独白

全くの独白

嘘と思い做し

2018-04-12 15:15:19 | 日記
国の役人と地方の役人の云う事が矛盾している。
必ずしも国の役人の方が優秀であるとは言えないし、国の役人の方が常に正しいとも言えないのは無論である。
 人の世は信頼で成り立っている。
信頼無くしては、例えば踏切の信号が青でも、止まらずに通過する事も出来ない。
道から見て青なら運転者は、電車が来ないと信じて進入する。赤の時は電車の方が、車も人も進入しては来ないと信じて進行する訳である。
車と電車の双方に、相手への信頼があればこそ出来て居るのである。
 況してこの騒ぎの主は俊英であり、泥棒でも詐欺師でもない。国の役人も地方自治体の役人も、間接的に畢竟は吾人が、少なくとも一般の民間人並みではあろうと、信じて任じているのである。
嘘と断じてしまっては、気の毒である。信任した相手への嘘吐き呼ばわりは第一筋が通らない。一旦信頼して任したからには、当人が白い旗か錦の旗を掲げる迄任して置くが好かろう。
 因に自身が勝手に期待した期間に成果の挙がらない事に業を煮やして、折角任せてくれた仕事を途中で性急に取り上げてしまう上司程、忌ま忌ましいものは無い。
 記憶程あやふやなものも無く、私等は昨日食べた物すら思い出せはしない。
只さえ曖昧なそういうものが、何らかの事情で何らかの情緒に流されれば、嘘と紙一重のものに成ってしまう事は、意外にあり勝ちである。
但しそれは飽迄寸前で嘘に成り下がらずに踏みとどまっていて、当人も半ば以上真実と信じている事が多い。
過去と今とを隔てる靄と、当人の信じ込みたがる事情や情緒が、そうさせるのである。
私等も、長じてからは流石に無いが、子供の砌には結構そんな事のあった気がする。
 記憶に比べてメモと云う物に一日の長の在る事は、備忘録という訳語に思いを致す迄も無く明らかである。
「会った記憶が無い」というのは、「会わなかった記憶がある」、と同義では無い。
「決して会っては居ない、会わなかった」という記憶の無い以上、メモを基に会った記憶が有ると言っている相手に、異議を唱える事は出来まい。
敢えて繰り返すが、このメモを捏造と云ってしまっては、抑も話が始まらない。