涙が街の地を打つ
お楽しみを求めてうろつくバッド・スクーター
誰も彼もいかした様子で歩いているのに
俺は身動きもできない
みんな脇へどいた方がいいぜ
俺は嫌われ者で
すっかり追い詰められているんだ
10番街は俺を入れてくれない
10番街は俺なんてお断り
俺はワイルドな無法地帯で立ち往生
熱気を残らず吸い込もうとして
夜の闇が訪れ、歩道だけが明るく
立ち並ぶ活き活きとした生の明かりに照らされるまで
安普請のアパートからはトランジスタラジオが大音量で響く
でも角を曲がれば途端に静けさがやってくる
俺は締め出しをくらった10番街へ足を踏み入れた
凍てついた10番街に
俺はひとりきりさ、まったくのひとりきり
<キッド、状況をしっかり把握しろよ>
ひとりぼっちさ、誰もいない
そして家に帰ることも叶わない
アップタウンにあの変化が起き
ビッグ・マンがバンドに加わった
すると沿岸部から街までどこへ行っても
美人が手を振ってくれる
ゆったり座って笑ってやるさ
スクーターとビッグ・マンがこの街を真二つにする時には
10番街からの締め出し
俺が話しているのは
ほかでもない
凍てついた10番街のこと
俺を仲間に入れようとしない10番街
10番街は俺のことはお断りだって
ENGLISH
縁があって、アズベリー・パークに滞在しています。3月に入ったというのに、こちらの容赦のない冬はなかなか終わる気配がなく、今日は朝から夕方まで雪が降り続き、表に停まった黒いセダンがみるみる雪に埋もれていくのをキッチンの窓から眺めているような1日でした。することがない訳ではないけれど、久しぶりに文章を書いてみる気になり、静かな雪の夜にこうしてパソコンの前に座っています。それというのも、今日取り上げた "Tenth Avenue Freeze-out(凍てついた十番街)"について、なにか書かずにはいられないような素晴らしい出来事があったからです。
アズベリー・パークに着いた日、いつも通り(そしてたぶん、多くのブルース・スプリングスティーンのファンがそうするように)、海沿いまで出てひととおりコンヴェンション・ホールからカジノの廃墟まで歩きながら、巡礼の気分に浸っていた時のことです。ワンダー・バーやストーン・ポニーに特別な(神聖なと言ってもいい)気持ちで近づき、表に張り出してあるフライヤーをじっくりと見ていると、ストーン・ポニーの2月のスケジュールの終わりに、「サウスサイド・ジョニー&ジ・アズベリー・ジュークス」と書かれているのを見つけました。サウスサイド・ジョニーとジュークスと、そしてストーン・ポニー!私は決してハードコアなサウスサイド・ジョニーのファンではないし、どちらかというとブルースが大好きで、その縁で出会ったような彼にとっては理想的とはいえないリスナーだけれども、それでもこの3つの組み合わせは心躍らずにはいられないものでした。サウスサイド・ジョニーのことは、プア・フールズという別のバンドとの演奏をティム・マクルーンズ・サッパー・クラブというアズベリー・パークのなかでも割にファンシーな場所で観たことがあったけれど、それとこれとはまったく大違いです。いろいろな意味で歴史の深さがまるで違っている。ジュークスの演奏は、2月27日(金)と28日(土)の2日間。そして、2日目は、「Music of Bruce Springsteen」と題された、ブルースの曲を演奏する夜となっていました。
アズベリー・パークとサウスサイド・ジョニーという組み合わせは私でも観たことがあるくらいだから、決して珍しくはありません。今年の独立記念日の頃にもまたコンサートが予定されているし、この町とジョニー自身がお互いの存在を支え合っているような関係にもあるように思えます。けれども、そのジョニーがジュークスと共に、ストーン・ポニーでブルースの曲を演奏するとなるとこれは大事件です。ジョニー自身が語っているように、若い頃であれば彼だって決してやろうとはしなかった試みであること、そして、ブルース自身が現れるのでは、という期待が否応なく多くの人の胸に膨らんだからです。私が探した時には、金曜日のチケットはまだ手に入ったけれど、土曜日のチケットは500ドルから900ドルくらいまでの値段でオンラインの転売サイトに出ていました。
それでも、サウスサイド・ジョニーとジュークスとストーン・ポニーという組み合わせは特別なので金曜日のチケットだってとても幸せな気持ちで買いました。土曜日に対して、金曜日のショウの位置づけは、ジュークスのレアな曲を演奏するというもので、私はジュークスはあまり詳しくないので、きっと知らない曲が多いだろうと思ったけれど、全然構わなかった。
ストーン・ポニーが1974年2月にオープンした時、経営は全然うまくいかず、大雪のせいで初日の売り上げは1ドルだったとも言われています。もう年が越えられるかどうかも分からないくらい、地を這うようにがんばっていた店でその年の12月に初めてのハウスバンドがストーン・ポニーでの演奏を始め、彼らのおかげでお店はいちどに集客を増やすようになった。その最初のハウスバンド、ブラックベリー・ブーズ・バンドのメンバーのひとりが、サウスサイド・ジョニーでした。彼はその後もずっとこのエリアに留まって、80年代に町が荒廃していくのも90年代に遂にストーン・ポニーがいちど閉鎖になるのも目にしてきた人です。私は2000年代に入ってアズベリー・パークが少しずつ活気を取り戻してきて暫くしてから初めて町を訪れたので、まるで昔からずっと変わらずにストーン・ポニーもサウスサイド・ジョニーもいるような気がしてしまいそうだけれど、変わらずにいるということはそんなにも容易ではない。そして、変わらないと思っているのは気楽な余所者だけで、たくさんのことが少しずつ、着実に変わっている。サウスサイド・ジョニーがブルースの曲ばかり演奏しても良いと思うようになるのと同じように。
だから、知らない曲ばかりでも、彼とジュークスがストーン・ポニーのステージに立っているのを観るのは本当に特別な経験でした。始まりの時間が9時だと知らずに、早々と7時に来ていた私はいちばん前の端っこに立っていたので、目の前にはトロンボーンとトランペットとサキソフォンのホーンセクションがいて、マイクを通さなくても音が聴こえそうなくらいでした。ジョニーはずっと横顔ばかりが見えていたけれど、笑った時の目じりの皴が本当に素敵で最高にチャーミングで、そして格好良かった。66歳だなんて、なかなか信じられないくらいに。"The Fever"や"Cover Me"やほんのちょっとだけの"Talk to Me," "Where the Bands Are"もあったけれど、ブルースの曲は期待していなかったから、嬉しい驚きでした。
でも、何よりも驚き、また胸を打たれたのがその日のアンコールの最後にまったく予想外に演奏された"Tenth Avenue Freeze-out"です。『Born to Run(明日なき暴走)』(1975)に収められたブルースとEストリート・バンドの自伝的作品とも言われる1曲ですが、きっとその歴史を目の当たりにしていたサウスサイド・ジョニーが、アズベリー・ジュークスとストーン・ポニーで演奏しているのを聴いていると、本当に心を動かされました。クラレンス・クレモンズやダニー・フェデリシの精や今の私と同じくらいの頃のブルースやジョニーやスティーヴ・ヴァン・ザントの姿が見えそうな気がした。そして、この小さいけれど特別な町の熱気に満ちた歴史の最後に私もほんの一瞬でも属しているのだと思うと、この上もなく幸運な気がしたのです。ジョニーの歌う"Tenth Avenue Freeze-out"を聴いていると、想像するしかない過去が目の前に見えるようでした。そして、その頃のことがジョニーの胸のなかでどのように思い出されているかを思うと、胸がいっぱいになりました。
お楽しみを求めてうろつくバッド・スクーター
誰も彼もいかした様子で歩いているのに
俺は身動きもできない
みんな脇へどいた方がいいぜ
俺は嫌われ者で
すっかり追い詰められているんだ
10番街は俺を入れてくれない
10番街は俺なんてお断り
俺はワイルドな無法地帯で立ち往生
熱気を残らず吸い込もうとして
夜の闇が訪れ、歩道だけが明るく
立ち並ぶ活き活きとした生の明かりに照らされるまで
安普請のアパートからはトランジスタラジオが大音量で響く
でも角を曲がれば途端に静けさがやってくる
俺は締め出しをくらった10番街へ足を踏み入れた
凍てついた10番街に
俺はひとりきりさ、まったくのひとりきり
<キッド、状況をしっかり把握しろよ>
ひとりぼっちさ、誰もいない
そして家に帰ることも叶わない
アップタウンにあの変化が起き
ビッグ・マンがバンドに加わった
すると沿岸部から街までどこへ行っても
美人が手を振ってくれる
ゆったり座って笑ってやるさ
スクーターとビッグ・マンがこの街を真二つにする時には
10番街からの締め出し
俺が話しているのは
ほかでもない
凍てついた10番街のこと
俺を仲間に入れようとしない10番街
10番街は俺のことはお断りだって
ENGLISH
縁があって、アズベリー・パークに滞在しています。3月に入ったというのに、こちらの容赦のない冬はなかなか終わる気配がなく、今日は朝から夕方まで雪が降り続き、表に停まった黒いセダンがみるみる雪に埋もれていくのをキッチンの窓から眺めているような1日でした。することがない訳ではないけれど、久しぶりに文章を書いてみる気になり、静かな雪の夜にこうしてパソコンの前に座っています。それというのも、今日取り上げた "Tenth Avenue Freeze-out(凍てついた十番街)"について、なにか書かずにはいられないような素晴らしい出来事があったからです。
アズベリー・パークに着いた日、いつも通り(そしてたぶん、多くのブルース・スプリングスティーンのファンがそうするように)、海沿いまで出てひととおりコンヴェンション・ホールからカジノの廃墟まで歩きながら、巡礼の気分に浸っていた時のことです。ワンダー・バーやストーン・ポニーに特別な(神聖なと言ってもいい)気持ちで近づき、表に張り出してあるフライヤーをじっくりと見ていると、ストーン・ポニーの2月のスケジュールの終わりに、「サウスサイド・ジョニー&ジ・アズベリー・ジュークス」と書かれているのを見つけました。サウスサイド・ジョニーとジュークスと、そしてストーン・ポニー!私は決してハードコアなサウスサイド・ジョニーのファンではないし、どちらかというとブルースが大好きで、その縁で出会ったような彼にとっては理想的とはいえないリスナーだけれども、それでもこの3つの組み合わせは心躍らずにはいられないものでした。サウスサイド・ジョニーのことは、プア・フールズという別のバンドとの演奏をティム・マクルーンズ・サッパー・クラブというアズベリー・パークのなかでも割にファンシーな場所で観たことがあったけれど、それとこれとはまったく大違いです。いろいろな意味で歴史の深さがまるで違っている。ジュークスの演奏は、2月27日(金)と28日(土)の2日間。そして、2日目は、「Music of Bruce Springsteen」と題された、ブルースの曲を演奏する夜となっていました。
アズベリー・パークとサウスサイド・ジョニーという組み合わせは私でも観たことがあるくらいだから、決して珍しくはありません。今年の独立記念日の頃にもまたコンサートが予定されているし、この町とジョニー自身がお互いの存在を支え合っているような関係にもあるように思えます。けれども、そのジョニーがジュークスと共に、ストーン・ポニーでブルースの曲を演奏するとなるとこれは大事件です。ジョニー自身が語っているように、若い頃であれば彼だって決してやろうとはしなかった試みであること、そして、ブルース自身が現れるのでは、という期待が否応なく多くの人の胸に膨らんだからです。私が探した時には、金曜日のチケットはまだ手に入ったけれど、土曜日のチケットは500ドルから900ドルくらいまでの値段でオンラインの転売サイトに出ていました。
それでも、サウスサイド・ジョニーとジュークスとストーン・ポニーという組み合わせは特別なので金曜日のチケットだってとても幸せな気持ちで買いました。土曜日に対して、金曜日のショウの位置づけは、ジュークスのレアな曲を演奏するというもので、私はジュークスはあまり詳しくないので、きっと知らない曲が多いだろうと思ったけれど、全然構わなかった。
ストーン・ポニーが1974年2月にオープンした時、経営は全然うまくいかず、大雪のせいで初日の売り上げは1ドルだったとも言われています。もう年が越えられるかどうかも分からないくらい、地を這うようにがんばっていた店でその年の12月に初めてのハウスバンドがストーン・ポニーでの演奏を始め、彼らのおかげでお店はいちどに集客を増やすようになった。その最初のハウスバンド、ブラックベリー・ブーズ・バンドのメンバーのひとりが、サウスサイド・ジョニーでした。彼はその後もずっとこのエリアに留まって、80年代に町が荒廃していくのも90年代に遂にストーン・ポニーがいちど閉鎖になるのも目にしてきた人です。私は2000年代に入ってアズベリー・パークが少しずつ活気を取り戻してきて暫くしてから初めて町を訪れたので、まるで昔からずっと変わらずにストーン・ポニーもサウスサイド・ジョニーもいるような気がしてしまいそうだけれど、変わらずにいるということはそんなにも容易ではない。そして、変わらないと思っているのは気楽な余所者だけで、たくさんのことが少しずつ、着実に変わっている。サウスサイド・ジョニーがブルースの曲ばかり演奏しても良いと思うようになるのと同じように。
だから、知らない曲ばかりでも、彼とジュークスがストーン・ポニーのステージに立っているのを観るのは本当に特別な経験でした。始まりの時間が9時だと知らずに、早々と7時に来ていた私はいちばん前の端っこに立っていたので、目の前にはトロンボーンとトランペットとサキソフォンのホーンセクションがいて、マイクを通さなくても音が聴こえそうなくらいでした。ジョニーはずっと横顔ばかりが見えていたけれど、笑った時の目じりの皴が本当に素敵で最高にチャーミングで、そして格好良かった。66歳だなんて、なかなか信じられないくらいに。"The Fever"や"Cover Me"やほんのちょっとだけの"Talk to Me," "Where the Bands Are"もあったけれど、ブルースの曲は期待していなかったから、嬉しい驚きでした。
でも、何よりも驚き、また胸を打たれたのがその日のアンコールの最後にまったく予想外に演奏された"Tenth Avenue Freeze-out"です。『Born to Run(明日なき暴走)』(1975)に収められたブルースとEストリート・バンドの自伝的作品とも言われる1曲ですが、きっとその歴史を目の当たりにしていたサウスサイド・ジョニーが、アズベリー・ジュークスとストーン・ポニーで演奏しているのを聴いていると、本当に心を動かされました。クラレンス・クレモンズやダニー・フェデリシの精や今の私と同じくらいの頃のブルースやジョニーやスティーヴ・ヴァン・ザントの姿が見えそうな気がした。そして、この小さいけれど特別な町の熱気に満ちた歴史の最後に私もほんの一瞬でも属しているのだと思うと、この上もなく幸運な気がしたのです。ジョニーの歌う"Tenth Avenue Freeze-out"を聴いていると、想像するしかない過去が目の前に見えるようでした。そして、その頃のことがジョニーの胸のなかでどのように思い出されているかを思うと、胸がいっぱいになりました。