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昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

不思議現象の反響

2015-10-09 00:18:54 | 歴史・神秘
今回に連載している「不思議現象」はあるウェブサイトに私が書いて公開した記事である。
そうしたら、これに次の様なコメントがあった。不思議経験者は思ったより多いのだと感じた。

【コメント1】わが家族にも不思議な出来事が多くありました。
まず、妻の祖母は「身の上を見る」神様として、予知能力が評判で、多くの信者と、お弟子さんを育てたと聞いており、その孫の妻も、霊感というのでしょうか、時々、「肩が重くなった、右側だから男の人が来ている、身内や親しい人に何か起こったのだろう」と話していると、間もなく知らせが届きます。

その娘である私の長女は、幼少時から、霊の姿が見えると言っており、近所の路上に座っている老婆が見えると叫んだ事が有ります。
向かいの酒屋さんで聞いたら、嫁との折り合いが悪いお婆さんが、自宅に火をつけて、焼身自殺した事件が起きた場所で、その見たという姿は、間違いなく本人の姿であったと、証言してまして、一緒にいた私には、全くの暗闇だけでした。

切りの無いほどの心霊体験が私の周囲で、起きております
が、それも単に科学的ではないと、否定する気持ちが無く、昔から言われる、第6感という能力が存在すると、信じております。

【コメント2】今から36年前の話ですが、当時50キロほど離れた町の病院で意識が無い状態で、呼吸器をつけられた状態の、いうなれば、植物人間で入院していた義父が、自宅二階の踊り場に、チョコンと座って、階段を上がっていった妻に、ニコニコ笑顔で、ゆっくり挨拶して、掻き消すように消えたそうです。
その時刻を即座に確認した、直後に病院にいる私からの電話が入り、亡くなった事が告げられたそうです。

居間に祭壇が整った後で、出産月の妻と、その母親、近所の知人数人で、故人の思い出話をして、予定されていた火葬の時間が過ぎて、一時間ほど経った時に、突然祭壇が激しく揺れたそうで、その場に居合わせて全員が「おっかない!」と飛び上がったそうです。

お骨になって義父を抱いて帰った私に、妻が「今日の火葬何時だったの?」と聞かれ、混み合っていたので一時間遅れで行われたんだ」との返事に、留守をしていた全員が納得していた。

この後も、繰り返し数回、家族に悪い事、例えば孫である、私の息子が、浴槽で溺れそうになったり、ドブに落ちたりする朝に、必ず枕元に現れて、大きな声で呼びかける、義父がはっきりと姿を見せております。

天国から間違いなく、家族を見守ってくれてる事がわが家族では、疑いのない事実として、信じております。

【コメント3】私にも霊感が?
4年前まで飼っていたワンコが何時も私のそばにいるのです。
寝ていると布団の上を歩き回り、座っていると、遊んでと、上着の裾を噛みます。

雨の日も、雪の日も、熱で浮かされているときも、散歩。具合が悪くなってから、私のパート代半年分をかけて、治療。

愛情一杯かけた私のそばを、あちらの世界に行っても、私のそば離れないのです。
チャンネルが合っているのでしょう。

【コメント4】身近に霊感の強い人がおりますが、私は全く鈍感でわかりません。
量子物理学でも物質の構成を分子、原子と遡っていくと最後は物質の性質が波動と混じりあっている。 そして五次元(あの世)の波動はこの世に投影している。
このような理論をたてたニールス・ボーア(英国の物理学者)の本を読んだことがあって、それならあの世の魂も生きている人間に波動で接触できることはありうるのか、と納得したことでした。
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不思議現象 硫黄島・八甲田

2015-10-08 00:42:29 | 歴史・神秘
私は時たまお手伝いする関係でお寺さんと縁が深い。飲んだ時、そんな話になる事もある。

檀家のどなたかが亡くなると、分かる事が多いのだという。
住まい(庫裏)と棟続きに位牌所がある、ここから物音がすると言う。
ああ、どなたか亡くなったな~と思っていると、訃報の電話があると言う。

「八甲田山死の彷徨」は新田次郎の小説や、映画にもなったのでこの悲劇は知らない人はいないだろう。
この事件のあった連隊の建物に近い道路で、事件後、軍靴の隊列の進む音が聞こえ建物に向かって進んでくる事が続いた。姿は見えない。
ある日、ここの責任者が見えない闇に向かって「廻れ右」の号令をかけてから、この音は聞こえなくなったと何かで読んだ。

硫黄島に今は自衛隊から派遣された隊員が駐留している。
ここも不思議現象が絶えないらしい。「水を求める声」が多いと聞いた。駐留の隊員にとって、亡き兵隊の亡霊は当たり前の事だそうだ。
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不思議現象 ミステリースポット

2015-10-07 04:24:36 | 歴史・神秘
あのトンネルに夜入ると女の人が立っている、あそこの廃墟病院の荒れビルで・・・・・
実はこの手の話は好きではない。
日常の何気ない生活の中での不思議現象は興味の範疇だが、そのスポットをわざわざ尋ねては興を削がれる。

もう10年も前、岐阜県の関市に隣接した富加町でテレビがこぞって採り上げた怪奇現象事件があった。
そこの町営住宅で夜中にラップ音がする、食器棚の扉が開いてお皿が飛び出す等々で、田舎の寂しい町が一躍有名になった。

私は当時、関市に住んでいてこの怪奇現象現場もよく通る道筋であった。
昼間はなんともない集合住宅であるが、テレビ各局が押しかけ大きな騒ぎとなっていた。その内、騒ぎは収斂した、結末はよく覚えていない。
しかし、テレビ各局が押しかける程だから、この手の話は皆興味を持つと言う事でもあるのだろう。

30年も前に実際に聞いた話だ。
腰痛に苦しめられ、病院をあちこち廻っても解決しない若者(会社の同僚)が、最後は紹介する人がいて祈祷師の所に行った。
車でやっと入れる山奥にその祈祷師の社があった。
神棚の前に坐らされた。やがて祈祷師が祈祷の文言を唱えると、神棚の蝋燭が風もないのにバババババッと揺れたと言う。

向き直った祈祷師は(ここからはよくある話であるが)、あなたの母親に水子がいて、それが腰に憑り付いているのだと言う。生まれなかった兄弟の事を聞いた事が無い。
帰って確認したら母親がそれを認めた。これもその後、完治したのかよくは覚えていない。

水子が祟った話はインチキ宗教でも多いので首を傾げる話もあるが、どんなもんでしょうか。
ま~供養はした方が良いのだとは思いますが。
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不思議現象 身内の死亡を知らせる徴候

2015-10-06 02:23:49 | 歴史・神秘
家族が遠くに離れて亡くなった場合に、その徴候が合った、実際に亡くなった本人に遭遇した例も多い様だ。前に記したように、私は全くこうした事に無縁だ。
前回転載したこのサイトの日記をもう一つ紹介させていただく事にする。

(引用開始)
しかしながら、不思議な話しを、直接経験した人に聞いたことは、わたしにはある。
それは、わたしの養父の話しなのだが、養父は不思議な体験をしてきた人でそういう体質なのだろうと超現実家の母はあっさりそう片付けた。

もうずっと以前、公務員だった養父がシンガポールに赴任していた時だった。一人暮らしだった養父は、ある夜とんとんと家の戸をたたく音に眼をさました。
明けがた近くだっだ。ドアを開けると、降っている雨の中に、母親(私にとっては祖母)が立っていた。日本にいるはずなのに夜中、それも一人で。充分奇妙だ。

〔ああ、ああ、ああ、一人でよく来たねえ。まあ、入って〕と中にいれて、居間で、親類の様子や出来事を話しをしているうちに、
まあ、お茶でも、と養父が台所に立ち、お茶をいれて居間に戻ると、祖母はいなかった。そこに座ってほんのいままで親しく話し込んでいた祖母はかき消えていた。
そうすると、すぐ戸がたたかれて、日本からの電報が届けられたとか。
そこには祖母の危篤がかかれてあった。養父は、電報が届いた頃には祖母は亡くなっていたことを直感した、とわたしに話してくれた。

その話しをしてくれた時の養父の姿をよく覚えている。打ち明け話を照れながらしている、という風で、ある夜の居間だった。養父は和服を着ていたが、浴衣でなかった。白に紺のワンピース姿のわたしは一人床に座って椅子にもたれていた。養父と二人きりだった。
〔ふうん、、それでおばあちゃん、どうしてたの。お父さんはびっくりしたの〕と
うなづきながらその話しを聞いいていたわたしは8才くらいだった。その後、何度かその話しを聞かされたが、養父はそれに近い体験はたくさんしていた。それでも男にとって、母親は特別の存在なのだろう。父親との交流ではもっとあっさりしたものなのだろうか。

養父は、母親の魂が自分のもとを訪れたことを考えると母親との特別な関係を話したかったのだろう。枕元にいられず海外にいる息子の元へ、心配のあまり訪れた母親の心を。(引用終わり)

こうした類の話は他にも聞いた事がある。これをどう考えたらよいのだろうか・・・・・・・

つまり、例えば亡くなった人に3人の孫がいるとする。そうすると、上記のような知らせは全ての孫に行くのか。
それとも特別の存在の孫の所だけに行くのだろうか。
孫が全てが霊感が鋭いわけではないだろうから、鋭い人だけが感じて普通の感覚の人は何も感じなかったのか。

それとも、霊感を感じるからこそ、その人の所だけに行くのか・・・・・・・何とも分らない。
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不思議現象 チャンネルが合うのか

2015-10-05 00:25:55 | 歴史・神秘
世の中には霊感があると言うか、霊が見えたり、超不思議な体験をする人も多いらしい。私はこの手の話が好きだが、昨日も話したように、残念ながら自らに霊感を感じる体質は全くない様だ。

例えば霊が見える、UFOによく遭遇する、場合によって未来が見える、予測できる人がいるとしよう。
こうした事に縁のない人はこれを信じない。眉に唾をつける。これも分らないではない、自分では起こり得ない事を言われたって信じられないのだ。

ではどうして、霊が見える人と、全く見えない人がいるのだろうか。ここからは霊が存在するとの前提の上だが・・・・・

私たちには全く見えないが、この空間に電波が行き交っている。テレビ電波、ラジオ電波、電話電波等々色々だ。この電波は誰も見たことが無い、しかし、電波がある事は皆信じている。
なぜなら、実際にテレビを見、ラジオを聞き、電話で話しているからだ。

しかし、例えばラジオ。いくらラジオを持っていても周波数が合わなければ全く聞こえない。
私はこの霊感のある人は、言わばその世界と周波数が合っている人ではないかと思っている。

病院の勤務ではこうした不思議現象にたびたび遭遇するらしい。次に紹介するのは、ウェブサイトのある方の日記を転載させていただく物です。

引用開始
(日記の執筆者の知っている)看護師さんは体格のいい綺麗な27才。淡々と物事をこなすタイプで、患者さんの中には彼女の隠れたfanがたくさんいそうに思えた。
その看護師さんが一週間前、勤務中、病院の廊下で、一人の女性とすれちがった。軽く会釈をするのでこちらも返したが、あれ、と思ったのだそうだ。

看護師の部屋に戻ると、同僚のひとりが、目配せした。〔ねえ、見た?〕と尋ね、ふたりでうなづきあった。
廊下ですれちがった女性は数日前にその病院で亡くなっていた。
〔死んだのに、彼女、そこで何してるのかしら〕と私が聞くと、
〔病室へ入っていって、一人一人の患者さんのベッドに近寄ってじっと観察して、がっかりしたような様子で手をもじもじさせて、次々とベッドを回っていた。一緒に連れてゆける人を捜しているんだと思います〕

生前と同じ、パジャマ姿で、ゆっくりと歩くその患者さんは、わたしは、興味があって聞いたのだが、足があったそうだ。スリッパを履いていた。それに、わたしの予想を裏切って、まっ昼間。
足が無いというのは、昔は着物だったから足が見えなかったからなのだろうか。絵でもなんでも日本の幽霊は足が描かれてない。
病院では、彼女とこの同僚の看護士が亡くなった人の姿が見え、あとひとりは、時々見えるそうだ。

それから、もう一人、今はアメリカ人と結婚して海の向こうに住む看護師を知っているが、彼女もRNの試験を受けるために英語を勉強していたが、不思議なこと、想像もできないこと、えっと眼をまばたきすることなら、病院にはい~っぱいある、と言っていた。

彼女が夜勤のとき、ナースコールがよくあった。ある日も午前2時、〔ああ、また〕ともう一人の看護師と合図しあって、
〔いい、わたしが行ってくるから〕と、彼女がその部屋に行っても、空きベッドだけ。
それをけろりとしてわたしに話したのだが、10日以上前に亡くなった患者さんが、痛みで午前2時頃にベルを鳴らしてきて、看護師達はかけつけていたそうだ。亡くなっても、しばらくは主のいない部屋からナースコール。

自分が亡くなったことを知らず、まだ痛い、痛い、何とかして、と看護師に訴える患者。
わたしは、はあはあとうなづくだけだった。他に何が言えただろう。  引用終了

どうだろう、この話。私にとって未体験の不思議な世界だ。しかし、チャンネルの合う人たちにとっては日常の世界らしい。この事をもう少し続けてみたい。
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不思議大好きにも困ったものだ・・・・・

2015-10-04 03:54:24 | 歴史・神秘
まず臨死体験を採り上げたのだが、私自身は世の中の不思議現象になんでも興味がある。
臨死体験、人は死後どうなるのか、輪廻転生、UFO、宇宙人、月の不思議、オーパーツ、消えた古代文明etc・・・・・・

本箱にはこれらの本が溢れているし、テレビでもこの種を採り上げた番組は欠かさず観るようにしている。
ついには、我が地元秋田に「奇々怪会」なる不思議現象大好きのサークルがあるのを知り、会員となった。

ただ、私自身に不思議体験や、霊感は全くにないようだ。
世の中には、これらに敏感な人がいて「霊を感じる」「霊が見える」「UFOをよく見る」らしいのだ。
そんな状況をご説明したうえで、さてさて明日から・・・・・・
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死ぬ時心はどうなるのか 立花隆 臨死体験

2015-10-03 02:32:10 | 歴史・神秘
NHKスペシャルで立花隆氏の特集が三夜放送された。
テーマは臨死体験で、氏はこの著作もあり、長い間真相解明に努めてきた。この集大成とも言うべき番組であった。
私はこの面に非常に興味があるので、録画して観てきた。

さて、世の中に臨死体験した人は以外に多い。そして、その状況は多くの人で共通している。
大概は病室から始まる。ベッドに寝ていた身体から魂(と名づけておこう)が抜け出し、病室の上の方からベッドにいる自分自身や、処置にあたっている医者や看護婦を見下ろす。
その内に魂はトンネルを上昇してゆく。着いた先は色とりどりの花が咲き乱れる心やすらぐ場所で、そこで大いなる存在(神か)を感じるらしい。
生前に遭遇した故人に巡りあったりする。その内に、まだお前の来る所ではないと言う啓示を受けて、病室の自分の体に帰ってゆく・・・・・・・

このブログに相応しいか悩むが、しばらくこれをテーマにしてみたい。

【立花隆】4人の臨死体験者が死にゆく時に見たものとは?
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靖國神社の風景

2015-05-02 02:42:11 | 歴史・神秘
靖國神社の一角に英霊以外の動物の慰霊碑もあるので、それをご紹介したい。
靖國神社に慰霊碑がある動物というのは、馬、犬、そして鳩だ。軍用馬、軍用犬、軍用鳩として戦場で活躍し、敵の銃弾や砲撃などで死んでいったり、寿命が尽きた彼らが、靖國神社で人間と一緒に祀られている
家畜動物のなかで、牛や豚やニワトリは、古くから食用として人間の役に立ってきた。しかし、何かの目的のために訓練して使役する動物ということになると、日本では普通、馬と犬くらいしか思い浮かばないだろう(東南アジアの国々では、象も使役動物なのだろうが)。しかし、馬や犬と違ってほ乳類でもなく、わずか2.4g程度の脳をもつにすぎない鳩が、軍隊や新聞社などで活用され、靖國神社に慰霊碑まで立っている。正直ビックリした。

まず馬であるが、遊就館前に「戦没馬慰霊像」がある。大戦当時、馬は貴重な乗り物、運搬の役割を果たしたが昭和33年に奉納された像は実物大です。
第2次大戦の前期まで、戦地で馬は重要な移動手段でしたから、たくさんの馬たちが戦地に連れて行かれました。
生まれた時から「軍馬」として育てられた馬も、農家の馬も、日通などの運輸の馬もいたそうです。
また、戦地だけでなく、焼け野原になった町の復興にもたくさんの馬たちが働いてくれたそうです
20万馬が慰霊の対象だそうであります。

軍犬慰霊像はジャーマンシェパード像が平成4年に奉納された。
軍犬慰霊碑の台座にある「軍犬慰霊碑建立由来」と書かれたプレートには、以下のような碑文が刻まれています。

「昭和六年(一九三一年)九月満州事変勃発以降、同二十年八月大東亜戦争終結までの間、シェパードを主とする軍犬はわが将兵の忠実な戦友として第一線で活躍し、その大半はあるいは敵弾に斃れ、あるいは傷病に死し、終戦時生存していたものも遂に一頭すら故国に還ることがなかった。
この軍犬の偉勲を永久に伝え、その忠魂を慰めるため有志相はかり
広く浄財を募りこの像を建立した
平成四年三月二十日 動物愛護の日」


鳩と地球儀を模した鳩魂塔は昭和57年の奉納で、伝書鳩として忠実に勤めを果たした鳩の霊を慰めている。
  

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英霊の遺書や手紙・遺品8 山岡荘八の若き日

2015-04-30 04:29:50 | 歴史・神秘
小説家、山岡荘八氏は若き時従軍記者であった。この時代に一人の特攻隊員との濃密な接触があった。

昭和二十年、報道班員として鹿屋基地にあった後年の時代小説家、山岡荘八氏は死を目前に控えた青年達の明るさ、朗らかさが大きな謎だった。その謎を解いてみようと、氏は遂に一人の青年に目星をつけ、当時禁句であった質問をぶつけてみた。

相手は教師を勤めた経験もある西田高光中尉(死後少佐、二十三歳 大分県出身、海軍中尉、大分師範、予学13。第五筑波隊員。)である。この人物ならどんな質問を向けてもそのために動揺する気遣いなどはないと見込んだからである。
「この戦争に勝てると思っているか?」「負けても自分の犠牲に悔いはないか?」
「今日の心境に達するまでどの様な心理的葛藤を経験したか?」等である。

彼は重い口調で、現在ここに来る人々はみな自分から進んで志願したものであること。したがってもはや動揺期はは克服していること。そして最後にこう付け加えた。

「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしてもそのあとはどうなるのです・・・ おわかりでしょう。
われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。
そう、民族の誇りに・・・」
西田高光少佐が孤独な思索の中で紡ぎだした結論である。彼等の出撃は作戦的には全く無意味、戦果は限りなく零に近いだろう。作戦上の効果を論ずるとしたら功利的観点に立つということだが、特攻出撃は功利の観点を超越したところにある発想のものだった。

西田少佐の言葉で「講和の条件にも」つながると見ているのはこの青年の冷静な知性を窺わせ、ただ敬服するしかない。だが重要なのは敗戦必死としても「その後の日本人の運命にひびく深刻な意味が「特攻」にはこもっているという、この一事である。
つまり「誇り」高き敗北を可能ならしめるか否かの問題である。そして現実に特攻死は誇るべき死であった。

敗戦は、当時の欧米帝国主義の視点で捉えれば、「民族追放」か「民族浄化」を意味する。
どんなによくても奴隷扱い、悪ければ皆殺しである。彼等の誇り高き死があったればこそ、
日本の存続を可能たらしめ、アジアの国々の独立の契機となったことは紛れもない事実である。

西田中尉は出撃の2日前、死装束となる新しい飛行靴が配給されると、すぐに部下の片桐一飛曹を呼び出し、「そら、貴様にこれをやる。貴様と俺の足は同じ大きさだ」と言いました。
片桐一飛曹は顔色を変えて、「頂けません。隊長のくつは底がパクパクであります。隊長は出撃される…いりません!」と拒みました。
すると、西田中尉は、「遠慮するな。貴様が新しいマフラーと新しいくつで闊歩してみたいのをよく知っているぞ。命令だ。受取れ。俺はな、靴で戦うのでは無い!」と答えたそうです。
彼がパクパクとつまさきの破れた飛行ぐつをはいて、500キロ爆弾と共に大空へ飛び立っていったとき、山岡氏は見送りの列を離れ声をあげて泣いたそうです

昭和二十年五月十一日 午前九時三十分前後、
皇国の一臣 高光
総てのものに感謝しつつ別れをつげん
明朝三時半起し。つきぬ名残もなしとせざる感あるも明日の必中の為に寝る。
只皇国の必勝を信じ
皇国民の一層の健闘を祈りつつ
一臣として常道をひたすらに歩き
悠久の大義に殉ぜん
二十年余の至らぬ限りを
明日の必中によりてこそいささか報へん
お父さん
お母さん
兄弟
そして教え子
その他の人々
さらば


西田中尉出撃の2日後、中尉の母と兄嫁が基地にたずねてきた。 真実を話せなかった山岡氏は、中尉は前線の島に転勤したと告げ休息所に案内したが、そこには「西田高光中尉の霊」が祀られ香華がそなえてあった。
あわてた山岡の耳元に兄嫁が「母は字が読めません」とささやく。その場を取りつくろったつもりで2人を控室に伴い、お茶が出された時だった。
「ありがとうございました。息子がお役に立ったとわかって、安心して帰れます」山岡氏はいきなりこん棒でなぐられた気がした。文字は読めなくても母親の勘ですべてを悟った中尉の母は、丁寧に挨拶し、兄嫁を励ましながら涙一滴見せずに立ち去った。

 


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英霊の遺書や手紙・遺品7 女性御祭神

2015-04-29 03:34:36 | 歴史・神秘
前回に真岡郵便局の九人の乙女をご紹介したが、彼女たちも靖國神社にお祀りされております。
実は彼女たちを含めて靖國神社には五万七千柱の女性が祀られており、神社では「女性御祭神」と呼ばれております。

守られるべき対象の女性ではありますが、国難に際しては銃後を守り、従軍看護婦、軍属として戦地に赴き、また軍需工場などで生産に励み、祖国永遠の平和とその繁栄を願いつつ、尊い命を御国に捧げられた女性達であります。
今日はその女性御祭神の中から数例をご紹介させていただきます。

日赤救護看護婦 山野きよ子命 昭和20年7月10日 ルソン島サフランにて病死

十字星を窓から見て泣いた時、世に名高いマニラの夕焼けにはるかな故国をしのび、帰りたくなった時だつてあります。
幼い子を見る時、洋司を思ひ、また嘉代子、英子と思ひが走ります。
年若くして国を離れる、これはこれからの長い清子の人生に大きな役をしてくれるでせう。
清子は体の続く限り白衣の人として生きるつもりです。切断のあとを見る時、又これに処置の時、生々しい傷を見るにつけ、
ここは第一線だ、戦場だと働きがひを全身に感じ、すべてを忘れてしまひます。
清子は山野の家を代表した女の勇士です。皆様に心配させるやうなことは致しません。体の続く限り働きます。靖国の宮で・・・。
皆様の御健康御多幸を祈ります。



真新しき 双(もろ)の眼帯 かけつつも ふと想ひたり この兵の母を
赤十字歌集に載った、従軍看護婦の丹野ふみ子氏の作である。この歌では、両眼を失った兵に対
し「可哀そうだ」という意味の言葉を一言も使わず、ただ「眼帯をかけながら、その兵の母の事を
思った」とだけ歌っている。
 しかし読む人をして、思わず「可哀そうだ!」という感じを起こさせる。それは、「この兵の母
を」という一句で、すべてを表しているからである。母という言葉の中に、「誰よりも、その子を
愛し、子の為にはいかなる犠牲をもかえりみない、絶対愛」の姿があり、その母が、両眼を失った
「我が子」を見たら、どんなに悲しむであろうか、ということは誰にでも想像し得ることであるか
らである。自分がその兵に対し、可哀そうだと考えているものの何十倍、何百倍いやそれ以上の思
いを抱くであろう「母」の心を推し量って、自分の気持を押えて詠んだ所に、この歌の素晴しさが
あると思う。
 この歌から察すると、この看護婦さんは、「母」には及ばないかも知れないが、それ以外の誰に
も負けない真剣なまなざしで、この兵を見護っているようである。
 表面的には、情ひとつかけない厳しい態度で「この兵」に接しているのかも知れないが、眼帯を
かける時の気持は、いかばかりであったろうか、また「母」にも会えない、両眼を失った兵にとっ
ては、「母」の代りとなる「希望」であり「光明」であったことであろう……と想像は限りなく広
がる。
 たった三十一文字(字余りはあるが)の中に、このように深い意味を秘めている和歌について認
識を深めて戴ければ幸いである。
 蛇足ではあるが、更にこの歌の中で生きている句として「ふと想ひたり」をあげてみたいと思う。
 本当は、その兵を見た時からずーっと「可哀そうだ」と思い続けているにもかかわらず、自分の
気持は「ふと想ひたり」という表現にとどめ、すべてを「母」の気持に託した所により深い悲しみ
を表現しているように思える。


日赤救護看護婦 西澤都彌命 昭和18年6月22日 中国九江にて戦病死

日記
眠れぬと思ひつつ明方うつらうつらする中、点呼の鐘で目がさめる。昨日来の暑さのほとぼりさめず、むしむしする。
ラジオ体操後、医長殿の戦局のお話しあり、山西省安慶方面の苦戦の様をきき、暑さの為不平を云ってた事を恥しく思う。
朝はさすがに河中に碇泊して居るので冷たい。はるか遠く、みどりの野がつづき、そのはてがあを空と続いて居る。
大空のもとに、横たはる大地のいかに小さいか、そしてその中で互ひに相戦ひ合って居る人類の小ささが痛感される。
江岸にそよぐ高粱の葉・花が手にとる様に見える。時々ジャンクが音をたてて通りすぎる。
午前中病室のベッドを造り、汗は滝の様に流れる。


母のみ名 呼びつゝ兵の みまかりぬ アカシアのかほり しるき夜更けに
日赤救護看護婦の西澤都彌の命(みこと 戰死され靖國神社に祀られている方)のお歌である。
 母の名を呼びながら兵士が亡くなったことと、夜更けにアカシアの香りがしたことは一見何の関
係もなく、仮に外国語に訳したとしたら「何の事を言っているのか意味不明」となってしまうが、
この一見何気ない「アカシアのかほり しるき夜更けに」の中に限りない悲しみが込められている。
 最期に母の名を呼んで息絶えた兵士の声の後は、誰も言葉を発せず「ほのかにアカシアの香りが
漂ってきた」のが更に更に悲しみを増してくる。何処にも可哀そうだとか哀れであるとかの言葉を
用いていないのに、読む人に「兵士の心の叫び」そして「渾身の看護をした人のやるせない気持」
を伝えているものである。短い言葉の中にこれだけの思いを込められるのが「和歌の特徴」であり、
これを歌の専門家や学者でない一市井の人が詠んでいるところに日本の素晴らしさがある。
 萬葉集以来の歴史と伝統がしからしめるものと思う。先に掲げさせて戴いた丹野ふみ子氏の歌と
ともに、看護婦となられた方は単に看護技術に秀でておられるだけでなくその優しい心遣いから
「兵士の心のケア」にも貢献されたことが察せられる。日本軍が精強であったことの陰に「負傷し
ても、心優しい看護が受けられる」との思いが有ったのかも知れない。
   

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樺太・千島の戦い 二題 占守島・真岡電話交換手

2015-04-26 04:20:18 | 歴史・神秘
最初の逸話は浅田次郎の小説「終わらざる夏」にて有名ですが、昭和20年8月18日つまりボッダム宣言受諾後に占守島に攻め込んできたソ連に日本兵は果敢に挑みます。果敢な抵抗と被害のひどさにソ連の死者数は予想以上であったが、21日停戦協定を結び日本は武装解除しました。この辺りの状況は次のとおりです。

終戦の時に、占守島には日魯漁業の従業員の方が二千五百人ほどいました。この人たちは国民の食糧確保の為に悪い戦局を承知で、缶詰工場で働いていましたが、その中には約四百人の若い女子工員も混じっていました。終戦を迎え、内地からの迎えの船が来れば真っ先に彼女たちを送り返す手筈を整えているところへのソ連軍の攻撃でした。
参謀長と世話役の大尉は「このままでは必ずソ連軍に陵辱される被害者がでる。なんとしてもあの娘たちを北海道へ送り返そう」と相談し、当時島にあった独航船二十数隻に約四百人を分乗させ、霧に覆われた港から北海道に向けて出港させました。ソ連機の爆撃が続く中、日本軍も高射砲の一斉射撃で必死の援護を行い無事に出港させることが出来たので.す。
「全員、無事に北海道に着いた」との電報が島に届いたのは、それから五日後でした。
停戦後に上陸してきたソ連軍は女性を捜し回ったそうですが、あとの祭りでした。
もし、彼女たちがいち早く島を出ることが出来なかったことを想像すると、占守島の第九十一師団の心遣いが人ごとでなく心にしみます。ソ連と戦った戦車第十一連隊はその十一の文字を結合して土(ツチ)と読み、土魂部隊として名を残しました。
しかしながら、武装解除した兵は結局シベリアに抑留されつらい生活を送ることになるのですが・・・・・・

もう一つの悲劇が樺太の真岡です。
ソ連は『日ソ不可侵条約』がまだ有効であるにも関わらず、日本に一方的に宣戦布告、樺太、千島、そして北海道を奪う為に軍隊を上陸させてきた。

樺太の真岡が侵略を受けたのは終戦後の8月20日。
日本軍は連合国に敗北し、ポツダム宣言を受け武装解除したが、
ソ連には侵略にとって好都合以外の何物でも無かった。

ソ連は真岡の町めがけ艦砲射撃をし、なんの抵抗もしない一般住民に機銃掃射を浴びせ、虐殺を繰り返す。
真岡の日本軍は停戦を求める為に、軍使として村田中尉を送るが彼も殺害されてしまう。
日本軍も止むに止まれず、武器を再度取って国民を逃す為に立ち上がった。

戦ったのは軍人だけではなかった。
日本の為に最後の最後まで通信施設の機能を守った、9人の電話交換手。
皆20代前半、中には17歳、18歳の若き乙女もいた。
彼女達は日本の北海道に向けた通信機能を最後まで守る為に命を捧げた。

ドイツや満州、ソ連が占領した地域の婦女子はすべからく辱めを受け、虐殺された。
それを知っていた彼女たちは「内地のみなさん、さようなら・・・さようなら」の言葉を残し、用意していた青酸カリで自決の道を選んだ。
彼女達も靖國神社に祀られている。
映画『樺太1945年夏 氷雪の門』予告編


しかし、今回のテーマではないけれどソ連って陰険な国だな~。敗戦を受け入れたあとに、条約を一方的に破棄して攻撃してきて、停戦交渉の軍使も殺す。
満州やここらの敗残兵をシベリアに抑留、厳寒地でろくな食事、装備も与えずに強制労働をさせ、多くの人が命を落とした。
いまだに北方領土は未解決で、ここの元島民も高齢化で島に帰れぬままお亡くなりになっている。
真岡の交換手の悲劇を描いた映画「樺太1945年夏 氷雪の門」には公開中止の難癖までつけ、いまだに公には上映されていない。何故上映中止を申し入れるか、ソ連の悪行がそれこそ知れ渡るからだが、これに屈した日本政府もだらしない。
  
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英霊の遺書や手紙・遺品6 英霊に捧げられた花嫁人形

2015-04-25 03:07:11 | 歴史・神秘
靖國神社の遊就館に、23歳の若さで戦死された陸軍軍曹佐藤武一さんに対し、母上様から捧げられた花嫁人形がある。

佐藤武一命の略歴は
歩兵第二十二聯隊所属、昭和二十年四月十日沖縄本島幸地にて戦死。
北海道山越郡八雲町出身、二十三歳。

北海道の佐藤ナミさんから、妻を娶ることなく若くして戦死した我が子・・・「陸軍軍曹佐藤武一命」のために「桜子」さんと名付けた花嫁人形が靖國神社に奉納されています。
ご子息の戦死から33年後に奉納されたその人形に、ご子息への深い愛情が綴られた手紙が添えられています。

武一よ貴男は本当に偉かった。23才の若さで家を出て征く時、今度逢う時は靖國神社へ来てくださいと雄々しく笑って征った貴男だった。
どんなにきびしい苦しい戦いであっただろうか。沖縄の激戦で逝ってしまった貴男。
年老いたこの母には今も23才のままの貴男の面影しかありません。
日本男子と産まれ、妻も娶らずに逝ってしまった貴男を想うと涙新たに胸がつまります。
今日ここに日本一美しい花嫁の桜子さんを貴男に捧げます。
私も84才になりましたので、元気で居りましたら又逢いに来ますよ。
どうか、安らかに眠ってください。有りがとう。
昭和五十七年三月二十八日    母ナミ


花嫁人形に対する故三宅久之さんのコメント
靖國神社に参り、遊就館を訪ねたとき、私はいつも小一時間かけて、ひとりひとりのお顔を拝見するようにしている。その多くが十代、二十代。ういういしい少年、青年たちの顔が並んでいる。花嫁人形は、部屋で遺影に向き合って飾られている。
少年たち、青年たちのほとんどが、妻を娶ることなく、女性を知ることもなく、手さえも握ることなく、死んでいったのである。それを哀れに思った母親や姉たちが、亡き息子に、亡き弟に、と花嫁人形を贈ったのである。若者の遺影の前に飾られている花嫁人形を見るたびに、私は泣けてしかたがなくなる。彼らの無念を思うとともに、戦争の無常さを思い、常にその場に立ちすくむ。何度行ってもこの思いは変わらない。


この花嫁人形は現在八十体ほどあるらしい、遊就館で交替に展示をしているらしい。我が子が、我が弟が英霊となった今せめてものお嫁さんを・・・・で贈られたこの花嫁人形を見て、心打たれない人はいないであろう。
画像は佐藤武一さん、お母さんのナミさんの寄せた文章と花嫁人形、涙の三宅久之氏
    


以下は月刊誌WILLに寄せられた三宅久之氏の花嫁人形に対する寄稿文全文です。
 


【花嫁人形】靖国神社と特攻隊員

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英霊の遺書や手紙・遺品5 三島由紀夫が号泣した遺書

2015-04-24 05:29:08 | 歴史・神秘
古谷眞二遺書 神雷部隊一式陸攻搭乗 海軍少佐 昭和20年5月11日 南西諸島洋上で戦死

三島由紀夫が如何に特攻隊に心を寄せていたのかを示すエピソ-ドがある。
三島由紀夫は自決に先立つ一か月前の昭和45年10月広島県江田島にある海上自衛隊第一術科学校の教育参考館を訪れている。
その折偶々展示されていた全国から寄せられた戦没者の遺書の中から手に取った一通の遺書を読み終えた三島は声を出して泣いたという。
それは慶應義塾大学経済学部から海軍第13期飛行予備学生に志願し、昭和20年5月神雷部隊(人間爆弾桜花による特攻部隊)として特攻出撃し、南西諸島方面で散華した古谷眞二中尉(戦死後少佐に二階級特進。23歳)の残した遺書であった。

三島はこの遺書を読んで「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない。」と語ったという。
三島自身の死の一か月前である。
その遺書が次の文面なのだが、彼の三島を号泣させた内容に触れて欲しい(靖國神社社頭掲示 平成20年5月)
皇国の一男子として生を享けて以来二十有余年、国を挙げての聖戦に勇躍征く事を得ば男子の本懐、正に之に過ぐるものなし。ものごころついて以来自分乍ら世才に長ぜりと感じ、幼友矢島君の男々しき武人姿を見るにつけ所詮 身は軍人となれぬとは思ひ諦め居たるも、長じて茲に征途につくを得ば身を鴻毛の軽きにおき勇みて征かんの心激しからざるはなし。
 過去二十何年かの間、陰に陽に愛しまれたる御両親の恩、甚だ深くして浅学非才なる小生にしては御礼の言葉も見当らず。その深遠広大なるに対し、深く深く厚く厚く御礼申し上ぐるものなり。
御両親はもとより小生が大なる武勇を為すより身体を毀傷せずして無事帰還の誉を擔はんこと、朝な夕なに神佛に懇願すべくは之親子の情にして当然也。
不肖自分としても亦、身を安んじ健康に留意し、目出度く帰還の後孝養を盡したきは念願なれども蓋し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状にあり。
大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂なく干戈を執らんの覚悟なり。幸ひ弟妹多く兄としてのつとめを果たせざるを遺憾とは思ひつゝも願はくは之等弟妹に父母の孝養を依頼したき心切なり。
死すること強ち(あながち)忠義とは考へざるも自分は死を賭して征く。必ず死ぬの覚悟で征く。
萬事頼む。
                           眞二
十八年六月十日
                箱根小涌谷にてしたゝむ 

画像は古谷少佐と三島由紀夫氏、そして古谷少佐の遺書
 


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英霊の遺書や手紙・遺品4 お母さん、お母さん、お母さん・・・・・

2015-04-23 04:16:48 | 歴史・神秘
陸軍歩兵中尉 立山英夫命 歩兵第四七戦隊
昭和十二年八月二十二日支那河北省辛荘付近にて戦死
熊本県菊池郡隈府町出身

立山中尉は支那事変の折、将校斥候として偵察に出た初陣で戦死。出征わずか三週間後のことでまだ見習い士官であったそうです。その立山氏の血まみれの軍服のポケットには、彼の母親の写真があり、その裏には母を思う長歌が書かれており、最後には「お母さん、お母さん、お母さん……」と二十四回もくりかえし書かれていた。(靖國神社社頭掲示 平成20年8月)
(写真裏文面)
若し子の遠く行くあらば 帰りてその面見る迄は
出でても入りても子を憶ひ 寝ても覚めても子を念ず
己生あるその中は 子の身に代わらんこと思い
己死に行くその後は 子の身を守らんこと願ふ
あゝ有難き母の恩 子は如何にして酬ゆべき
あはれ地上に数知らぬ 衆生の中に唯一人
母とかしづき母と呼ぶ 貴きえにし伏し拝む
母死に給うそのきはに 泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
母息絶ゆるそのきはに 泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
母息絶ゆるそのきはに 泣きておろがむ手のあらば
生きませるとき肩にあて 誠心こめてもみまつれ

お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん


この血まみれの軍服の内ポケットから見つけられ写真をご覧になった立山中尉の上官に当たる陸軍大佐・大江一二三さんが大変感動なさって立山中尉の郷里でのご葬儀に際し、弔電を打たれました。
それが、
「靖國の 宮にみたまは 鎮もるも
            をりをりかへれ 母の夢路に」

という素晴らしいお歌でありました。
このお歌にはのちに曲がつけられ国民に口ずさまれたということです。

よく映画やドラマなどで”天皇陛下万歳”と死んでゆく場面があるのだけれど、実際は”お母さん”への思いだと聞いてはいた。
この立山中尉の胸ポケットに入れていた母親の写真、その裏に書かれた思いと最後に「お母さん」と24回も書かれている内容を見れば、母親への想いが切々と伝わってきます。
大江大佐は和歌に秀でた方のようですが、電報文が素晴らしいです。この頃の方は勇敢で且つ教養があったのですね!

画像は立山中尉、写真裏の文面、大江大佐の電文によるお歌
  
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英霊の遺書や手紙・遺品3 幼い妹に宛てた遺書

2015-04-22 04:09:00 | 歴史・神秘
今日の遺書は小さな妹に宛てたもので大石清命のものである。両親なきあと一人残る妹を思う気持ちが切々と伝わってきます。
大石清 大阪府出身 飛行学校卒 戦死 年齢不詳

大阪府出身で、飛行学校卒の大石清伍長は、昭和20年(1945年)3月13日、14日の大阪大空襲(深夜の3時間、274機のB29で民間人を無差別爆撃)で父を失い、つづいて重病だった母親も亡くす。
肉親は大石伍長の妹である静恵さん、当時小学生。兄が戦場に行き、妹は伯父の元に引き取られていた。
妹思いの兄は、給与のほとんどを妹に送金しており、このような手紙をやりとりしたという。

静(しい)ちやん お便りありがたう。何べんも何べんも読みました。お送りしたお金、こんなに喜んでもらへるとは思ひませんでした。神だな(棚)などに供へなくてもよいから、必要なものは何でも買つて、つかつて下さい。兄ちやんの給料はうんとありますし、隊にゐるとお金を使ふこともありませんから、これからも静ちやんのサイフが空つぽにならない様、毎月送ります。では元気で、をぢさん、をばさんによろしく

そして、いよいよ出陣です。
大石清伍長 遺書
なつかしい静(しい)ちやん!
おわかれの時がきました。兄ちやんはいよいよ出げきします。
この手紙がとどくころは、沖なはの海に散つてゐます。
思ひがけない父、母の死で、幼い静ちやんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。

兄ちやんのかたみとして静ちやんの名であずけてゐたうびん(郵便)通帳とハンコ、これは静ちやんが女学校に上がるときにつかつて下さい。
時計と軍刀も送ります。これも木下のおぢさんにたのんで、売つてお金にかへなさい。
兄ちやんのかたみなどより、これからの静ちやんの人生のはうが大じなのです。

もうプロペラがまはつてゐます。さあ、出げきです。
では兄ちやんは征きます。泣くなよ静ちやん。がんばれ!


この妹の静恵さんに兄の手紙を届けたのは戦友のようです。
大野沢威徳からの手紙(万世基地にて)
静恵ちやん、突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思ひます。
わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。
伍長どのは今日、みごとに出げき(撃)されました。そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。おとどけいたします。

伍長どのは、静恵ちやんのつくつたにんぎやう(特攻人形)を大へんだいじにしてをられました。
いつも、その小さなにんぎやうを飛行服の背中につつてをられました。ほかの飛行兵の人は、みんなこし(腰)や落下さん(傘)のバクタイ(縛帯)の胸にぶらさげてゐるのですが、伍長どのは、突入する時にんぎやうが怖がると可哀さうと言つておんぶでもするやうに背中につつてをられました。
飛行機にのるため走つて行かれる時など、そのにんぎやうがゆらゆらとすがりつくやうにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。

伍長どのは、いつも静恵ちやんといつしよに居るつもりだつたのでせう。
同行二人…仏さまのことばで、さう言ひます。
苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽつちではない。いつも仏さまがそばにゐてはげましてくださる。
伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちやんだつたのでせう。
けれど、今日からは伍長どのが静恵ちやんの”仏さま”になつて、いつも見てゐてくださることゝ思ひます。

伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。
静恵ちやんも、りつぱな兄さんに負けないやう、元気を出してべんきやうしてください。


これらを纏めたYou Tubeもご紹介いたします。

泣ける【静ちゃんへの手紙】~神風特攻隊員の兄と幼き妹~
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