独白

全くの独白

交通安全

2017-03-15 15:29:37 | 日記
もうすぐ小学校にも新入生が入ってくる。春の交通安全運動もあり、交通安全教育もあろう。
道を渡る時には「右、左、右」と見て渉れと教えると思う、私の子供の頃はそうであった。
最初に右を見るのは、最初に出会う車が日本では右からのもので在るからであろう。最後に再び右を見るのは、見落としを避ける為と、横の小路や敷地から、最初には居なかった車や自転車が、これから渡ろうとして居る道に出て来てこちらに向かって来ていないか否かを確かめる為であろう。
それに似てちょっと違う理由が、もうひとつ在ると私は思う。最初から見えていた車が二度目にどの辺りまで来ているか、つまり一度目と二度目との時間的懸隔の間に、その車がどれ位近付いたかを、即ちその車の速度を見極める事である。
一度目に一キロ離れて居ても、飛行機程のスピードなら二度目にはすぐ傍迄来ている事であろう、当然渡り始めてはいけない。
人格は三歳で出来上がってしまうとの説もある、子供等にと侮ってはいけない。頭ごなしにではなく、説得力のある教え方をすべきで在り、理解できない事の身に着く筈は無く、理解さえすれば容易く身に付けられる点で、大人と変わる所は無かろう。
「こうしろ」と共に「何故そうしなければならないのか」を必ず懇ろに教え諭すべきで、自身の小学生の砌を省みれば明らかである。
この「右左右」は、車に於いても重要で私には苦い記憶がある。
大通りを走って居ると、前方の駐車場から出てきた車の後部に衝突してしまった。
面白く無いのはこの最後の姿だけを見て「追突」と称する在りようで在る。
ニュース番組等でも路肩に最初から停まっていた車に衝突した事故を「追突事故」と称している。
私の解釈では「追突」とは、前後に併走していて前のものにした、後ろのものの衝突である。私の事故でも、少しタイミングが違っていれば私は相手の横にぶつけていたかも知れないし、どうかすれば相手が私の横に突っ込んでいたかも知れないのである。
こういう場合不快なのは横から出て来た者が大概「ちゃんと見て出た」と警官等に言う処である。
「ちゃんと見た」のなら出て来た筈は無く、衝突した筈も無いのである。
彼の「見た」のはこちらの姿でしか無く、スピードは「見て居なかった(眼中に無かった)」のである。
この時私は確かに速度違反をしていた。もう少し低速であれば、寸前で止まれたかも知れない。併しそもそも彼がその「速度違反」を然るべく見極めていたら、何事もこの日此の時起こりはしなかったのである。違反をしている車となら衝突しても構わないと言う事には成るまい。
彼は最初に私の車との間の距離だけを見て、干渉する事は在り得ないと迂闊にも判断してしまったのである。彼の言い分を聞くならば、「相手が非常識なスピードを出していた」と言う事に成ろう。
併しそういう彼の「常識」が真に普遍的な「常識」である保障などどこにも無い。事故は故意に起こす場合を除いて当事者の誰にとっても良いところの無い不仕合わせである。合わない為起こさない為には決して自己を過信する事なく、慎重の上にも慎重を期して、すべき事を確実に実行することである。