
清水次郎長 像 静岡市清水区 梅陰寺
清水 次郎長(しみずの じろちょう、文政3年1月1日(1820年2月14日生まれ)
清水次郎長 本名〜(山本長五郎)は、幕末・明治の侠客、博徒として名を馳せ、東海一の親分と恐れられました。
侠客、任侠の世界は、ぼくは全くわかりません
が、大親分と聞けば、この方が真っ先に浮かびます。
喧嘩、子分の仇討ちや出入りに明け暮れた次郎長が変貌を遂げたのは、幕末 戊辰戦争でした。
すでに地域に顔が効く人物として官軍 東征大総督府により、東海道 江尻宿付近の警護を任されていた次郎長でしたが、官軍により惨殺された幕府軍兵の遺体が地元の清水、巴川に放置されているのを見かねた次郎長は、子分たちと船で遺体を引き揚げ、埋葬しました。
次郎長は、明治新政府に咎め立てされたものの、~死んだら皆 仏。仏に官軍も幕府軍もない。~と平然と答えました。
この義侠心に感激したのが、静岡藩大参事で、勝海舟~西郷隆盛の会見の立役者、山岡鉄舟でした。
山岡との出会いで次郎長はこれまでの半生を悔い、10歳以上も年下の山岡を終生変わらぬ師と仰ぎ、清水港の振興、静岡産の茶の輸出や貿易。
三保油田、相良油田への出資、富士裾野の開墾、さらに外国人講師を雇い、自身の住まいでもある船宿 末広の2階を英語塾として開放。彼の人生の後半は、社会事業家として生きました。
晩年の次郎長は、港のお爺さんとして地元民に親しまれ、次郎長の葬儀には三千人が参列しました。