2016年,当時の高市早苗総務相は,放送局が政治的公平性を欠く報道を繰り返したと政府が判断した場合には放送法4条違反で停波を命じる可能性があると述べて議論を呼んだ.おそらくその影響もあって,選挙などに関する報道が大きく減ったと聞く.テレビ局に放送停止をちらつかせて政権に都合の悪い報道を抑え込もうという姿勢は許しがたいことで,総務相の発言は,放送法4条の立法趣旨にも反すると批判された.
だが条文の文言上からは政府による報道規制にも利用できてしまうので,4条廃止論もある.たしかにネットではツイッターでも,ブログでも,ユーチューブでも,あるいはインターネット放送でも,「公平性」にとらわれないメディアはいくらでもある.どの家庭でも朝晩テレビを見るのが当たり前だった時代ならともかく,現在,テレビだけに「公平性」を課すことの意義は薄れている.
だが権力の濫用を防ぐために4条を廃止すればいいという単純な問題ではないということを,新聞コラムで知った(朝日新聞2018年1月4日).
実はアメリカでは1987年に「公平原則」(テレビ・ラジオに重要な問題について公平でバランスのとれた報道を義務付けたもの)が廃止された.ケーブル放送や衛星放送によりチャンネル数が増えたことで,多様な意見を伝える環境が整ったとの考えに基づく方針転換だ.だが1990年代以降,視聴率のために党派的な主張を強めることで,メディアへの信頼が低下したという.たしかに地上波テレビの重要性はかつてに比べ大幅に低下しているが,ネットのような偏った主張を解禁するとなると抵抗がある.
そしてそもそも,放送法4条は,権力による濫用のおそれがある反面,権力による介入への抵抗の盾になるとの指摘もある.つまり,政府側の一方的な言い分を放送することを強制されそうになったときに,「公平性」を根拠に抵抗できるというのだ.
だが,記者会見の場で朝日新聞の記者に朝日新聞が報じなかったこと(実は報じていた)を強く批判するような安倍首相の態度や,高市総務相の停波発言後の選挙報道の自粛などを見ていると,放送法4条がそのような「盾」になりうるものかどうか覚束ない.
権力者が力でメディアを押さえつけようとする限り,放送法4条は,権力者がメディアを押さえつける口実になる一方,権力の介入に抵抗する盾としては無力と思えてならない.
権力の座につく人は権力の行使に慎重になるべきなのだが,政権を担う党にそのような発想が全く見られないのがもどかしくてならない.
だが条文の文言上からは政府による報道規制にも利用できてしまうので,4条廃止論もある.たしかにネットではツイッターでも,ブログでも,ユーチューブでも,あるいはインターネット放送でも,「公平性」にとらわれないメディアはいくらでもある.どの家庭でも朝晩テレビを見るのが当たり前だった時代ならともかく,現在,テレビだけに「公平性」を課すことの意義は薄れている.
だが権力の濫用を防ぐために4条を廃止すればいいという単純な問題ではないということを,新聞コラムで知った(朝日新聞2018年1月4日).
実はアメリカでは1987年に「公平原則」(テレビ・ラジオに重要な問題について公平でバランスのとれた報道を義務付けたもの)が廃止された.ケーブル放送や衛星放送によりチャンネル数が増えたことで,多様な意見を伝える環境が整ったとの考えに基づく方針転換だ.だが1990年代以降,視聴率のために党派的な主張を強めることで,メディアへの信頼が低下したという.たしかに地上波テレビの重要性はかつてに比べ大幅に低下しているが,ネットのような偏った主張を解禁するとなると抵抗がある.
そしてそもそも,放送法4条は,権力による濫用のおそれがある反面,権力による介入への抵抗の盾になるとの指摘もある.つまり,政府側の一方的な言い分を放送することを強制されそうになったときに,「公平性」を根拠に抵抗できるというのだ.
だが,記者会見の場で朝日新聞の記者に朝日新聞が報じなかったこと(実は報じていた)を強く批判するような安倍首相の態度や,高市総務相の停波発言後の選挙報道の自粛などを見ていると,放送法4条がそのような「盾」になりうるものかどうか覚束ない.
権力者が力でメディアを押さえつけようとする限り,放送法4条は,権力者がメディアを押さえつける口実になる一方,権力の介入に抵抗する盾としては無力と思えてならない.
権力の座につく人は権力の行使に慎重になるべきなのだが,政権を担う党にそのような発想が全く見られないのがもどかしくてならない.