明治天皇玉座跡碑
静岡県浜松市東区中野町
〜天竜の川狂い〜
明善は役人達からそう揶揄されながらも私財を投じてまで永年、天竜川の治水に尽力する噂は、明治政府高官らの知る所となり、1874年〜明治10年12月、明善は内務卿〜大久保利通との会談となりました。
この年の暮れは西南戦争終結間もない時期で、政府も莫大な戦費を費やした後であったものの、内務卿〜大久保利通は会談で明善の誠実な人柄を見抜き、補助金を出すことを快諾しました。
翌年には、明治天皇の東海地方の巡幸が始まります。
そして明治天皇が浜松を巡幸され、明善の起こした治河協力社を訪れるということが決まります。明善は社内に玉座を拵え、明治天皇は明善夫妻に賜謁しました。
その後、明善は川の治水から治山へと目を向け、荒廃した山林の復活、植林に力を入れます。
御料林の貸与を受けて約290万本の植林、さらに民有林を買い上げての植林は390万本を超え、これらの林は金原林と呼ばれました。
また、植林と木々の成長は長い年月を必要とするため、金原治山治水財団を設立し、成長した金原林は全て寄附しました。
現在、日中は交通量の多い中野町六所神社北側の天竜川堤防沿いに「玉座迹」と記された碑と「明治大帝御聖蹟」の石柱が建っています。
1879年、明治11年11月1日、明治天皇が北陸東海地方の巡幸の中で、明善が天竜川堤防修築のため設立した「治河協力社」の建物内で御休憩されました。
その際、天竜川の治水に尽力した功を賞して金原明善夫妻に拝謁を賜り、紅白縮緬(ちりめん)を下賜されました。
天竜翁〜金原明善の主な軌跡
天竜川の治水事業
治山植林事業
植林、間伐に関わる製材、運輸会社の設立
北海道開拓
現在の更生保護の原点ともいえる
出獄人保護事業など。