昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

トルコによって救出された日本人の手記6

2016-05-21 04:08:48 | 親日国
ここからも沼田さんの手記は続くのですが、一部を割愛して数点を転用させていただきます。

第10話 『在日トルコ共和国大使館で初めてトルコの人に直接お礼が言えた』 

 エルトゥールル号遭難事故の事を知って、何としてもトルコの人に直接お礼を言いたいという気持ちを抑える事が出来なくなり、在日トルコ共和国大使館に連絡を取らせてもらいました。

私の様に全くトルコに友人も知人も居ない一個人が連絡を取っても、相手にされないか、応対してくれても誰かの紹介を求められると考えていました。しかし、私が想像していた事とは全く違って、私の簡単な自己紹介と1985年にトルコ航空で助けられた日本人であることをお伝えしただけなのに、数日後の12月10日に大使館に来て頂ければ参事官が会いたいという事で、その日に大使館に来られるかどうかという事でした。
考えられない事です、勿論私は即座に返事をさせて頂きました。会って頂けるだけでも私にとっては大変有難い事なのに、大使館に招いて頂けるという、これ以上の嬉しい事は有りません。

 私にとって外国の大使館を訪問する事は初めての経験なのでどの様な事を準備すれば良いのか判りませんでした。
私が考えている外国の大使館は門を一歩入ればそこは外国、だから当然その門を通れば外国に足を踏み入れる事なので、厳重なチェックが有るだろう、少なくともパスポートチェックは必要だろうし、その他にも自分の身分を証明する物が必要であろう、例えば、写真が入っている自動車運転免許証とか健康保険証、しかし、大使館に確認したところその様なものは全く必要無くただ正門を入ってセキュリティー担当者にアポイントを頂いた参事官のお名前と自分の名前を告げれば良いと云う事でした。
本当に驚きました、こんな事で大使館の安全が守れるのだろうかと私の方が心配する程簡単に入館させて頂けるとの事でした。

 2008年12月10日、お約束の時間少し前にトルコ大使館に到着し入館しました。
正門を入り、少し行った左手に大使館に入る入口が見えました。そこを入ったら、守衛室が有りましたので、事前に言われていた通りアポイントを頂いていた参事官のお名前と自分の名前を名乗りました。直ぐに大使館に入るオートロック扉のロックを外してくれて「どうぞ中へ」と促されて扉を開けて入りました。そこは大使館の敷地の中です。玄関を入って直ぐの所に受付が有りそこに日本人の女性が訪問者の対応をしています。

 訪問者記入リストに記入し、ロビーの椅子で待たせてもらいました。待っていると間もなく右手の扉から女性が出て来て参事官室に案内してくれました。
参事官は待っていてくれて、私が入って行くと直ぐに立ち上がり握手を求めて来ました。握手をしながら名前を告げお時間を取って頂いた事にお礼を言うと、接客用ソファーをすすめられました。参事官と私がテーブルを挟み座り、秘書の方は私の隣に座ってくれました。

 早速、25年前テヘランからトルコ航空で助けてもらった事を手短に話し、心からのお礼を言いました。秘書の方がトルコ語に訳してくれて私の気持ちが直接参事官に伝わり、逆に参事官からわざわざ感謝を言う為に来た事にお礼を言われてしまいました。
 
暫く、25年前のその時の状況などを話した後、1999年8月のトルコ北西部大震災の復興状況をお聞きし、復興支援の募金を申し出ましたら、トルコ政府としては義捐金の受付は既に終了していて、折角の申し出ですが、お受け出来ませんとの事でした。それではそれに関する事で寄付をする事が出来ないものかお聞きしましたら、兵庫県のある団体が活動をされている事を教えてくれました。具体的な名前は判らないという事でしたのでお時間を取らせた事へのお詫びとお礼をして大使館を後にしました。

25年経ってやっとトルコの方に直接お礼が言えた瞬間でした。私は何と幸運なんだろう、こうやって直接トルコの方にお礼が言える日が有るとは考えてもいませんでした。

第14話 『25年後再び天国・イスタンブールを訪れる』 

串本町での2010年6月3日から5日の「日本トルコ友好120周年事業」に出席させて頂いて、帰宅して間もなく、和歌山県海南市の作曲家・指揮者の向山精二さんから連絡がありました。
向山さんは和歌山県の「北六班の歌」「幻想組曲粟嶋神社」「高野山の四季」「紀伊の国交響組曲」等を作詞・作曲された方で和歌山県、関西地区に於いてコンサートを開催している方だと言う事でした。

向山さんは最近になって、エルトゥールル号事故の事を知り、これはすごい事だ、和歌山県の先人がした素晴らしい人間愛の行動を音楽にしたいと思い立ち、「紀伊の国交響組曲第四楽章」に「エルトゥールル号の乗員に捧げる曲」「友情・エルトゥールル号の軌跡」を追加作詞作曲し、関西地区を中心にコンサートを開いていました。エルトゥールル号の出来事について勉強するうちに、このエルトゥールル号の事故が日本・トルコ両国を深く結びつける事になり、それから95年後の1985年3月にトルコ航空によるテヘランからの日本人救出劇が有った事を知りました。

これが両国の「友情」を更に深めた事を知り、この事を音楽にして日本とトルコの友情を広く伝えて行きたいと考え「友情」その1「九死に一生」を作詞・作曲したそうです。

 そんな折、たまたま私が串本町の「日本・トルコ友好120周年事業」に参加し、私達がトルコ航空で助けられたのは、エルトゥールル号の事故の時、串本町大島の人達が中心に献身的な救助活動をしてくれたお陰でしたので会場においでの皆さんにお礼を言わせて頂きました。
その事が後日、和歌山県で報道されましたので、向山さんは私がトルコ航空でテヘランから助けられた日本人の一人である事を知り、コンサートの休憩時間に音楽の好評と当時の事を話してもらえないかとの依頼が有りました。
私としては、トルコが私達日本人にして下さった家族愛にも勝るとも劣らない友情で助けてくれた事を多くの人に知って頂けるので有ればとの思いからこの申し出を受けさせて頂きました。
 
このコンサートは大阪・ザ・シンフォニーホールを皮切りに東京・サントリーホール、トルコ・メルシン、アンカラ、イスタンブール・アヤイリニ教会で行われました。私はこのうちの東京・サントリーホールとトルコ・イスタンブール・アヤイリニ教会のコンサートに参加させて頂きました。

 イスタンブールへの訪問は実に私がトルコ航空で助けて頂いてから25年経った2010年7月27日でした。
向山さんのお陰でトルコへのお礼をさせて頂く機会を頂いた訳です。会場には1200人を超えるトルコの方が来られている中でお礼を述べさせて頂きました。こんな幸運な事は滅多に有るものでは有りません。
更にサプライズとして、1985年3月19日私達を助ける為に来てくれたトルコ航空の機長だったオルハン・スヨルジュさん、機関長のコライ・ギョクベルクさん、キャビンアテンダントのアイシェ・オザルプさん、デニス・ジャンスズさん、ナーザン・アキュンレルさん、そして、森永さんが壇上にお上がりになり私と握手をしてくれたのです。余りの突然の事で私の頭の中は真っ白になってしまいました。

 翌7月28日には、在イスタンブール日本国総領事公邸でオルハンスヨルジュ元機長他何名かの元トルコ航空の方々とお会い出来る事になっていましたので、まさかコンサート会場でお会いする等とは夢にも考えていませんでした。
コンサートの翌日には予定通り日本国総領事公邸で元トルコ航空関係者の方々、森永さんとお会しました。正に私達の命の恩人達です。

この夢の再会は、在イスタンブール日本国総領事館総領事と副領事で、私の様な者の為に公務でお忙しい中、色々奔走して開催して下さいました。何とお礼をしたら良いか判りません。私はこんなにも多くの皆さんに助けて頂いて、命の恩人の方々にお礼を言える場を作って頂いたのです。この日は日本に帰国する日です、ここで感じたこの思いをしっかりと心に刻み決して忘れない様にしなければいけないそんな思いを強くしたイスタンブール再訪問でした。

 皆さん本当に有難うございました。

沼田さんのトルコに対する思いが伝わってくるページです。
大使館に御礼に出向き、ついにはトルコにも再訪します。その切っ掛けとなったのは、エルトゥールルに端を発する串本町との関わりでした。ご本人は語っておりませんが、串本町に「ふるさと納税」を続けておられるとの事です。
沼田さん、本当にご苦労様でした。


なお、沼田さんの手記全文は次のサイトで閲覧できます。
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