昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

英霊の遺書や手紙・遺品5 三島由紀夫が号泣した遺書

2015-04-24 05:29:08 | 歴史・神秘
古谷眞二遺書 神雷部隊一式陸攻搭乗 海軍少佐 昭和20年5月11日 南西諸島洋上で戦死

三島由紀夫が如何に特攻隊に心を寄せていたのかを示すエピソ-ドがある。
三島由紀夫は自決に先立つ一か月前の昭和45年10月広島県江田島にある海上自衛隊第一術科学校の教育参考館を訪れている。
その折偶々展示されていた全国から寄せられた戦没者の遺書の中から手に取った一通の遺書を読み終えた三島は声を出して泣いたという。
それは慶應義塾大学経済学部から海軍第13期飛行予備学生に志願し、昭和20年5月神雷部隊(人間爆弾桜花による特攻部隊)として特攻出撃し、南西諸島方面で散華した古谷眞二中尉(戦死後少佐に二階級特進。23歳)の残した遺書であった。

三島はこの遺書を読んで「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない。」と語ったという。
三島自身の死の一か月前である。
その遺書が次の文面なのだが、彼の三島を号泣させた内容に触れて欲しい(靖國神社社頭掲示 平成20年5月)
皇国の一男子として生を享けて以来二十有余年、国を挙げての聖戦に勇躍征く事を得ば男子の本懐、正に之に過ぐるものなし。ものごころついて以来自分乍ら世才に長ぜりと感じ、幼友矢島君の男々しき武人姿を見るにつけ所詮 身は軍人となれぬとは思ひ諦め居たるも、長じて茲に征途につくを得ば身を鴻毛の軽きにおき勇みて征かんの心激しからざるはなし。
 過去二十何年かの間、陰に陽に愛しまれたる御両親の恩、甚だ深くして浅学非才なる小生にしては御礼の言葉も見当らず。その深遠広大なるに対し、深く深く厚く厚く御礼申し上ぐるものなり。
御両親はもとより小生が大なる武勇を為すより身体を毀傷せずして無事帰還の誉を擔はんこと、朝な夕なに神佛に懇願すべくは之親子の情にして当然也。
不肖自分としても亦、身を安んじ健康に留意し、目出度く帰還の後孝養を盡したきは念願なれども蓋し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状にあり。
大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂なく干戈を執らんの覚悟なり。幸ひ弟妹多く兄としてのつとめを果たせざるを遺憾とは思ひつゝも願はくは之等弟妹に父母の孝養を依頼したき心切なり。
死すること強ち(あながち)忠義とは考へざるも自分は死を賭して征く。必ず死ぬの覚悟で征く。
萬事頼む。
                           眞二
十八年六月十日
                箱根小涌谷にてしたゝむ 

画像は古谷少佐と三島由紀夫氏、そして古谷少佐の遺書
 


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