琴似屯田兵屋
琴似屯田兵屋
札幌市西区琴似1条7丁目琴似神社境内
琴似屯田兵屋跡
札幌市西区琴似2条5丁目
琴似屯田兵~
屯田兵は、普段は開墾、耕作などの農作業に従事しつながら、いざ、有事の際に出兵して戦う役割を担った人々のことで、1874年 明治7年、明治政府太政官により決められ、最初の入植地として札幌 琴似村(現在の札幌市西区琴似、二十四軒周辺)に定められ、住まいとなる兵屋、番所、練兵場、授産場などが整備され、翌年の1875年 明治8年5月17日に第一陣 屯田兵198名とその家族を合わせて965名が琴似の地に入りました。
入植した人々は、青森(斗南)、宮城(亘理)、酒田といった戊辰戦争で敗残士族とその家族に占められ、生まれ育った地を逐われた彼らは必死な思いで開墾に精を出します。
明治初期の札幌は、現在の繁栄とはかけ離れた密林の原生林が覆い繁り、その森の中をヒグマが跋扈(ばっこ)する大変危険な地域でした。
ただ一棟現存する屯田兵屋は琴似神社境内に残され、琴似2条5丁目に復元された兵屋133号は、旧亘理藩士 清野専次郎に与えられたものでした。
兵屋(住宅)は、平屋建ての間取り8畳、四畳半に加え、ほぼ同間取りの居間兼台所に土間といった広さで、およそ17坪でした。
第一陣の琴似屯田兵は、琴似兵村第一中隊として組織され、その後 山鼻地区に入植した第二中隊として続き、次第に北海道内陸部へと入植者を増やしていきました。
1877年 明治10年、鹿児島の不平士族が新政府の職を辞して下野した西郷隆盛を担ぐ形で勃発した西南戦争に屯田兵が初めて出兵して戦勝に貢献しました。
屯田兵制度は最初の入植から30年を経た明治37年まで続き、北海道開拓初期の礎を築きました。