金原明善 胸像
静岡県浜松市東区安間町金原明善記念館
明治維新は、それまでの武家が政権を担うという封権制度の社会システムが天皇親政の中央集権体制へと、一変した政変となりました。
ただ、明治元年、日本という国が大きく変わろうとする時であっても、災害は時を選びません。
この年、暴れ川と呼ばれる天竜川が堤防を決壊
させ、浜松市街地に大きな被害をもたらしました。
明善は、新しい時代の到来だというのなら、お上に意見を述べることも可能ではないか、と考え、上洛して発足間もない明治新政府民政局へ出向いて天竜川治水策をまとめ上げた建白書を提出しました。
新政府といっても、この時は戊辰戦争の最中だったこともあり、一平民が建白書を提出したところで、まともに取り合ってもらえず、
〜天竜の川狂い〜と揶揄される始末でした。
安間村に戻った明善は近隣の住民らと復旧工事を進め、秋には堤防の修復を終えました。
同じ頃、明治天皇の全国巡幸が話し合われ、東海道をはじめとした街道筋の整備の必要性が問われ、安間村も東海道に隣接した村であることから、浜松藩にも整備の通達が来たものの、安間村の天竜川周辺は明善が献身的に復旧工事を進めたことが認められ、天竜川御普請専務の肩書を得られ、多くの事業を立案しました。
金原明善 3に続きます。