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日本歴史紀行

徳川家臣紀行 13 - 2 井伊直政 井伊の系譜



井伊氏発祥の井戸



彦根藩主 井伊直政は徳川四天王最若の士ですが、大将自ら前線に躍り出る猛将として戦場を駆け、小牧長久手の戦いでは、鬼気迫る恐ろしげな戦いぶりに以来、井伊の赤鬼と恐れられ、家康からも三河譜代に劣らぬ信頼を獲ました。
井伊氏は幕府からも信頼を受け、幕末の大老、井伊直弼も輩出しました。


その直政の先祖をたどると、井伊氏の分家ということですが、意外な人物を輩出したことがあります。


初代 井伊共保の出生については、前回書きました。

共保から七代後の井伊氏八代の盛直の代、盛直は、良直、俊直、政直と三人の男児に恵まれ、長男 良直に井戸氏家督を継がせ、次男 俊直は赤佐氏を名乗り分家とし、三男 政直は、遠江国山名郡貫名郷(現在の静岡県袋井市)へ移り、貫名氏を名乗り貫名政直となりました。

その貫名政直の曾孫、貫名重忠が誕生します。
時代はすでに鎌倉時代となっています。






妙日寺 本堂

貫名重忠夫妻供養塔
寄進したのは、柳生但馬守宗矩













平家を討伐した源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開きます。

ただ、頼朝の治世も長続きせず、1199年 建久10年、12月27日に稲毛重盛の橋供養に参列した帰り路に落馬し、翌年1月13日、53歳にて死去しました。

将軍職は長男 頼家が継ぐことになりますが、実権は北条政子と頼家により、分轄されていました。

頼朝亡き後は、北条氏が力をつけ、頼家から実朝への将軍職委譲にも政子の関与があり、次第に幕府における舅の時政、子の義時ら北条氏が流人時代の頼朝を支えていた比企氏を謀略の罠に張って排除し、地位を確固たるものになります。

こうした北条氏の幕府私物化に嫌気が差した重忠。

彼自身、山名郷国衙(こくが)を治める国司の次官の地位にあり、大人しく地方御家人として生きる道はあったものの、それを良しとせず、比企の乱から間もない1204年 元久元年、伊勢平氏が蜂起して京都守護の平賀朝雅と戦った三日平氏の乱の企てに関わったとして地位を剥奪され、小さな漁村〜安房小湊(現在の千葉県鴨川市)に配流処分となります。

この配流先で重忠と妻、梅菊の間に男児が誕生します。

この男児こそ、日蓮宗宗祖、日蓮聖人です。


身延山 久遠寺 三門


日蓮については、聖人もまた激動の生涯だったので、別の機会を設けて書きたいと思いますが、日蓮は布教活動を主に幕府のある鎌倉で行ないました。

3に続きます。













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