に登る そうせずにはいられないんだ
俺は丘の上に立つ 俺の得たものを全て持って
夢が見つかっては破れる 賭け事のような人生
俺は時間通りに姿を現し 代償を支払う
欠けてしまった物のために それが見つかるのは
街外れの闇の中だけ

ENGLISH

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Pearl Jamのエディ・ヴェダーとの共演した時のビデオです。私のお気に入りです。
実のところ、私はこのブログでいつも自分にとってその時1番大切な曲、1番何かを意味する曲を記事にする事を避けてきたように思います。その曲への思い入れが強ければ強いほど、語りたい気持ちも強くなる一方で、実際にそれを言葉にする事は私にとってとても難しい事に思えるからです。何かきっかけがあって好きになった曲ならまだいいのですが、気がついてみたら何度も何度も繰り返し聴いていて、すっかり自分の中に根を張ってしまったような曲やもうあまりにも長い間大切に聴き続けて、まるで自分の一部であるかのように思えるまでになってしまった曲については、改めて何を切り口に書き出せばいいのか分からないのです。それにある曲が何か特別な意味を持つのは、その曲が自分では扱いきれない思いを最良の形で代弁してくれているからでもあって、敢えて改めて自分でもう1度その事について書く、というのはうまくいきようがないのかもしれません。でも、そうして機会を逃してしまうと、気づけばあんなにも大切だった曲が、そうでもなくなってしまっていたりする。そして今更それについて熱心に何かを語るという事も結局できなくなってしまうのだという事に最近気づかされました。うまく書けないという事を言い訳にしていたら、何のためにこのブログを書いているのか分からない。それに、ここでの事だけではなくて、私は何かにつけて自分に満足できる結果が出せないかもしれないと感じた時点で、最初から挑戦する事をやめてしまう傾向があるように思います。でも、本当は完璧じゃなければやらない方がいいなんていう事はなくて、完璧でなくてもやってみた方がいい事の方が多いんじゃないかと思ったのです。

長い前置きになりましたが、"Darkness On The Edge Of The Town"は最近の私にとって1番書きたいけれど、1番書けない曲でした。私にとって長い間、最も自分に引きつけて大切に聴いてきた曲は"Thunder Road"でした。もちろん今でもやっぱり特別な曲である事には変わりはありません。でもここ半年ほど、歌詞の中身については"Darkness-"により惹かれるようになってきたような気がしています。1つには"Thunder Road"という歌はもうある程度、私にとってはこういう歌だ、と決まってしまっているという事があると思います。これは私にとってはまだ若さの残る歌であり、ロマンティシズムがあり、「勝つために出て行く」歌なのです。その一方で"Darkness-"にはまだ分からないところが沢山あります。そこでは欠けたものが見つかるという「街外れの闇」とは一体何を意味するんだろうか。私の抱えている秘密とは一体何だろう。道を歩きながらiPodを聴きながら考えたりしていると、周りが見えなくなるほどです。そして、同時にこの曲は"Thunder Road"にはなかった挫折や何かを失う事について語っています。それでも丘に登る主人公は、もう「勝つために出て行くんだ!」という勢いは無い。けれども、「時間通りに姿を現し 代償を支払う」という部分からは固い決意と覚悟が窺えます。ブルースはアルバム『Darkness On The Edge Of Town』(闇に吠える街)(1978)について「さんざん泥を投げつけられて、中にはその泥に埋もれてしまった人もいる。これはそんな境遇の中でも埋もれまいとする人達に捧げるものなんだ」と話しています。泥は投げつけられる。それは避けようがない。だから、街外れの闇の中、自分は這い上がるためにもがくしかないのかもしれない。秘密にしても、誰もが抱えていて、そこから逃げる事はできないのです。自分がそれを解き放つ事ができるか、秘密に引きずられてしまうのか、という2つしかない。"Thunder Road"では夢がまだ大きく見えていたように思うけれど、"Darkness-"では主人公の前に現実が立ちはだかります。でも、今の私にはこの現実を歌った曲がどうやらどうしても必要なようです。