昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

トルコによって救出された日本人の手記5

2016-05-20 02:29:49 | 親日国
第7話 『帰国』 

イスタンブールでは久し振りの休日を過ごしました、その上、命の洗濯をと云う事でパリで一日を過ごさせて頂くという粋な計らいをしてくれました。
こんなに も平和で楽しい時を過ごすと、これは夢ではないか、夢から覚めるのではないかと不安がちらっと頭をよぎりました。それならそれでいいや、この命は拾った様なものだから、そんな気持ちでパリでも思いっきり楽しみました。

夢の様に過ぎた2日間も終わり、いよいよ今日は日本へ帰る事が出来ます。人間これ程迄も変れるものなのでしょうか。3日前までは不安と恐怖で押し潰されそうな重苦しさで先の事等考えられない程だったのに。

パリからの飛行機の中で、私は、五輪真弓の「恋人よそばにいて・・・・・」を繰り返し繰り返し何度も何度も聞いていました。あの時は何でも良かった、何は ともあれ日本のものに触れていたい、そんな気持ちだったのだと思います。このカセット・テープは今も大切に私のCDラックの奥にひっそりと眠っています。

3月21日長い長い飛行機の旅の末成田に着きました、工場から出張してくれていた4名の家族の出迎えが有りました。出掛ける時は意気揚々と胸を張って出掛けたのに、意気消沈して今は何も言う事が有りません。ただ、今回の出張は結果として私が皆を巻き込んだ形になったので、ご家族の皆さんにお詫びを言わせて頂きました。
成田空港の時の事を振り返って仲間の一人は次の様に話してくれました。
「私の妻は当時6ヶ月になった長女をかかえ出迎えに来てくれました。会社の総括の方が同行してくれていましたが子供が乳児だったので家から成田まで大変だったと言っていました。その他の皆さんもそれぞれ家族に会って嬉しそうでした。たしかMさんは新婚ではなかったかと思います。Aさんも奥さんが出迎えました。

日本ではテヘランは戦火という報道がされていたので無事に帰って来た事を喜んで 泣いているご家族の方もいました。」
私は「こんな結果になって本当に申し訳ないと心から思いました」ただ、幸いな事に全員が無事に日本に帰って来れた事、ご家族に元気なまま返してあげる事が出来た事、これは私達と行動を共にし、最後まで私達を助ける為にテヘラン中を駆け回り、在りとあらゆる手を尽くしてくれたN商社の皆さん、そして、日本の商社、日本大使館そしてこの人達の誠心誠意に応えてくれたトルコのお蔭なのです。

「さあ、家に帰って家族共々、生きている事の喜び、平和で有る事の喜びをかみしめよう」ようやく私は家に帰って来ました、でもイランで起きた事、トルコに助けられた事も含め詳しい事は一切話しませんでした。
何故だろう「私の気持ちの中には、日本に見捨てられた自分が情けないという想い、家族にもその事を知られたく無いという気持ちが有りました」

日が経つにつれて、少しずつはあの不安、あの恐怖は薄れては行ったものの心の傷は簡単には癒されませんでした。会社に行ってもやはりこの事は言わずにいました。怖かったとか、不安だったとか言うのは男として恥ずかしい事だという気持ちが有ったからでした。
だから結局、トルコが私達を命がけで助けてくれた事も言わないまま月日が過ぎて行きました。色々有ったけれど今はこんなにも平和で安心して生活が出来る、あの時の不安、恐怖を早く忘れたいそんな気持ちが支配していました。でも、今でもこの時の事を話すと涙が出て来てどうしようも有りません。

第8話 『衝撃の歴史を知る、エルトゥールル号の遭難』 

どうしてトルコが私達を助けてくれたかの真相を知らないまま23年が過ぎた2008年10月17日、つけっ放しのテレビに偶然目が行った時、そこに放送さ れていた番組は「世界を変えた100人の日本人」でした。私の目はそこに釘づけになりました。

その内容は、私達がテヘランから助けられた95年も前の 1890年に和歌山県串本町大島の沖合で台風に遭遇したトルコの軍艦「エルトゥールル号」が沈没し、581名の乗組員が死亡、69名が救出されたというものでした。
この時大島の人達を中心に献身的な救助活動をした事、当時、大島は必ずしも裕福ではありませんでした。その大島の人達は救助した69名の為に医師は治療費は取らず、村の人々は生活用品を集め怪我の治療や体力回復に並々ならない苦労をし、自分達の生活をも犠牲にしたという事でした。
この大島の人達 の献身的な救助活動の恩儀を感じていたトルコが、95年後の1985年3月19日、テヘランに取り残されて、身動きが取れなくなっていた日本人を救出する為に救援機を派遣して、トルコ人よりも優先して助けてくれたというものでした。

恥ずかしい話ですが、私はこの「エルトゥールル号遭難事故」の事を全く知りませんでした。
1985年3月20日の日本の新聞では日本経済新聞が、「イラク の一方的警告の期限切れ直前、日本人二百十五人らを乗せた二機のトルコ航空機が緊張高まるテヘランのメヘラバード空港を飛び立った。エールフランス、ルフトハンザなど外国航空会社の特別機が次々飛び立つ中で、搭乗を拒否され続けた邦人がイラン脱出の最後の望みを託した救いの翼。」と辛うじてトルコの日本人に対して特別の対応をしてくれた事を報道。その他の新聞は救出の事実だけを伝えているだけで、どうしてトルコ航空が日本人を救出したのかは触れていない。

3月21日になって一部の新聞は報道してはいるものの、“日本とトルコは「安部外相が一昨年、訪問したほか、今年前半にはエザル首相(オザル首相の間違い)の来日が予定されるなど友好関係が続いているが、日本側は「友好関係の成果」としてトルコの対応を評価している。“と上から目線の報道がされていました。この報道からみても多くの日本人は何故、テヘランからトルコ航空が日本人を救出してくれたのか、その真実は知らなかった様に思われます。

私はこれを機に、日本とトルコの関係を知りたいと思い色々な資料を集めて読みあさりました。
そして自分がいかにエルトゥールル号の事故の事を知らないかを思い知らされました。それと同時に、特定の地域の人達がその歴史を必死に後世に語り継いでいた事が判りました。そうした、一部の人達の努力が私の命を助けてくれたのだと判り、何としてもその人達へ恩返しをしたいと思いました。
それと併せて、テヘランの地獄の淵から私を救出してくれたトルコ航空の事を多くの 日本人にどうしても知ってもらう為の努力をしなければいけないと思いました。

いよいよ沼田さんがエルトゥールルの事を知りました。
沼田さんは”恥ずかしい話”と言っておりますが、何も沼田さんが特別ではありません。この私の数年前の姿でもあります。
ここでシリーズで採り上げたポーランド、ウズベキスタン、パラオ共和国、インドネシア等についても同様です。
さすればこれは・・・・・「教育」の問題かもしれない。
日本は侵略をした、迷惑をかけた・・・こうした方面だけ教育する(当に自虐史観)方向は間違っていて、こうした誇れる面も是非に教えてほしいと私は思う。
これらを知れば日本に誇りを持てるはずだ。

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