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日本歴史紀行

徳川家臣紀行 8 天野三郎兵衛康景 駿河 興国寺城跡


興国寺城跡
静岡県沼津市根古屋



天野三郎兵衛康景

天野康景は、徳川家康より5歳歳上で、家康がまだ幼い幼名〜竹千代の頃、尾張織田氏に売られた際に乗っていた舟に同乗して以来、さらに
駿河 今川義元の人質時代を一緒に過ごし、家来というより、5歳歳上の兄と弟という間柄でした。


康景を輩出した天野家は、古くは源頼朝が流罪となって住んでいた蛭ヶ小島に近い天野郷に住んでいたことから交流のあった天野遠景の流れを組む一族で、遠景は源頼朝の平家打倒の狼煙を上げる山木兼隆の館を襲撃する戦いに参加、石橋山の戦いでは敗れるも、その後も頼朝に従い、壇ノ浦の戦いでは頼朝の弟、範頼に従い、 九州の平家に味方する御家人と戦い、壇ノ浦で平家を滅ぼしてからは、頼朝より九州の鎮西奉行として赴き、長く九州の治安維持に務めました。


その遠景の子孫たる天野一族は後に伊豆から三河国に流れ、やがて三河国額田郡岩戸村付近(現在の愛知県岡崎市中央部)を地盤とし、代々 松平氏に仕え、康景の祖父の遠房は家康の祖父、清康に。父の景隆は家康の父、広忠に。
そして康景は家康にと、天野家三代が松平宗家に仕えてきた重臣譜代です。

三河一向一揆では、代々崇敬してきた一向宗派を捨て、家康への忠義を貫き、鎮圧に参加しました。

2に続きます。






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コメント一覧

aoikitakaze4390031
@takechiyo_1949 こんにちは
その通りです!
次回はそのあたりを予定しています。
よろしくお願いいたします。
Unknown
@葵北風さん
こんにちは。
天野康景公は、城の竹を盗もうとした農民集団の一人を斬った足軽を弁護し、一万石を捨てて浪人になったと聞いたことがあります。
家康公は後で大いに反省したとか。
続きを楽しみにしています。
竹千代 拝
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