ゆっくりと世界が沈む水辺で

きしの字間漫遊記。読んでも読んでも、まだ読みたい。

コレット【シェリ】

2009-06-26 | 岩波書店
 
これは、須賀敦子さんの書評を読んで手にとった作品。
岩波で、フランスで、傑作の誉れ高く、50歳間近の高級娼婦レアとその愛人でシェリと呼ばれるいまだ若く美しい青年の関係が描かれた作品で、通常の私の範囲とはかなり離れたところに位置している。
須賀敦子さんの全集の書評の巻を読んでいたのはもう昨年のことだから、これもまただいぶ寝かせた本になってしまった。

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 シェリ

 著者:コレット
 訳者:工藤庸子
 発行:岩波書店
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シェリ(愛しい人という意味の呼びかけ)に持ち上がった結婚話を機に変化する親子ほどに歳の離れたふたりの愛人関係の行方を追う物語は、薔薇色の寝室の朝から始まる。
あからさまな表現はないのに濃密な夜が明けた朝であることが、そしてそれが幾夜ともなく繰り返されてきたことが伝わる始まりをなんだか読み飛ばすこともできずに、若さと美しさを垂れ流すシェリのわがままとけだるさをレアと一緒に眺め、また、レアが我と我が身を眺める自負とそれに微妙に紛れ込む諦めを感じることになってしまった。
装飾的で色彩的、小鼻のふくらみまで細かに描写するような文章は、物や色でいっぱいのなのに不思議な調和を感じさせてしまう西洋の部屋のよう。
おそらく原著はもっとくどい印象なのではないかと思うのだけれど、この訳にはそれを感じなかった。

私は、それが取り柄になるほどに美しい男というものを身近で見たことがないし、レアのように磨きをかけてキープすべき美貌とも無縁なので、このふたりに親近感を感じるかといわれたら、「いや、全然。全く。」と答えるところ。
ただ、若さを未熟と軽んじることも、老いを成熟とむやみと美化することも、うかうかとできる歳ではなくなったので、レアとシェリの関係が終わりを迎えることを、それが至極真っ当なこととはいえ、切なく思わずにはいられない。
もしふたりの精神的な年齢が逆転していたら結果も違っていたのかもしれないが、アンバランスな25歳の男と懐の深い49歳の女の、親子のような甘えと甘やかしが入り込んだ微妙な愛人関係(設定でも、シェリはレアの友人の息子。)は、レアが手塩にかけた小鳥を空に放つようにして終わる。
美しい終わりのようだけれどもひどく残酷。
まるで母親のように近しくても、決して母親と同じではない、同じようであってはいけない女として存在していたはずのレアに対して、シェリが母親と同種の醜さを感じたとき、ふたりの関係は壊れてしまった。
「あんたと一緒にいると、いつまでたっても大人になれない」などと体のよさげなことを言っても、所詮、老いを隠し切れない醜さとしてシェリが感じたということでしかない。
レアがシェリを男として見始めたとき、シェリはレアを女としてみることをやめてしまうのだ。
「まだ大丈夫、まだもう少し大丈夫」と思っていたレアに、シェリはとどめを刺してしまう。
でも、そのときのレアがそれまでのどんな場面よりも美しくなかったことも確かなことで、それは彼女自身も気づいているのだ。
終わりを支えるのは、レアの誇りだけ。
これ以上シェリが自分に対して失望を感じることにはとても耐えられないレアは、彼がそう仕向けたとおり、シェリを開放するのだ。
解放されたシェリはどこへ行くのか。
シェリは本当に解放されたのか。
もしかしたら、シェリは実物のレアからは解放されたかもしれないけれど、彼の愛したレアから解放されることはないのではないかとも思う。

それにしても、ほんとに自分勝手だな、この男。
若い娘の方がいいなと思うようになってしまう気持ちもわからなくないけど。
と、思うのは、私が若い男じゃないからだろうか。
いや、男じゃないからか?






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