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日本歴史紀行

歴史紀行 動物編 5 犬の虎退治 〜新著聞集〜  大坂城の虎


「可愛い」というコトしか、わからない 豊臣期の遺跡から出土した「犬の像」の謎(Jタウンネット) https://article.yahoo.co.jp/detail/b362173ca76740ba9967b02a9d80b384963d0c74
今朝、ネットニュースに、豊臣期の犬の土器が出土したという話題が載っていました。

豊臣の世で ぼくが犬について思い浮かぶのは、犬にとって大変不幸な世であったと考えるからです。

秀吉の生への執念と気まぐれにより、多くの犬が犠牲になった民話です、一時期、大坂城では虎が飼われていました。


それを象徴するかのように、大阪城の天守には、虎のレリーフが飾られています。




その虎と犬にまつわる2つの話です。

 


犬の虎退治〜新著聞集より



いまからおよそ四百年ほど前、豊臣秀吉は朝鮮に軍隊を出して、無謀な侵略戦争を起しました。世にいう文禄・慶長の役です。

これはそれにまつわる話です。

朝鮮に出兵した武将の中で、加藤清正という勇将がいました。

この人は虎退治で有名な人ですが、このとき生捕りにした虎を太閤秀吉に献上するために大坂城へ運びました。

大坂城では大きな檻をつくってこの虎を入れましたが、なにしろ大きな虎ですから、毎日毎日の食糧を用意するのにたいへんでした。

そこで、近くの国の村々から犬を集めて虎の餌にすることになりました。

こうしてたくさんの犬が、毎日、虎の餌として大坂城に送られてきました。


ある日、いつものように送られてきた犬のなかに、白黒のぶち犬がいました。

顔が長くて、眼が大きく、脚も太く、見るからにたくましい犬でした。この犬を虎の檻に入れますと、虎はこの犬の凄まじい形相に押されて、一瞬たじろぎました。

いつもなら、犬を入れると踊りあがって喜ぶ虎が、喜ぶどころか犬と睨み合う格好になったのです。

この珍しい状景を人々はどうなることかと見守っているうちに、虎が犬めがけて跳びかかりました。

犬は体をかわしておいて、ねらいをすまして虎の咽笛にかみつきました。

虎、いや、どんな猛獣であろうと喉笛は急所です。

虎は犬を振り切ろうとして体をゆすり左足の爪で犬をかきむしりました。

大抵の犬ならば、ここで終わりです。
だが、犬は咽笛にくいついたままはなれませんでした。

しばらくして、犬も虎もその場にどうと倒れ、ともに死んでしまいました。

人びとはこのすさまじい光景にしばらくの間、声も出ないほどでした。

この話は人から人へ伝えられ、とうとう朝廷の耳にもはいりました。

朝廷では、
〜そんな勇しい犬はどこの犬だ。
ぜひその犬の飼い主を探し出せ。〜
と仰せられ、さっそく、調べられました。

この犬の飼い主は、摂津の国、丹生山田(にうやまだ〜現在の神戸市北区)に住む夫婦連れの猟師でした。

この犬は利口もので、夫婦のいうことがよく聞きわけられ、二人の生活になくてはならない、家族同様のたいせつな犬でした。

ところがある日、村の庄屋〈しょうや〉がたずねてきます。

〜この村から大坂城の虎の餌にするため一匹の犬を出さねばならない。お前のところの犬は、良い犬だから差し出すように。もし差し出さないならば、お前ら夫婦を引っ立てて牢に閉じこめることになるだろう。〜

といいました。
猟師夫婦は泣いて庄屋に頼みました。

〜どうかこの犬を出すことだけはおゆるしください。この犬をとられると私たちは生きていくことができません。こんな利口な犬を虎の餌にさせることはできません。どうかおゆるしください。〜

庄屋はきびしい口調でいいました。
〜ならぬ。この犬のように大きくて肉のよくついた犬が欲しいのだ。この犬のほかに差し出すような犬はいない。もし、どうしてもいやなら、お前らを虎の餌にしてやる。〜

猟師夫婦は、どうしても聞き入れてもらえそうもないことがわかると、仕方なく犬に申しました。

〜お前はいったいどのような生れ合わせであろう。わしら夫婦は、きょうまでお前といっしょに働いてきた。お前は私たちのために、よくつくしてくれた。けれども、庄屋さんがお前を虎の餌に大坂城へ差し出せといってきた。
私たちは泣いて頼んだがどうしてもきき入れてはくれぬ。

これ以上、私たちが反対すると、私たち夫婦はもとより村人にも難儀がかかるかも知れない。

お前をむざむざと虎の餌にさせるかと思えば口惜しいけれど、いまの私たちにはどうすることもできない。

堪忍しておくれ。こうなれば、どうかむざむざと虎に食われることなく、虎の咽笛にくいついて、虎をくい殺しておくれ。〜

犬はこの話を首をうなだれて聞いていました。そして、しおしおと庄屋につれられて村を出て行きました。大坂城についてからは、猟師夫婦のいいつけどおり、勇ましくたたかって最後を遂げのでした。

この話の一部始終が朝廷にまできこえました。朝廷では、いかにも哀れな話であるとして、無理に引き立てた庄屋を罰し、その全財産を没収しました。

そして、この財産を猟師夫婦にあたえ、犬のあとをねんごろに弔うようにと仰せになったということです。

(『新著聞集』)

朝廷というのは、豊臣方の奉行のことと思われますが、新著聞集にはこう書かれています。



もう1つ伝わります。
これは大坂城の虎という話で、大阪で金物屋に飼われていた犬の虎退治で、大阪で演劇にもなりました。


大坂城の虎


豊臣秀吉が朝鮮に出兵した事は有名な話ですが、これがたいした負け戦で、このまま日本に帰ったら格好悪いと思った加藤清正は、太閤様へ、せめてもの手土産にと、虎を生け捕りにして日本につれて帰ってきました。

太閤様は、虎の脳を食べれば不老長寿を得られると信じていると聞いたからでもありました。


ちなみに余談ですが、この時清正は梅毒も土産として日本に持って帰ってきました。

そして大阪城の門のところに大きな檻を作って飼うことになりましたが、これがまた大変な大飯食らいで、困った秀吉は(毎日、1匹ずつ犬を町の者たちからさしださして虎の餌にする)というお触れを出しました。

命令を受けた役人たちは、大阪中の犬を次々と引っ立てていきました。

犬を飼ってる人達にとっては大変なことですが、太閤秀吉様の命令にさからうわけには行きませんので、皆、仕方なく差し出しました。

見ただけでふるえあがり身動きできない犬たちを、虎はペロリと1口で食べてしまうのでした。

そんなある日、天満(現在の大阪市北区)で金物屋を営んでいた徳八という男の元にも、役人がやってきて飼い犬の(りき)を差し出すよう命令しました。

りき をたいへんかわいがっていた徳八は、〜かんべんしてやってくれ〜と頼みましたが、逆に〜犬を差し出さないならお前が虎の餌になれ〜と役人に言われ、泣く泣く最後にたっぷりと餌を食べさせて、やさしく毛並みを撫でてやって、大坂城へ連れていきました。

役人は荷物を受け取るように(りき)を受け取ると、ポ~ン!っと虎の檻に投げ込みました。
とたん、(りき)は身構えます。

りきは他の犬みたいに震えあがりませんでした。

虎のほうもいつもと様子が違うのに気づいてすぐには手をず、じっと様子を見ます。

そして(りき)は、虎の首根っこめがけて跳びかかり、みごと虎の首にがぶりと噛み付きました。

虎は「ウォーッ!」と叫び声をあげて暴れ、りきの体を前足の爪で引っかきますが、(りき)は「絶対放すものか」と噛み付いたままです。

しかし、虎の爪はたいへん鋭く、とうとう(りき)はぱったりと倒れて息耐えてしまいました。でも虎の首からもどくどくと血が流れて、虎のほうもぐったりとなり、その場で死んでしまいました。

驚いた役人は、「犬の罪は、飼い主の罪や」と、徳八をしばりあげてつれていってしまいました。

しかし、犬を飼っていた大阪の人々は大喜びして、天満の町の片隅に名犬りきの墓をたててやったということです。

その後の大阪では、太閤さんは、虎の脳味噌を食べて死んだんや…と、まことしやかに語り継がれてます。





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