東京スーパーミニヨン時折ブルー

未来のスーパーエッセイスト・マツドアケミによるカワイイモノのコト、好きなヒトたちのコトと時折プチブルーな日々

アテネの遠い日とベリーダンス

2007-10-18 10:26:25 | あの頃のヨーロッパ旅行
ティーンエイジャーの終わりの頃
ギリシャのアテネに暮らしていた
ことがあります。

ギリシャ人のお家にステイして
言い訳程度にギリシャ語の学校へも
通ったりして。

まだ海外の国々に日本人も少なかった頃
で、とくにアテネは中東に駐在している
日本人が立ち寄ったり、長期バックパッカーが
立ち寄ったりするくらいしか見かけない
街だったように思います。

私自身、初めての異国。
しかも日本よりも何もかもが10年くらい
遅れているような(つまりはマクドナルドも
一部しかエアコンもないような)
そんな国だったんです。

私が暮らしていたエリアの一番の
観光スポットは国立考古学博物館。
とはいっても街の中心のシンタグマ
広場や、庶民の市場のあるオモニアからも
離れていました。

sonyやトヨタ、日産などの、今ではどこの国にいっても
見かけるような日本の企業の広告の看板ももちろん
みかけることもなく、フィリップスの家電の広告や
ギリシャ語の文字の看板を目にしながら、
ギリシャ漬けの毎日でした。

一人で街歩きができるようになったある日
シンタグマ広場を歩いていると、日本人らしき
おばあちゃんに突然に声をかけられました。

「長くいる日本人の女の子はめずらしいんで声を
かけさせてもらったんだけど、うちの
店で働きませんか?」

実はこのおばあちゃんはプラカにある
日本料理屋Michikoのオーナーで、
おしょうゆや炊いたごはんが恋しくて
客として何度か通っていた私の顔を
覚えていたそうです。

和食が毎日食べられる!
しかも海外でアルバイトができるなんて
そういう経験もおもしろいかも!と
即答でアルバイトをはじめることにしました。

一軒家を改装した店には庭付きの
和風ガーデンに客席があり、
家の中にもいくつかの客席とすしルームが
ありました。

ギリシャ人は食べなれないものはあまり食べない
らしく、英語が通じるツーリストや数人のリッチな
ギリシャ人の常連さんと駐在員の日本人。

メニューにはすきやき、すし、天ぷら、
カツ丼などが並んでいました。

ここで働いていた日本人は、きょうこさんと
日本からきていたとしみさん、すしルームのいた
男の人(名前は忘れました)と板さん、厨房
にはMichikoさんの娘さんがふたり。

あとのスタッフは、
のちのちに使い込みがばれてクビになった
ギリシャ人のマネージャーと、ギリシャと
海をはさんで反対側の国・エジプトや近隣のアラブの
国々から出稼ぎにきている男の人たちでした。

ホールの中心は3人の日本人女性とその男性たち。

ギリシャ人とのコミュニケーションだって
ままならなかった私にとって、言葉も
文化もそしてエスニックも全く違う
アラブ人は完全理解不能な人たちでした。

お互い(多分)普通にしているだけなんだと
思うけれど、若かった私はとにかくケンカばかり
していました。

昨夜、1週間ぶりに出かけたスポーツクラブで
あるクラスの前を通りかかると
アテネの日本料理屋で休憩時間にだけ流れていた
懐かしい音楽が聞こえてきました。

エキゾチックなリズムに、ミステリアスでセクシーな
ベリーダンスを踊る先生の姿がありました。

先生のまねをして音楽に合わせて手をあげ腰をゆらしていると、
ギリシャ人とエジプト人のハーフのジョージ、背が高くてハンサムで
愛嬌があって”わたしはぁ~あなたのぉ~”と日本語で
変な演歌を歌うエジプト人のミハリ、イタリア語を
教えてくれたリビア人のジョッシュ、、、
あの遠い日、アテネで過ごした仲間たちの笑った顔が
ひとりづつ思い出されてきます。

なのに、なぜあんなに毎日けんかをしていたのかは
思い出せないのが不思議です。