ゆっくりと世界が沈む水辺で

きしの字間漫遊記。読んでも読んでも、まだ読みたい。

高橋千劔破【花鳥風月の日本史】

2011-10-09 | 河出書房新社
 
古今の幅広い文献・資料等にみられる自然とその時代時代の人々との関わりを語った1冊。

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 花鳥風月の日本史

 著者:高橋 千劔破
 発行:河出書房新社
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第1章の「樹木の日本史」から始まって、「虫」「花」、「鳥」、「雲と風」、「太陽と月星」、「雨と雪」、「魚介」、第9章の「動物の日本史」まで、おまけに思い入れたっぷりの「まえがき」がついたこの本は、最初から最後までよそ見をすることもなく、自然と古えの人々との関わりについて書かれている。
時代を遡ることは神代の時代まで。古事記、日本書紀は言うに及ばず、万葉集をはじめとした種々の歌集や、文学史上名高い作品から在野の研究者たちの著作まで、まで引き合いに出される文献も幅広い。『耳袋』もあるくらいに。

たとえば「花の日本史」の章は、もちろん桜から始まる。
花といえば桜。貝原益軒の『大和本草』、『古事記』、『日本書紀』、はてはチェホフの『櫻の園』にも触れていき、これが奈良時代ならば梅なのだと、万葉集のなかでそれぞれが詠み込まれた歌の数の比較となる。
梅は118首、桜は40首。
この数が示すとおり「花」が桜になるのは平安時代以降で、内裏にあった(お雛飾りにもある)左近の桜はもとは梅だったのだとか。梅もエピソードは多く、有名どころの菅原道真の飛梅、『大鏡』から鴬宿梅の話もあげられる。
花ならば百花の王・牡丹は?と思うが、これは花の宰相・芍薬とあわせて中国では…となり、日本に限らず話題は海を越えていく。文化を語る本であるから考えてみれば当然だろう。さまざまなものが海を越えて伝播、伝来したのだから。
文献や資料に芸能関連のものが多く採られているのも面白い。
花の章の中には世阿弥の『風姿花伝』についての文章があり、「秘すれば花」という有名な言葉を持つこの書物について著者は“単に能の奥義というだけでなく、汎芸術論であり教育論であり、人世訓でもあ”り、“「能」を語るのに「花」を藉りたところに、日本人の花に対する深い思いの、一つの象徴をみる思いがする”と書いている。
ここから著者は、華道の奥義書もあげて花にも道を求めた人々の心の高さを思い、現在の状況を憂いた後、「花の精神(こころ)と花見の宴」と題されたこの節は醍醐の花見のエピソードと落語『長屋の花見』で閉じられる。

どの章も幅広く事物がとりあげられており、へーとか、ほーとか言いたいタイプの私には楽しい読書となった。
歴史上の人物が登場するエピソードでは、なるほど『歴史読本』の編集長だった方、『花鳥風月の日本史』だと思う。
単純なところでは、鶴を食べるのか!とか、晴れるまでてるてる坊主の顔は描かないのか!とか。知らずにいたことを笑われてしまいそうだが、縁のないとはこういうことかとしみじみしてしまった。
雨や風の章であげられた雨や風の呼び方、名前は繊細で美しく、これを日々の暮らしの中で当たり前に使いわけることができるならば風流なことだろう。このまま埋もれさせたくはない言葉たちだと思う。
思うが、田舎在住とはいえ、私も著者が声高に憂う「現代」に生きている。かつては暮らしに深く根差し、だからこそ細分化された季節の言葉も不可欠なものではない。

著者はかなりの情熱をもって、自然との共存・調和を語り、失われた自然との結びつきを惜しみ、嘆き、それを壊したことを暗に、諫早の問題などでははっきりと責めている。
できることならば100年前、せめて自分の少年時代、蝶が飛び交い、川の土手には緑のある、自然と人が親しかった頃に戻れという気持ちが言外に、だが、強烈に伝わる。
諸手を挙げて一緒に嘆く気持ちになれればよかったのかもしれないが、正直なところ、そうもいかなかった。
ところどころ、著者の言葉にひっかかりを覚えながら読んできたからだ。
「花鳥風月」の言葉が象徴するのは自然そのものより、季節を映すものへの情緒だろうと思う私にとっては、そのあたりを曖昧にされて、自然を守ろうというスローガン的な話にもっていかれたりすると面喰ってしまう。私は自然の脅威から身を守らなければ生きていけないのが人間だと思っている。その部分になると、著者の「自然」とはどうも違うらしい私の思う「自然」との違和感が邪魔して、著者のいうところをうまくのみこむには、多少努力が必要だった。

そのひっかかりは個人的なものだろうから、さておくことにしても、どの時代でも(100年前だろうといつだろうと)、自然が、あるいは情緒、古き良きものが失われたと嘆かれているはずだとは、よく言われることだ。
嘆かわしいと言う人がいなくなり、誰も惜しまなくなったら、きっと失われるのは早い。必要な歯止めだと思う。
私も惜しいと思うからこそ、この本を手にした。失わずに済むものならぜひともそうしたい。
けれど、代わりに手にしたものを差し出せばそれが戻るわけでもないし、できることは、残し得たものをこれからも大切に思うこと、今あるものへの気持ちを育むことだと思っている。
それがまったくできていないと言われたらちょっとさびしい。

法隆寺が修学旅行のコースから外れることはなさそうだし、寺社仏閣めぐりを趣味とされる方も多いだろう。特に趣味とまではいかなくても、寺社仏閣を訪れればの静謐な佇まいに安らぎを感じ、自然と頭は垂れる。
誰しも虫の声を聴けば秋の訪れを思い、夜に薫る金木犀にその深まりを思う。
ふと見上げた空に皓々とした月があれば、一瞬、月の名前の記憶を探るだろう、結局思い出せる言葉がなかったとしても。
なだらかな山の端に照る夕日はもちろん美しいけれど、鋭角的なビルの輪郭に切り取られた夕焼けは、みれば万葉の歌人たちだって歌にするだろう。
小さな庭も、窓辺の花も、街路樹も季節を映す。
確かに、虫の名はコオロギが精いっぱいで、鳥の名前も定かではないけれど、風景や季節を思う言葉、文章、映像には、今も事欠かないではないか。
「花鳥風月の現代史」も案外いけそうだと、楽観的な私は思う。
おそらく、都会であればあるほど、多分にノスタルジックで、失われたものへの思いをのせたものになるのだろうけれども。



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