昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

トルコによって救出された日本人の手記3

2016-05-18 03:51:37 | 親日国
第3話 『早く脱出したい、しかしどうにもならないこの焦燥感の中、3月17日が』 

3月12日の空爆のミサイルはN商社のオフィスのすぐ近くにも着弾したので、N商社の社員が出勤途中にそこを見に行ったそうです。
歩いていたら少し小高くなっていた所が有ったので、その上に登りミサイルの着弾した所を探してきょろきょろしていましら、近くにいた人がミサイルが着弾したのは、お前が乗っているそこだよと教えてくれたそうです。
そう言われて良く見るとそこはビルディングが建っていた所で、そのビルディングが跡形も無く崩れ落ちてがれきとなって 少し小高くなっていたと言うのです。これじゃ人間はひとたまりも無いと思ったと言う事でした。

もう工場に行くのは危険という事でN商社社宅に待機する事にしました。しかし、社宅は部屋数が足りなく全員がここに一緒に住居する事が出来ない上、もしミサイルの直撃を受けた場合、全壊となり人的被害は避けられないと思いました。
そこで、皆で話合って、全員を収容出来、地下室が有る所を捜そうと云う事になりました。地下室なら直撃を避けられるのではないだろうかと考えたからです。この条件に合う所として下町に有るラマテア・ホテルが良いだろうという事になりました。

翌3月13日になって、16日か17日のアエロフロートだとチケットが取れるかも知れないという情報が入って来ました。
この機会を逃すともうチャンスが無いかも知れないという不安が有りましたし、それとヨーロッパ航空便よりアエロフロートが安心ではないだろうかという考えが有りました。
それは如何にイラクと言えどもソ連の航空機を撃墜したら何をされるか判らないからやらないのではないかという期待の考え方が根底に有りました。そこで、アエロフロートのチケットも入手する方向でN商社が動いてくれました。

12日の爆撃でベッドからはじき飛ばされた日産の技術者はもう限界になっていました。
夕食をN商社社宅で済ませ、皆一緒に移動し、午後7時にはホテルに落ち着きました。これで全員が一緒にいるので、何時でも一緒に行動出来る状況が出来ました。
しかし、これで問題が解決した訳では無いのです。飛行機の空席が取れなければ国外に脱出できません、相変わらず、N商社の社員はテヘラン中のヨーロッパ航空会社のオフィスを駆けずり回り空席を捜してくれていました。

こうしている間にも時間はどんどん過ぎ、3月17日になってしまいました。
この日の夕方、イラク・フセイン大統領は戦局の硬直状態に苛立ち「3月19日 20時30分以降イランの空域を飛ぶいかなる航空機も安全を保証しない」という悪魔の警告を出しました。在テヘラン日本大使館からは直ちに在住日本人に知らされました。

しかし、我々はどうする事も出来ませんでした。飛行機の空席が取れる事を待つしか無いのです。イラク・フセイン大統領の警告は関係の無い国の民間機迄撃墜すると云うもので、普通考えられない事でした。
これを聞いて我々はヨーロッパ航空会社は欠航してしまうのではないかと思いました。もはや航空便での脱出は不可能かと思い絶望感に追い込まれました。

第4話 『友情の翼・トルコ航空』 

タイムリミット一日前の3月18日になっても乗せてもらえる飛行機は一向に見つかりませんでしたが、思いもしなかった朗報が入って来たのです。
それは、私達が技術指導していたKD工場の一社、ザムヤッド社の技術指導に来ていたスエーデェン・ボルボ社の技術者がバスでトルコに脱出するので皆さんも一緒に行きませんかと誘ってくれたのです。 私達は直ぐに荷物をまとめて、待ち合わせ場所に駆け付けました。

しかし、私達は車では国外に出る事は出来なかったのです。それは、私達は飛行機で国外に脱出する事ばかり考えていましたので事前の出国手続きをしていなかったのです。ですから、このバスでトルコに脱出しようにも国境を越える事は出来ないのです。折角のチャンスを泣き泣き諦めるしか有りませんでした。

そしてとうとう3月19日、タイム・リミットの日がやって来てしまいました。
それでもN商社の社員はその日もヨーロッパ航空会社に私達の為に席を分けてもらえる様頼みに回ろうと、夜の明けるのを待って起きていてくれたのです。
すると、夜明け前に日本大使館からトルコが救援機を出してくれるとの情報が飛び込んで来たというのです。皆小躍りして喜びました。しかし、冷静になって考えてみると、どうしてトルコなのか判らない、日本からの救援機は来ないし、ヨーロッパの飛行機にも乗せてもらえないし、信じられない、そんな気持ちでした。

しかし、考えていても仕方が無い、兎に角行ってみようと云う事になり、N商社の社員の一人がトルコ航空テヘラン支社にチケットを買いに走りました。

その間私達は何時でも空港に行ける様に荷物をまとめ、玄関横に並べて、トルコ航空に行った人からの連絡を待ったのです。しかしなかなか連絡が来ません。
朝6時にホテルを出て、10時半ごろようやくチケットが買えそうだという一報が入ったのです。

早速N商社の社有車で空港に向かったのですが、日本人が空港に 向かった丁度その頃、各国の取り残された人達は自国の救援機に乗る為に空港に押し寄せたのです。空港敷地内はかなり広いのですが、ものすごく多くの人が集まって来たので、大混雑に成り、空港ビルに辿り着くのは容易では有りませんでした。
やっとの思いで空港ビルにたどり着いたのですが、肝心のチケットを買いに行った人が帰って来ません。結局、チケットを買いに行った人が空港に着いたのは午後2時過ぎです。

ここからようやく荷物チェックです、ここでもまた時間が掛りました。それは一人一人のスーツ・ケースを開けては中に手を入れ確認するのです。それが終わると次は、ショルダーバッグ、そしてハンドバッグと、全部中をのぞいて確認するのだから時間が掛る事この上有りません。
やっと荷物チェックが終わり、トルコ航空チケットカウンターでチェックイン、この時はイランでは今迄になかった位素早く処理してくれて、搭乗券を渡してくれました。

搭乗券さえ貰えばもう直ぐにでも飛行機に乗れる、そう思いました。ところがパスポートチェックが一向に進まないのです。
ここでも又とんでもないトラブルが起こっていたのです。なんと、アエロフロートに乗ろうと空港に駆け付けた、ロシア人が事も有ろうにパスポート・コントロールの窓口2か所のうちの1か所を 占拠してしまったのです。

こんな暴挙を許してはいけない、N商社の自動車部責任者が猛抗議をしてくれたのですが、多勢に無勢、全く聞き入れてくれませんでした。 結局、もう1か所の窓口に並んでパスポートチェックを受けるしか有りませんでした。
トルコの様に外国人の日本人の為に救援機まで出してくれる人達がいる一方、手続き窓口を占拠し、自分達だけが脱出出来れば他の人はどうでも良いと云う人達がいるのです。
私はこの時以来、ロシア人は大っ嫌いになりました。今も嫌いです。

こうした苦難を乗り越えて搭乗待合室にようやく辿り着いたのです、その時、爆弾かミサイルが爆発する様な「ドォーン」という音がしたのです。私はイラクからの爆撃が始まったと思い、ここ迄来て「だめかぁ!」と身体から力が抜けて行きました。 空港ビル内には悲鳴が上がり近くのテーブルの下に身を伏せるなど一時騒然となりましたが、爆発音は一回だけで、直ぐに場内アナウンスで子供と女性が搭乗ゲイトに案内され、皆ゲイトに走って行きました。

私はこの時、何で飛行機まで行ったか記憶に残っていないのです。タラップを駆け上がり機内に入り、座席に座って唯じっと出発を待ちました。機内はシーンと静まり返っていました。 暫くすると、滑走路に入り、そして滑走前のエンジンテストの音が「ゴー」と鳴り響き、滑走を始めました、ぐんぐんスピードを上げて、ふぁっと機体が浮き上がり離陸しました。
機内に歓声と拍手が起こりました。飛行機はぐんぐん高度を上げて行き、眼下にテヘランの明かりが小さくなって行くのが窓越しにちらっと 見えました。「ああ、助かるかも知れない」そう思いました。

トルコ航空の乗務員が語っていましたね”「飛行機に駆けて乗り込んでくる乗客を初めて見た」と。
そして、乗り込んでもシーンと静まった機内。これだけで乗客の緊張感、緊迫感が伝わってきます。

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