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日本歴史紀行

歴史紀行 地域版 86 - 3 坐漁荘 元老 西園寺公望 邸宅跡 3


坐漁荘 元老 西園寺公望 邸宅跡
静岡県静岡市清水区 興津 清見寺町



徳大寺の次男として生まれた公望(幼名〜美丸〜よしまる)。


後継ぎのなかった右権中将、西園寺師季の養嗣子に2歳の時に出されます。


公家でも御所、清涼殿に昇殿できる堂上(どうしょう〜朝廷内において極めて高い家格と影響力を持つ)の資格を有する清華家の西園寺家は、後継ぎが絶える恐れがあっても、養嗣子を迎えるにあたり、堂上の他家からしか迎えることが出来ない古来からの朝廷の決まりから、徳大寺家の次男として生まれた美丸(後の公望)に白羽の矢を立てられたのです。


美丸が西園寺家の養嗣子となって2年後、養父の西園寺師季が急死し、4歳にて西園寺家の当主となりました。

西園寺家の新当主に4歳の美丸が定められたこの年は1853年、嘉永6年…。

マシュー・カルブレイス・ペリーが旗艦サスケハナ号に座乗、世の黒船来航で、日本中が大騒ぎになった年でした。



西園寺家が清華家の高い家格にあろうと、4歳の美丸に朝廷に出仕出来る訳はなく、そこは美丸の実父、徳大寺公純が西園寺家を支える役割りを果たしました。


そして美丸が12歳で元服、名を西園寺公望と改めた時に亡くなった養父、西園寺師季と同じ官位〜右近権大中将の位に就きました。


公望18歳の時、世は風雲急を告げる時代、1867年、慶応3年、江戸幕府がいよいよ行き詰まり、政権を朝廷に返上しようという時代の流れとなる時、公望は朝廷の参与職に就きます。

まだ朝廷の意思決定を計る役割りには無いものの、朝廷内では幕府が大政奉還を奏上された中で幹部を支える重要な役割りでした。

やがて朝廷は薩摩、長州、外様諸藩と共に天皇親政の世を実現しようと王政復古の大号令を発し、幕府にとどめを刺そうと画策し、薩摩藩が江戸で殺人、強盗と江戸市中で犯罪を繰り返して幕府を挑発、挑発に乗った江戸市中を警護していた庄内藩が薩摩藩邸を焼き討ちしたことで武力衝突となり、鳥羽・伏見の戦いが勃発、この戦いが引き金となり、翌年の箱館戦争まで続く戊辰戦争へと発展します。


3に続きます。







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