東京スーパーミニヨン時折ブルー

未来のスーパーエッセイスト・マツドアケミによるカワイイモノのコト、好きなヒトたちのコトと時折プチブルーな日々

チェコの小さな街で買ったおみやげ

2007-11-13 23:41:01 | あの頃のヨーロッパ旅行
ここ5年以内に一番多く訪れた国が
フランスだとしたら2番目はチェコ。

初めて訪れた時のチェコ・プラハでの
印象がとってもよかったので、その後2度
3度と旅をしました。

2回目はチェコからスロヴァキアへ向かう
旅。小さな町に1泊して、その後
プラハの次に大きな町ブルノにも滞在し
スロヴァキアを目指しました。

3回目はまた違う町にと、世界遺産に
登録されているチェスキー・クロムノフ、
そしてピルゼンビールのふるさと・ピルゼンの
町に足を運びました。

本当はこの時、プラハから国際列車でポーランドに
入ろうと思っていたのですが、準備不足でその電車に
乗ることができず、急きょ思い立って出かけたのが
チェスキー・クロムノフでした。

チェコでもビールばっかり飲んでいる私にとって
ピルゼン(プルゼニュっていったかなぁ)は訪れる可能性は
あったものの、チェスキー・クロムノフまでは
行き方もめんどうでまさかその時にいくことになるとは
思ってもいませんでした。

電車とバスを乗り継いで到着した
小さな街・チェスキークロムノフ。
街にある古いお城のてっぺんにのぼると、
これがまるで地図に描いたかのように
はっきりくっきり街の様子がみえるのです。

チェコを旅した人たちが口々に話すように
やっぱりおとぎ話のような国です。

さて、宿泊したバス停の近くのホテルから数分のところで
出会ったおみやげもののお店で、イエス・キリストが
誕生した時のお話が木のお人形になって展開されている
ものがありました。
20体以上のお人形が一つのストーリーを作り上げている
超大作です。

ヨーロッパの町では、クリスマス時期によく
見かけるこのシーン。
この超大作の中ひとつのお人形がとっても気に入って
バラでも売ってもらえないだろうか?と
お店の人に相談をしてみました。
(本来はセット販売のため、いろいろな登場人物が
ありましたが、、、)

このお人形のポジションが(こういってもいいのかなぁ)
特に、このお話では重要視されていないようで、
ひとつだけでもいいよといわれ、この人形だけ
買ってかえってきました。

なぜこの人形に惹かれたのかはわかりませんが
チェスキー・クロムノフの街をうろちょろ行き来していく
中で、なぜかいつも目について、このとき一番欲しかったのが
この女の子のお人形でした。

きっと何かの縁があるのかもしれませんよね。

クリスマス時期といって思い出した話でしたが
この女の子のお人形は年がら年中リビングルームに
飾ってあります。

アテネの遠い日とベリーダンス

2007-10-18 10:26:25 | あの頃のヨーロッパ旅行
ティーンエイジャーの終わりの頃
ギリシャのアテネに暮らしていた
ことがあります。

ギリシャ人のお家にステイして
言い訳程度にギリシャ語の学校へも
通ったりして。

まだ海外の国々に日本人も少なかった頃
で、とくにアテネは中東に駐在している
日本人が立ち寄ったり、長期バックパッカーが
立ち寄ったりするくらいしか見かけない
街だったように思います。

私自身、初めての異国。
しかも日本よりも何もかもが10年くらい
遅れているような(つまりはマクドナルドも
一部しかエアコンもないような)
そんな国だったんです。

私が暮らしていたエリアの一番の
観光スポットは国立考古学博物館。
とはいっても街の中心のシンタグマ
広場や、庶民の市場のあるオモニアからも
離れていました。

sonyやトヨタ、日産などの、今ではどこの国にいっても
見かけるような日本の企業の広告の看板ももちろん
みかけることもなく、フィリップスの家電の広告や
ギリシャ語の文字の看板を目にしながら、
ギリシャ漬けの毎日でした。

一人で街歩きができるようになったある日
シンタグマ広場を歩いていると、日本人らしき
おばあちゃんに突然に声をかけられました。

「長くいる日本人の女の子はめずらしいんで声を
かけさせてもらったんだけど、うちの
店で働きませんか?」

実はこのおばあちゃんはプラカにある
日本料理屋Michikoのオーナーで、
おしょうゆや炊いたごはんが恋しくて
客として何度か通っていた私の顔を
覚えていたそうです。

和食が毎日食べられる!
しかも海外でアルバイトができるなんて
そういう経験もおもしろいかも!と
即答でアルバイトをはじめることにしました。

一軒家を改装した店には庭付きの
和風ガーデンに客席があり、
家の中にもいくつかの客席とすしルームが
ありました。

ギリシャ人は食べなれないものはあまり食べない
らしく、英語が通じるツーリストや数人のリッチな
ギリシャ人の常連さんと駐在員の日本人。

メニューにはすきやき、すし、天ぷら、
カツ丼などが並んでいました。

ここで働いていた日本人は、きょうこさんと
日本からきていたとしみさん、すしルームのいた
男の人(名前は忘れました)と板さん、厨房
にはMichikoさんの娘さんがふたり。

あとのスタッフは、
のちのちに使い込みがばれてクビになった
ギリシャ人のマネージャーと、ギリシャと
海をはさんで反対側の国・エジプトや近隣のアラブの
国々から出稼ぎにきている男の人たちでした。

ホールの中心は3人の日本人女性とその男性たち。

ギリシャ人とのコミュニケーションだって
ままならなかった私にとって、言葉も
文化もそしてエスニックも全く違う
アラブ人は完全理解不能な人たちでした。

お互い(多分)普通にしているだけなんだと
思うけれど、若かった私はとにかくケンカばかり
していました。

昨夜、1週間ぶりに出かけたスポーツクラブで
あるクラスの前を通りかかると
アテネの日本料理屋で休憩時間にだけ流れていた
懐かしい音楽が聞こえてきました。

エキゾチックなリズムに、ミステリアスでセクシーな
ベリーダンスを踊る先生の姿がありました。

先生のまねをして音楽に合わせて手をあげ腰をゆらしていると、
ギリシャ人とエジプト人のハーフのジョージ、背が高くてハンサムで
愛嬌があって”わたしはぁ~あなたのぉ~”と日本語で
変な演歌を歌うエジプト人のミハリ、イタリア語を
教えてくれたリビア人のジョッシュ、、、
あの遠い日、アテネで過ごした仲間たちの笑った顔が
ひとりづつ思い出されてきます。

なのに、なぜあんなに毎日けんかをしていたのかは
思い出せないのが不思議です。

ギリシャのママ

2007-05-08 23:55:31 | あの頃のヨーロッパ旅行
お家では泣きたくても我慢して
外に一人で出ると泣く場所を探して
泣いている。

そんな2週間が経過した頃、私の気持ちに
変化がおこりました。

ひとつは、あんなに海外に出たいといっていたの
は私なんだから、この環境は望んで手に入れたもの
なんだから、帰国までは楽しもう!という半分
やけっぱちな気持ち。

そしてもうひとつは何と言っても
フィリップのママの存在です。

今までの話に出てきていませんが、フィリップには
地方の高校で宿舎生活をする弟がいました。

フィリップはもじゃもじゃヘア(天然パーマ)で
牛乳瓶の瓶底のような眼鏡をかけていて、色白で、
ややデブ(失礼!)ですが、
夏休みで家に戻ってきていたフィリップの弟は
彫りが深いきれいな顔。

初めて会った日はドキッとしましたが、その後、
彼が鼻血マン(すぐに鼻血を出す男でした)だと知って、
しかも鼻血を出すたびにママに抱きついて甘える
(彼は高校生でしたが、、、、)。
そこでドキドキはとまりましたが、、、。

そうなんです。男ばかりの一家。

そのせいか、ママは日本から来た
私をとてもとてもかわいがってくれました。

お互いに英語もさほどわからない間柄だったのですが、
それでもママは何かあるとすぐに鼻血マン同様に私の
ことも抱きしめてくれました。

大人になって、自分の母親にも抱きしめてもらった
記憶などありません。

いつも笑顔で、優しくて、何かあると抱きしめてくれた
のがギリシャのママ。

ギリシャ語を覚えたのもママが
「アケミ、ブラボー!」といつもおおげさに
ほめてくれたからです。

エナ、ディオ、トリア、テッセラ、ベンデ、、、、

ギリシャ語の数の数え方です。

水はネロン。
パンツはキロタキ。

英語のできないママが指したものをひとつひとつ
単語で覚えていきました。

ママは仕事がない日にはいつも私を連れて買い物に
出かけたり、親戚の家に遊びにも連れていってくれました。

夜、日が暮れてからのパパとのデートにも、
手をつないで私を連れていってくれました。
パパとママと三人で、
私がいつも一人で泣いていた国立考古学博物館の公園で
アイスクリームを食べたのを今も覚えています。
オモニア広場のママの職場(ママは薬局で美容部員をしていました)に、
一人で訪れるといつも同僚に
「日本人の私の娘」と紹介してくれました。

ママにとっての、髪の毛と瞳の黒い日本人の娘が
どうやら自慢だったように思います。

相変わらずギリシャ料理が苦手な私が
やせていくのを心配して、
日本人だから魚を食べるだろうと
お魚を買ってきて、ご飯と一緒にオーブンで
やいてくれたのもママです。
(それはあまりに魚臭くてやっぱり食べられ
ませんでしたが、、、)

私が喜んで食べていたビリココ
(いつも食後にでてきていたデザートのフルーツで
日本のビワです)だけはきらさずにいてくれました。

そんなママの優しさがあって、私のホームシックが
だんだん薄れてきていたのです。

アテネのお昼寝タイム

2007-05-07 22:58:06 | あの頃のヨーロッパ旅行
ギリシャのはじめての
ランチの話をしました。

ランチタイムのあと、
パパはお昼寝をします。

えぇ~昼寝ぇ~?
それがシエスタに対する
はじめての印象です。

だって日本だったら、
ご飯を食べてすぐ寝たら
牛になる!
っていわれ続けていたじゃ
ないですか!
(と、あくまでも私の思考は
日本との比較でした。
若かったんです)

お昼ご飯を食べて昼寝をする
なんて、やっぱり日本人には
想像がつきませんよね。

しかも昼寝が終わったらパパは
午後また会社に出勤していくのです。

パパに限らずに、仕事がある時には
ママもそうでした。

6月のギリシャは既に夏。
今でいったら気温は30度を
超していたんだと思います。

そしてその頃のギリシャの冷房は
お家にひとつある扇風機だけ。

日本にいたら、扇風機の前を陣取り、
風を存分に浴びていたかもしれませんが、
私は居候の身です。

ましてや家の住人たちでさえ、
そんなことはしませんでした。
お行儀がいいのか、もしくは居候の
前だから遠慮していたのかな?

お家の中では暑さを部屋の中にいれないように、
ただひたすらに窓をしめるだけ。
ギリシャでは当たり前だったんです。

暑さ、そして食べなれないギリシャ料理、
体がばてていくといっそう日本が恋しくなります。

なので私はいつも皆が昼寝をしている間
行き方を覚えた国立考古学博物館の前にある
大きな公園へ出かけていました。

公園に出ていた屋台で、冷えていないコーラ
(冷えていないコーラのまずいことといったら
想像がつきますか?)を買い、木陰のベンチに
腰掛けます。
すると、数分と待たずに男の人が入れ替わり
立ち代わり声をかけてきます。

それこそ、「もう声をかけないで!」
というくらいにしつこく、何度も、情熱的に。

もてたねぇ~といいたいところですが
うかつに喜べません。

ギリシャは厳格なギリシャ正教の国。
いきなりの話ですが、中絶は許されません。
ギリシャの男性は自国の女性とのアバンチュール
は自粛するものの、観光できている外国人に猛烈に
アタックするのが常なのです。
(ということを現地在住の日本人女性に
聞きました)


でもその頃はそんなことをもちろん知らない
18歳の私。

ただただ、声をかけてくる男性たちが
うっとおしくて、なのに無視するのは失礼かもと
適当に話をして本当に本当に疲れました。

私はただ、ひとりになりたかった。
そして泣きたかった。

日本にかえりたいと!

そんな日々がアテネについてから
2週間は続いていたんだと思います。

はじめてのギリシャのランチ

2007-05-06 19:19:08 | あの頃のヨーロッパ旅行
フィリップと仕事の合間を
利用して帰宅したパパ、
そして午前中で仕事を終えた
ママと4人ではじめての
ギリシャのランチです。

その時におなかがすいていたか
どうかなどは覚えていません。
30時間以上もの長旅の後です。

ただ出される食事を待っていただけ。

キッチンの横に配置されたテーブルに
ママ以外の3人で腰をかけ、ランチを
待っていると、でてきたのはオリーブ
オイルに浮かんだ茄子とトマト。
そして堅いパン。

えっ、これだけ?

日本だったら、炒め物にお味噌汁に漬け物に
ご飯がでてくるでしょう?

フィリップが、この料理はギリシャの
典型的な家庭料理だと説明してくれたの
を覚えていますが、なにせ私にとって
初めての海外、初めての異国の食事。

想像も、心の準備もまったくないままに
出された食事だったのでそれはそれは驚きでした。

一番衝撃的だったのはオリーブオイル
の半端じゃない量。

何度もいいますが茄子とトマトが
浮かんでいるくらいオリーブオイルが多いんです。

そして日本では食べたことがなくらい堅いパン。

ギリシャでの主食はパンのようでしたが
そのパンは日本にいたら「いったい何日前の
パンなの?」といいたくなるほど
18歳の私にとっても堅い堅いパンだったこと
を今も覚えています。

「初めてのギリシャ料理はどう?」
と聞かれ典型的な日本人の私は
「うん、おいしい!」といいながら
フォークが進まずにいました。

食後に”ビリココ”と出された
果物を数個食べてどうにか初めての
食事を終えました。

とてもとても苦痛でした。

ギリシャ料理ってこんなにまずいの? 
これからも続くのかなぁと不安になりました。

そこで記憶が途切れています。
何せ20年以上も前のことですから。

翌日から私はフィリップにつれられて
いくつかのアテネの観光スポットを
歩きました。
その頃の私にとってとても退屈な遺跡観光や
考古学博物館見学でした。

英語の不馴れな私にフィリップも
困っていたのかもしれません。
午後の数時間は自由時間ができました。

何をしていたかというとただひたすらに、
一人になれる場所を探して
一人で泣いていました。

18歳の6月です。