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日本歴史紀行

思い出フォト 107 2016年 4月 遠州巡り


2016年…
この年はよくサイクリングをしました。
4月に御前崎市から袋井市まで走りました。


御前崎市 新野地区


新野左馬助親矩は、戦国時代 駿河今川氏の一族に連なる武将でした。 
妹が井伊直盛(井伊直虎の父)に嫁いだ縁から、井伊氏とも深い関わりを持ち、後の徳川四天王〜井伊直政が幼子の頃、今川氏に命を狙われた際は身を賭して匿いました。








新野左馬助親矩を祀る左馬武神社


新野左馬助の墓



桶狭間の戦いで今川氏の当主、義元が討たれると家中は大揺れとなります。1562年 永禄5年、新当主の氏真は疑心暗鬼の末、井伊氏に謀反の疑いを膨らませた末に当主、井伊直親を掛川城下で惨殺。その子、虎松(後の井伊直政)の身を案じた新野左馬助は三河、鳳来寺に匿いました。井伊家、当主不在の間、あらゆる知恵を尽くして危機を乗り切るのが新野左馬助の姪にあたる女城主〜井伊直虎です。
井伊氏の危機を脱した2年後、新野左馬助は曳馬城攻めに参じて討死しました。

幕末の大老 井伊直弼は、初代彦根藩主の直政の危機を救った恩人、新野左馬助親矩の墓参を計画しましたが、桜田門外の変で暗殺されました。



掛川市大須賀地区











横須賀町番所



遠州横須賀城跡









横須賀城は、三河から遠州に進出した徳川家康が要衝、高天神城攻略のために築かせた城で、築城から3年後の1581年 天正9年に高天神城を落城せしめました。



袋井市広岡










彦根藩主 井伊直政は徳川四天王最若の将ですが、大将自ら前線に躍り出る猛将として戦場を駆け、小牧長久手の戦いでは、鬼気迫る恐ろしげな戦いぶりに以来、井伊の赤鬼と恐れられ、家康からも三河譜代に劣らぬ信頼を獲ました。
井伊氏は幕府からも信頼を受け、幕末の大老、井伊直弼も輩出しました。


その直政の先祖をたどると、井伊氏の分家ということですが、意外な人物を輩出したことがあります。


井伊氏の初代 共保から七代後の井伊氏八代の盛直の代、盛直は、良直、俊直、政直と三人の男児に恵まれ、長男 良直に井戸氏家督を継がせ、次男 俊直は赤佐氏を名乗り分家とし、三男 政直は、遠江国山名郡貫名郷(現在の静岡県袋井市)へ移り、貫名氏を名乗り貫名政直となりました。

その貫名政直の曾孫、貫名重忠が誕生します。
時代はすでに鎌倉時代となっています。





妙日寺 本堂









貫名重忠夫妻供養塔
寄進したのは、柳生但馬守宗矩





貫名重忠の墓


平家を討伐した源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開きます。

ただ、頼朝の治世も長続きせず、1199年 建久10年、12月27日に稲毛重盛の橋供養に参列した帰り路に落馬し、翌年1月13日、53歳にて死去しました。

将軍職は長男 頼家が継ぐことになりますが、実権は北条政子と頼家により、分轄されていました。

頼朝亡き後は、北条氏が力をつけ、頼家から実朝への将軍職委譲にも政子の関与があり、次第に幕府における舅の時政、子の義時ら北条氏が流人時代の頼朝を支えていた比企氏を謀略の罠に張って排除し、地位を確固たるものになります。

こうした北条氏の幕府私物化に嫌気が差した重忠。

彼自身、山名郷国衙(こくが)を治める国司の次官の地位にあり、大人しく地方御家人として生きる道はあったものの、それを良しとせず、比企の乱から間もない1204年 元久元年、伊勢平氏が蜂起して京都守護の平賀朝雅と戦った三日平氏の乱の企てに関わったとして地位を剥奪され、小さな漁村〜安房小湊(現在の千葉県鴨川市)に配流処分となります。


やがて、この配流先で重忠と妻、梅菊の間に男児が誕生します。

この男児こそ、後の日蓮宗宗祖、日蓮聖人です。

不思議な因果というべきか、成長し、鎌倉幕府のお膝元である鶴岡八幡宮のごく近くで日蓮が辻説法に立つのは、約半世紀後のことです。





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