まえがき
俺が育ったボードウォーク沿いの町ではどんなものもどこかしらインチキめいたところがある。俺自身もそう。俺はドラッグレースにはしる反逆児ではなかったけれど、20歳になる頃までに、アズベリーパークでギタープレーヤーになっていた。そして真実に尽くすために「嘘をつく」連中、すなわち「アーティスト」の仲間入りを果たしていた。俺たちはいわゆる芸術家なんかじゃなかった。好きなことを一生懸命やっているだけだった。だけど、俺には最高に素晴らしい切り札が4つ揃っていた。若さ、約10年にわたる筋金入りのバーバンドの経験、俺のパフォーマンススタイルとぴったり合うような音楽をやっていた地元の良いミュージシャンたち、そして語るべき物語。
この本はその物語の続きを語り、起源を探るものだ。語るべき物語や俺の作品を形作ってきたと思う人生の様々な出来事を取り上げている。これまで道端で出会ったファンのみんなに繰り返し尋ねられてきた問いのひとつは、俺がどうやってこの暮らしや仕事をやっているのかということだ。この本ではその問いに少しだけ答え、そして、「どうやって」よりももっと大切な「なぜ」こういうことをやっているのかという問いにもなんとか答えたいと思う。
ロックンロールのサバイバルキット
DNA、天賦の才能、優れた技術の研究、芸術的思想を発展させ、それに心を砕くこと、むき出しの欲望…その対象…は名声?…愛?…称賛?…注目?…女の子?…セックス?…そしてもちろん、お金だ。そして…、もしも夜の果てまでそれを携えていたいなら、決して燃え尽きることのない危険で荒々しい炎のようでいなくちゃならない。
もし君が魔法のようななにかを見せてくれることを待ちわびて大声で叫んでいる8万人(または80人)のロックンロールファンの前に立つことがあるのなら、そうしたことはきっと役に立つと思う。彼らは君が何かを取り出して見せてくれるのを待っている。帽子から、薄い空気から、この世の中から、今日ここに信じる心を持つ者たちが集まる前には歌に駆り立てられた噂しかなかったところに何かを生じさせて見せてくれることを。
俺はこの捉え難い、いつもどこかリアリティに欠ける「俺たち」が本当にいるってことを示すためにいる。それが俺のマジックなんだ。そしてあらゆる優れた手品がそうであるように、まずは舞台設定が肝心だ。さて、というわけで…。
ブルース・スプリングスティーンの来月出版される自伝『ボーン・トゥ・ラン』(早川書房・2016年)の序文が公開されています。すでにNMEに訳文が掲載されているのですが、どうしてもブルースの言葉を自分で日本語にしたくて訳をしました。とても難しかった…。ブルースの言っていることを理解したくて英語の勉強を熱心にするようになってもう13年くらいになるけれど、まだまだ修行が足りないなと思いました。
でも、ブルースの言葉は相変わらずとてもロマンティックで、想像をかき立てられ、最後には胸を鷲掴みにされるようでした。こういう気持ちになるのは、初めて"The Rising"を歌うブルースの姿をテレビで観た時からずっと変わらない。ブルースの歌うところを観たり、彼の声に耳を傾けたり、彼の言葉を読むとき、いつも同じような気持ちになる。
最初のアズベリーパークの描写もたまらないです。何もかもが少しインチキめいている海辺の町。もともとアズベリーパークは有閑階級のリゾート地として開拓されたところから歴史が始まるので、あまり地に足のついた生活と結びついた土地ではありませんでした。そのせいなのか、確かにずっとふわふわとした妙な現実離れしたような雰囲気があるような気がします。あるいは私のそうした印象はブルースの歌のせいなのかもしれないけれど。でも、昔あったという遊園地の奇妙なマスコットキャラクターのティリーの看板やカジノビルディングの廃墟、寂れたボードウォーク(今は特に夏の季節は全然寂れていないけれど)、がらんとしたコンヴェンションホールには不思議な感覚が宿っている。いかにもロックンロールの物語が潜んでいそうな、たくさんの物陰、たくさんの秘密、たくさんの野心の跡が見える。
ブルースは自分のことも「インチキめいている」もののひとつに数え、ロックンロールに打ち込んだ仲間たちを「真実のために嘘をつく」と描写している。この表現はつい最近もも似たようなことを誰かがどこかで言っていた気がするけれど、どこだったでしょうか…。ロックンロールというのはあんまりにも良いもので、とても日常や現実とは信じることができないし、実際に日常ではないんだ、みたいな話で結構なるほどなと思ったのです。確かにロックンロールは、実際にそれで食べていったりしていたらともかくとして、日常や現実ではないのかもしれない。でも、その気持ちいい瞬間、昂ぶる瞬間、胸がいっぱいになる瞬間、何もかもどうでもよくなる瞬間、暴れている瞬間、叫んでいる瞬間、めちゃくちゃに悲しくなっている瞬間になにか本当のことに近づくことがある。あるいはそんなことを繰り返しているうちに、どこにもなかった現実が少しずつ立ち上がってきたりすることもある。嘘から出たまこと、というものなのかもしれません。
そして、その最たるものは「私たち」そのものです。ブルースを前にしたときの「私たち」とは一体何なのだろう?自分の真っ暗な部屋でひとりでブルースの声に耳を傾けている「私たち」。ブルースファンの「私たち」。そんな「私たち」なんて本当にいるのだろうか。コンサート会場に集まる「私たち」はなんらかの意味で本当にひとつの「私たち」なんだろうか。ブルースはそうだと言っている。本当にいるか分からない不確かな「私たち」を魔法のように、巧みなマジックのように、実体のある確固たる「私たち」として出現させてみせる。「私たち」自身に「私たち」のことがちゃんと感じられるようにしてみせる。何度も何度もいろんなときにいろんな歌のなかで、ブルースが言っていた通りだった。誰も糸の切れた凧のようでなんかない。たとえひとりだと思っても、信じる気持ちがあるなら、今夜俺の声に耳を傾ければきっと魔法を感じられるだろう、と。
俺が育ったボードウォーク沿いの町ではどんなものもどこかしらインチキめいたところがある。俺自身もそう。俺はドラッグレースにはしる反逆児ではなかったけれど、20歳になる頃までに、アズベリーパークでギタープレーヤーになっていた。そして真実に尽くすために「嘘をつく」連中、すなわち「アーティスト」の仲間入りを果たしていた。俺たちはいわゆる芸術家なんかじゃなかった。好きなことを一生懸命やっているだけだった。だけど、俺には最高に素晴らしい切り札が4つ揃っていた。若さ、約10年にわたる筋金入りのバーバンドの経験、俺のパフォーマンススタイルとぴったり合うような音楽をやっていた地元の良いミュージシャンたち、そして語るべき物語。
この本はその物語の続きを語り、起源を探るものだ。語るべき物語や俺の作品を形作ってきたと思う人生の様々な出来事を取り上げている。これまで道端で出会ったファンのみんなに繰り返し尋ねられてきた問いのひとつは、俺がどうやってこの暮らしや仕事をやっているのかということだ。この本ではその問いに少しだけ答え、そして、「どうやって」よりももっと大切な「なぜ」こういうことをやっているのかという問いにもなんとか答えたいと思う。
ロックンロールのサバイバルキット
DNA、天賦の才能、優れた技術の研究、芸術的思想を発展させ、それに心を砕くこと、むき出しの欲望…その対象…は名声?…愛?…称賛?…注目?…女の子?…セックス?…そしてもちろん、お金だ。そして…、もしも夜の果てまでそれを携えていたいなら、決して燃え尽きることのない危険で荒々しい炎のようでいなくちゃならない。
もし君が魔法のようななにかを見せてくれることを待ちわびて大声で叫んでいる8万人(または80人)のロックンロールファンの前に立つことがあるのなら、そうしたことはきっと役に立つと思う。彼らは君が何かを取り出して見せてくれるのを待っている。帽子から、薄い空気から、この世の中から、今日ここに信じる心を持つ者たちが集まる前には歌に駆り立てられた噂しかなかったところに何かを生じさせて見せてくれることを。
俺はこの捉え難い、いつもどこかリアリティに欠ける「俺たち」が本当にいるってことを示すためにいる。それが俺のマジックなんだ。そしてあらゆる優れた手品がそうであるように、まずは舞台設定が肝心だ。さて、というわけで…。
ブルース・スプリングスティーンの来月出版される自伝『ボーン・トゥ・ラン』(早川書房・2016年)の序文が公開されています。すでにNMEに訳文が掲載されているのですが、どうしてもブルースの言葉を自分で日本語にしたくて訳をしました。とても難しかった…。ブルースの言っていることを理解したくて英語の勉強を熱心にするようになってもう13年くらいになるけれど、まだまだ修行が足りないなと思いました。
でも、ブルースの言葉は相変わらずとてもロマンティックで、想像をかき立てられ、最後には胸を鷲掴みにされるようでした。こういう気持ちになるのは、初めて"The Rising"を歌うブルースの姿をテレビで観た時からずっと変わらない。ブルースの歌うところを観たり、彼の声に耳を傾けたり、彼の言葉を読むとき、いつも同じような気持ちになる。
最初のアズベリーパークの描写もたまらないです。何もかもが少しインチキめいている海辺の町。もともとアズベリーパークは有閑階級のリゾート地として開拓されたところから歴史が始まるので、あまり地に足のついた生活と結びついた土地ではありませんでした。そのせいなのか、確かにずっとふわふわとした妙な現実離れしたような雰囲気があるような気がします。あるいは私のそうした印象はブルースの歌のせいなのかもしれないけれど。でも、昔あったという遊園地の奇妙なマスコットキャラクターのティリーの看板やカジノビルディングの廃墟、寂れたボードウォーク(今は特に夏の季節は全然寂れていないけれど)、がらんとしたコンヴェンションホールには不思議な感覚が宿っている。いかにもロックンロールの物語が潜んでいそうな、たくさんの物陰、たくさんの秘密、たくさんの野心の跡が見える。
ブルースは自分のことも「インチキめいている」もののひとつに数え、ロックンロールに打ち込んだ仲間たちを「真実のために嘘をつく」と描写している。この表現はつい最近もも似たようなことを誰かがどこかで言っていた気がするけれど、どこだったでしょうか…。ロックンロールというのはあんまりにも良いもので、とても日常や現実とは信じることができないし、実際に日常ではないんだ、みたいな話で結構なるほどなと思ったのです。確かにロックンロールは、実際にそれで食べていったりしていたらともかくとして、日常や現実ではないのかもしれない。でも、その気持ちいい瞬間、昂ぶる瞬間、胸がいっぱいになる瞬間、何もかもどうでもよくなる瞬間、暴れている瞬間、叫んでいる瞬間、めちゃくちゃに悲しくなっている瞬間になにか本当のことに近づくことがある。あるいはそんなことを繰り返しているうちに、どこにもなかった現実が少しずつ立ち上がってきたりすることもある。嘘から出たまこと、というものなのかもしれません。
そして、その最たるものは「私たち」そのものです。ブルースを前にしたときの「私たち」とは一体何なのだろう?自分の真っ暗な部屋でひとりでブルースの声に耳を傾けている「私たち」。ブルースファンの「私たち」。そんな「私たち」なんて本当にいるのだろうか。コンサート会場に集まる「私たち」はなんらかの意味で本当にひとつの「私たち」なんだろうか。ブルースはそうだと言っている。本当にいるか分からない不確かな「私たち」を魔法のように、巧みなマジックのように、実体のある確固たる「私たち」として出現させてみせる。「私たち」自身に「私たち」のことがちゃんと感じられるようにしてみせる。何度も何度もいろんなときにいろんな歌のなかで、ブルースが言っていた通りだった。誰も糸の切れた凧のようでなんかない。たとえひとりだと思っても、信じる気持ちがあるなら、今夜俺の声に耳を傾ければきっと魔法を感じられるだろう、と。