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十九首塚
静岡県 掛川市 大池 十九首塚史跡公園
本日、3月25日は、平将門の討死した日になります。
静岡県掛川市、掛川城を望む川沿いにかつて関東一円を荒らし回った平将門と主従の首塚があります。
将門は、鎮守府将軍 平 良将の子で、左大臣 藤原忠平に仕える身でしたが、918年 延喜18年、上洛しても思う様に出世が叶わず、失意のうちに関東に戻ります。
帰国した将門は、伯父の平 国香らが父、良将の領地を勝手に簒奪していたことに怒り、戦いを挑んで敗死させ、違領を奪い返しました。
同族の所領争いを発端に戦いを拡大させ、ついには関東一円を支配下におき、自らを新皇を名乗り出したために、朝廷から討伐される身となり、940年 3月25日(天慶3年2月14日) に、 過去、将門に討たれた平 国香の子、平 貞盛、縁者の藤原秀郷に将門は討たれました。
平将門を討ち取った藤原秀郷は、京都に凱旋する際、将門以下の一族郎党の首級を持って一路 西上して京に向かっていました。
そして遠州のこの地に到着した時に、京都から首実検のために派遣された勅使が到着します。
秀郷は勅使を出迎え、川に近い ここで持参した将門主従19名の首実検を行いました。
ところが首実検が済むと、勅使は将門と郎党の首を打ち棄てるように命じました。
将門主従は、朝廷に対して激しい恨みを持つ者の首なので、京に持ち込むことはならぬという理由でした。
それに対して秀郷は【 将門主従は討伐された逆臣とはいえ、将門は桓武帝に連なる高貴な身、死者に鞭打つことは出来ない 】と言って、この地に手厚く葬りました。
これが十九首塚であり、また首級と共に持ってこられた剣、白と黒の犬の描かれた2本の掛け軸、念持仏も近くの東光寺に納めたといわれ、そしてこの首実検の際に首を川に並べ掛けたところから、この地を【掛川】と呼ぶようになった説があります。
将門主従19の首は、それぞれ塚に葬られたものの、時代の推移とともに郎党の塚は忘れ去ら
れ、現在は将門のものとされる首塚だけが残され、そして近年になって残りの者の名を刻んだ石碑を周囲に配して整備され、建立されました。
十九首塚被葬者
相馬小太郎将門【平 将門】
御厨三郎将頼
大葦原四郎将平
大葦原五郎将為
大葦原六郎将武
(平 将門一族)
鷲沼庄司光則
武藤五郎貞世
鷲沼太郎光武
堀江入道周金
御厨別当多治経明
御厨別当文屋好兼
隅田忠次直文
東三郎氏敦
隅田九郎将貞
藤原玄茂
藤原玄明
大須賀平内時茂
長橋七郎保時
坂上逐高
(将門郎党)
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十九首塚から望む掛川城
なぜ、将門と主従の首塚に井伊の悲劇が関わりがあるのか。
井伊直政(幼名ー虎松)の誕生から幼少期は、後の主君、徳川家康にも匹敵する苦難の連続でした。
直政は1561年永禄4年2月9日、遠江国井伊谷郷、祝田村で生まれました。
父は井伊直親、直親の父は井伊家21代当主、直宗の弟、直満。
直満の弟に、井伊家の危機を幾度も回避させた龍潭寺の南渓和尚がいます。
直政誕生時の井伊家の当主は22代当主、直盛。
直盛は大河ドラマ〜おんな城主直虎〜主人公の井伊直虎の父にあたります。
そして
直政の父、直親にとって直盛は叔父にあたります。
直政の誕生直後は、桶狭間の戦いで今川義元が討死し、出陣していた井伊家当主の井伊直盛も桶狭間で還らぬ人となり、遠江国井伊谷は国中が混乱状態になりました。
直盛の死により井伊家は、直親が第23代当主となります。
直親は、実父、直満(井伊家21代当主、直宗の弟)が家老、小野和泉守道好による今川義元へ離反するとの讒言により謀殺された過去がありました。
絶大な力を持っていた今川義元の死により、直親は岡崎で独立の動きを始めた徳川家康に接近します。
この動きは小野和泉守道好の子、小野但馬守政次が今川氏真に謀反の動きがあるという讒言により露見し、直親が氏真のいる駿府へ釈明に赴く途中、掛川城下で氏真の重臣である朝比奈泰朝の軍勢に襲われ、還らぬ人となりました。
直親が襲われたのが、かつて将門の首塚があったとされる十九首塚です。
4に続きます。