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天野康景 碑〜興国寺城跡
静岡県沼津市根古屋
駿河 今川氏の人質として成長した家康(当時は松平元康)は、桶狭間の戦いで今川義元の討ち死にしたことを機に故郷、岡崎で独立します。
1563年永禄6年
三河一向一揆が勃発すると、一向宗派だった天野一族は苦悩しますが、康景は家康主従との絆を選び一揆側と戦い勝利します。
三河国をほぼ平定した家康は、1565年永禄8年に三河の領国支配において天野康景、高力清長、本多重次の三人を奉行に選びます。
三河国内における民政、領内における訴訟等を担当させます。この人事は、家康のよく語られる〜三者三様の人事考慮として、〜慈悲深く仏の様な高力(高力清長)、剛毅な鬼作左(本多重次)、どちへんなし(偏らず公平)天野三兵〜と性格の違う三名は、互いの短所を補い、長所を生かすことで領国経営は安定しました。
家康が竹千代時代の幼少の頃から知る者とあって、康景は家康からの信頼もあり、出陣の際は家康自身 城を空けるため、城代、留守居を康景に託して後背の守りを万全としました。
その後、1586年 天正14年には、伊賀越え以来功のあった甲賀忍の統率を任され、家康が江戸入りしてからは、江戸町奉行を任された康景でありましたが、事件は関ヶ原の役が終わり、家康が全国を束ねようとした矢先の1601年 慶長6年(西暦1601年)には1万石の知行を与えられ、駿河 興国寺藩主となりました。
興国寺城はかつて伊勢新九郎〜北条早雲が今川家中の家督相続問題を解決させて得た所領で、早雲はここから権謀術数を駆使して伊豆、相模へと進出して戦国大名としての北条氏の礎を築いた由緒ある城跡でした。
康景は領内のさらなる開拓や治水といった農政に力を尽くし、藩政の安定につとめました。
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しかし康景に不幸が訪れます。
1607年 慶長12年、興国寺城修築のために城外に蓄えられていた築材などの資材が度々盗まれてしまう事件が頻発し、藩主である康景は、家臣に命じて見回りをさせておりました。そのような中、深夜に資材を盗み出そうとした輩が現れ、藩士たちが発見しましたが、複数いた輩が逃走計ったため、制しきれずに数名を斬ってしまうという事態となりました。
後日、その罪人たちが天領(幕府直轄領)の農民たちであったことがわかり、幕府の本多正純は天領の領民を殺害した者の引き渡しを興国寺藩にもとめてくるのです。
そこで康景は、盗人から藩の資材を守ろうとした藩士を、盗人が幕府の公民であり、藩士がいわゆる私兵であるとした理不尽な理由で差し出すというのは、武士の筋道が違うとして頑として拒否し続け、ついには城も領地も放棄し、一族率いて相模国の西念寺へ蟄居してしまいました。
これにより康景は改易となり、1613年慶長18年康景は同地にて亡くなりました。
〜どちへんなし〜どちらにも偏らない公平に扱うという康景の人生観は幕府を相手にしても変わることなく貫かれ、最期までこの言葉どおりでありました。
やがて将軍職が三代家光の頃、家光は諸侯の見直しを進めていたところで、本多正純が裏で手を回していたとされるこの顛末を知ります。
康景の子、天野康宗は1628年 寛永五年に赦免され、知行千石の旗本として天野家は存続することとなりました。