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日本歴史紀行

歴史紀行 地域版 52  天竜翁〜金原明善 1  金原明善 生家


天竜翁〜金原明善 生家
静岡県浜松市東区安間町金原明善記念館

 
今年、静岡県は台風にさらされた年でした。

ぼくの住んでる街を流れる川に架かる橋が被害を受け、現在改良工事中です。

特に静岡市清水区は、浸水と断水の被害が顕著で、多くの住民が対応に追われました。


昔も現代も、人は自然災害には弱いです。


静岡県には、生まれは共に江戸時代後期。
育った環境は全く違うものの、時代が明治の幕開けを迎えると、利を求めることは二の次で、公共のために生涯を費やした2人の偉人がおりました。


1人は世に知られた東海一の大親分と恐れられた侠客〜清水の次郎長こと、山本長五郎。

次郎長は、多くの子分を持ち、賭博、喧嘩に明け暮れた人生を送っていましたが、戊辰戦争の戦火が住まいの清水の町に飛び火した際、惨殺された幕府海軍兵の遺体が川に打ち捨てられながらも、政府軍を恐れて誰も回収しない中、子分と共に回収して埋葬した義侠心に、静岡県権大参事(現在の県副知事にあたる職)にあった旧幕臣の山岡鉄舟が感激し、交流が始まりました。

その鉄舟も、江戸無血開城を巡り西郷隆盛と会談した勝海舟の会談の露払いを単身で乗り込み、西郷にして、〜山岡は名前も金も名誉も要らない、困った男だ、そんな男でなければ、天下の大功は任せられない〜と言わしめた傑物でした。

重職にありながら鉄舟の私心の無い人柄に感化された次郎長は、それまでの生き方を変え、公共のために働く事業家として生まれ変わりました。


そして もう一人、


〜天竜の川狂い〜金原明善


これは、暴れ川と怖れられる天竜川の治水工事の必要性をしつこく訴えにやって来る金原明善に、明治政府の役人がつけた仇名でした。


金原明善は、1832年天保3年に遠江国安間村(現在の静岡県浜松市東区安間町)で、造り酒屋や大土地でもある名主、七代目久右衛門の長男として生まれました。

明善は幼名〜弥一郎と呼ばれ、比較的裕福な家に生まれたことから、何不自由なく暮らしてましたが、14歳のときに大病を患い、入れ替わる様に快復間もなく母を亡くし、なお、安間村は洪水被害に見舞われたことから大きな衝撃を受けます。


2に続きます。

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