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野遊び行跡ブログが'09年背中の激痛で入院、腰椎への前立腺転移癌!'25年には肺癌を超えて罹患率一位か原因は牛乳・肉食?

夏・小笠原・父島

2012-09-24 | 生活雑感
(父島、南島周遊に乗船したタクシー!)
 
パイナップルは沖縄の主要産品だが、これは明治期に小笠原島から移入されたものである。
小笠原諸島には近代史があるだけで それ以前は無人島ゆえ歴史はない。
しかし、その足跡は短いとはいっても、波乱にとんでいてなかなか興味深い。
 
幕末期の文久二年(1860年)、幕府は外圧に押されて 遅まきながら小笠原の開拓を実行するため、八丈島住民から移民を募った。
応募者38名(うち女性15名)があり、彼らは軍艦に乗船し8月21日出港、同月27日小笠原に上陸。彼らに加えて、江戸からは役人数名と医師の阿部櫟斎(あべれきさい)が同行した。
櫟斎は、島民の医療、物産の調査、産業振興等に当たることになった。彼は20年も前から「無人島渡航計画」を練っていた人物だ、という。
島での彼は医療従事だけでなく、本草学者(ほんぞう学者、動・鉱・植物で医薬に役立つものを研究する学者)として、また食料や加工品原料の開発などに活躍している。
例えば、外国から渡ってきたシマナシ(パイナップル)やシマミカン(レモン)を栽培することなど提唱している。
 
1830年代、この無人島のはじめての住民は、ハワイ諸島(旧サンドウイッチ島)から入植したアメリカ人セボリーら5名とハワイの先住民20人だった。
彼らは、当時 欧米系で盛んだった捕鯨産業の補給基地として、水、食料をあきなうために定住した。
幕藩はもともと 小笠原諸島に限らず日本周辺の離島への関心や浸透はうすかったのだ。
 
幕府は、小笠原諸島に外国人が住み始めたことくらいは知っていたが、実際の対応の必要性を認識するきっかけは、渡米した奉行の新見正興らが ペリーから贈られた「日本紀行」のなかの記録によるものだった。
それは、30年以上も前に小笠原諸島へ寄港したイギリス軍艦ブロッサム号(ビーチー艦長)が父島にイギリス領を宣言した銅板とイギリス旗を置いて領有権を主張していたことがあった。
 
また、ペリーのアメリカ東インド艦隊は嘉永6年(1853年)浦賀に来たが、その前に琉球や小笠原父島に寄港して補給のための貯炭所を確保していた。
彼は、もし幕府が開港しない場合は、周辺の離島を戦いの前進基地として使う思惑があった。
また、ペリーは、小笠原母島をアメリカ領と宣言するプレートを残したという。
 
これらの外圧によって太平の眠りを揺さぶられた幕府は、小笠原の領有権主張と入植を実行するが、本格的には明治政府になってからだ。
小笠原住民は、欧米系の帰化した人たちとも協力して開発、発展の道を歩くが、ここで世界大戦となり本土疎開、やがて敗戦を迎え小笠原は米軍の占領下となり、以後1968年まで島の人たちは帰島できなかった。
 
自分を現地ガイドしてくれたJ君は、激戦地の硫黄島出身で、いまだに帰島できない、と云っていたことが思い出される。
 
人口の8割は移住者で構成される。
遊覧船の船長(写真)は、定住地を求めて日本中をめぐり、小笠原に行きついた、と島めぐりの操舵の手を休めず語っていた。
 
(パイナップルのことをナニか書こうと思ったが、以外な方向へ転じてしまった。
史実は「周縁の幕末史」濱口祐介氏,を参考にした)
 
('10.07.22記事 転載)


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