2013.6.9.多く赦された者は多く愛する
聖書 ルカ7:36~50
題 「多く赦された者は多く愛する」
暗唱聖句 ルカ7:50
「しかし、イエスは女に言われた。『あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。』」
1.パリサイ人シモンの家に招かれたイエス様
2.金貸しの話:どちらが多く愛するか、感謝するか
3.おもてなしの比較
4.罪深い女への赦しと祝福
5.私たちの生活の中で
1.パリサイ人シモンの家に招かれたイエス様
あるパリサイ人がイエス様と一緒に食事をしたいと思って家に招きました。そこでイエス様はそのパリサイ人の家に入って、食卓に着かれました。その町に一人の罪深い女がいました。その女はイエス様がパリサイ人の家で食卓に着いておられると知り、香油のつぼを持って来て、泣きながら、イエス様の後ろで、足のそばに立ち、そしてひざまずきました。涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、足に口づけをして、香油を塗りました。
この女の人は何者で、何をしたのでしょうか。そして、この家は誰の家だったのでしょうか。
この家はパリサイ人の家でした。パリサイ人たちはどんな人ですか。聖書の勉強をし、律法に詳しく、また口伝律法を重視して、守っていました。モーセの十戒が613の戒律になっていた時代のことです。こんな家に招かれたイエス様、そして、こんな家に走りこんできたこの女の人、そして、敬虔なパリサイ人であるシモンの思いはそれぞれ違っていました。この女は町で有名な美人の売春婦でした。ですから自分でも罪人だと思っていたし、町の人も罪深い女だと思っていました。シモンはこの女を見て心の中で「罪深い女がイエス様に触った。それくらいのことはイエス様が預言者だったらわかるだろう。さあ、どう反応するだろうか。」と思いました。このシモンの反応は良い反応でしたか。悪い反応でしたか。そうですね。否定的な反応でした。
この女はきっとイエス様のうわさを聞いていたのでしょう。イエス様がパリサイ人の家に来られていると知って、場所をわきまえることなく、イエス様の所に飛び込んできました。
そして、イエス様の後ろに立ったのです。当時の食卓は低く、イエス様たちは足を投げ出して座っておられました。女がひざまずいたところがイエス様の足だったのです。イエス様のそばに来たら、なぜか、涙が滝のようにあふれ出てきました。イエス様の愛と赦しが伝わってきました。そうしたら、この女もイエス様への信頼と愛が洪水のようにあふれてきたのです。この女の人はイエス様にたいして必死で愛を表現しました。涙で足をぬらし、髪の毛でぬぐい、足に口づけして、香油を塗りました。どこかでイエス様に出会って、知っていたような感じさえもします。高価な香油を石膏のつぼごと持ってきました。気前よく持って来ているのです。
2.金貸しの話
シモンは心の中で「この女は罪深い女だから、イエスはどうするだろうか。預言者だったら、どうするかわかるだろう。」と否定的な反応を示していました。声にだしていったわけではありません。しかし、イエス様はそのシモンが心の中で思ったことがわかって、反応されました。
そして、イエス様は簡単な誰にでもよくわかる話をされました。どんな話でしょうか。
金貸しの話です。
ある金貸しがいました。この金貸しから2人の物がお金を借りていました。1デナリという単位は一日働いてもらう賃金のことです。一日1万円の賃金だと仮定しましょう。一人は500万円、もう一人は50万円借りていました。2人とも商売がうまくいかなくて、お金を返すことできませんでした。そこで、この金貸しは2人とも赦してあげました。ここからイエス様の質問です。
「では、2人のうち、どちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」シモンは何と答えたでしょうか。シモンは答えました。「よけいに赦してもらった方だと思います。」するとイエス様は「あなたの判断は当たっています。あなたの答は正しい」と言われました。
イエス様は「シモンの答えは正しい」と言われました。ですから、シモンは、一般常識のわかる人だったのです。このことを確かめてから、イエス様はシモンに言われたことがあります。その時のイエス様の態度が面白いのです。
3.おもてなしの比較
イエス様は、顔は女の方を向いて、そして、話はシモンに向かってなさったのです。どうしてでしょうか。
ある人はこういう経験があると言いました。「わたしは夫に言いたいことがあると、夫に横に座ってもらって、息子に向かって話す。」つまり、夫に言いたいのだけれど、言いにくいので、息子に話しているふりをして、夫に聞こえるように言っている。」というのです。皆さんもこういうことがありますか。
つまり、イエス様は言いにくいことをシモンに言おうとしておられるのです。
イエス様はシモンのおもてなしとこの罪深い女の人のおもてなしを比較しておられるのです。
当時のおもてなしはまずお客が家に着いたら、足を洗う水を差しだし、僕が足を洗います。そして、主人は口づけをして歓迎するのです。またオリーブ油を塗ってきれいに見えるようにして歓迎します。オリーブ油は汚れを落とし、さっぱりさせてくれます。香油はオリーブの油に香料を混ぜたものです。良い香りがし、疲れを癒してくれます。アロマセラピィのようなものです。シモンは自分がイエス様を招いたにもかかわらず、このような常識的なおもてなしをしなかったようです。それでイエス様はお客様の立場だったのですが、言いにくいことをはっきり言っておられます。すごいことを言っておられるのです。
「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
7:45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。
7:46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。」
この罪深い女は人々が見ていようといまいとお構いなく、イエス様に愛を表現し、シモンがしなかったおもてなしをシモンにかわって、自然な形ですることができたのです。この家に来ることさえ、大変な勇気を必要としたことでしょう。
彼女は涙を流しながら、悔い改め、イエス様の赦しの愛を受け止めていたのでしょう。イエス様の愛を受け、自分の中からも愛がほとばしり出て行くのを感じました。その愛が、涙で足を洗い、口づけとなり、香油を塗るしぐさとなったのです。
4.罪深い女への赦しと祝福
「7:47 だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」
7:48 そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。」
イエス様はこの愛をうけて、あなたの罪はとっくに赦されていると宣言されました。
それは、愛の行動を起こしたからゆるされたのではなく、赦された喜びの結果、この愛をイエス様に捧げた女の心が先に有ったからです。その心をイエス様が受け入れられたのです。
「それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」というのはシモンが罪を赦される喜びを経験していなかったので、彼は愛する喜びも知らないと言われているのです。
「よけいに愛した」というのは、罪の意識を深く持っていた罪深い女の当然の反応でした。「私のような罪深い者をこのように赦して下さって、・・・」と感動していたのです。そして泣いていたのです。
しかし、シモンはどうでしょうか。彼はパリサイ人でした。ですから、自ら義人だと思っていたのです。「私はあの罪深い女とは違う」という意識があったので、赦してもらわなければならない身であることさえ、わかりませんでした。当然、感謝などありません。しかし、罪深い女は罪をゆるしてもらった喜びにあふれ、その喜びを愛情で表現したのです。その中には高価な香油さえ、捧げたいという気持ちがありました。イエス様はこの罪深い女の為にも十字架の上で死んでくださいました。この女は「イエス様を信じます」という信仰告白はしていませんが、救われています。イエス様に近づく時、人々は救われるのです。ここではこの女の人の告白は一切ありません。しかし、イエス様は一方的に「あなたの罪は赦されています。」と宣言されました。
(エレミヤ29:12~14)
「29:12 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。29:13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。29:14 わたしはあなたがたに見つけられる。」
肉体の癒しは一時的ですが、罪の赦しは永遠の世界に通じることです。この女の罪の赦しの後ろにはイエス様の十字架の贖いがあります。
一緒にいた人たちはイエス様のことを「この人は誰だろう。罪をゆるす権威を持っているこの人は誰だろう?」言い始めました。
イエス様は言われました。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
この女の人を救ったのは涙やキスや香油のおかげではありません。救いは行いによるのではなく信仰によるからです。イエス様を救い主としてすべてを捧げ信頼した信仰のゆえでした。この信仰から罪が許されたとの確信が湧きでたのです。その確信から、赦された喜びがあふれ、それがイエス様を愛する大きな愛に変わり、イエス様に流れて行きました。また、罪が赦された結果、神に受け入れられたので、天からの平安が心の中に与えられたのです。
罪が赦されると大きな平安と喜びがやってきます。その喜びは静かな喜びもあれば、他の人に分かち合わずにはいられない衝動にかられるものもあります。こんな時はぜひ他の人に恵みを分かち合ってください。それが伝道になるのです。
5. 私たちの生活の中で
私たちの生活の中でこの中を流れている真理にはどんなものがあるでしょうか。
1.パリサイ人のように「自分が赦された」という経験がなければ、イエス様を愛する喜びはないかもしれません。罪の悔い改めをして、はっきりとした信仰をもちましょう。イエス様への愛は罪の赦しの大きさの自覚に比例します。また、律法主義者になると、信仰の自由な喜びが失われ、裁く心が台頭してきます。多くのクリスチャンが律法主義に陥って、真理に生きる喜びを失っています。神様との個人的な関係、個人的な会話を大切にしましょう。
2.イエス様は心の中で考えていることを見とおされる方です。正直に話し、祈り、ありのままの姿で神の前に出ましょう。主は憐れみ深い方です。
3.イエス様おそばに近づけば救われます。神様が救ってくださるのであって、私たちの行いではありません。イエス様におすがりしましょう。
4.多く赦されたという自覚がある人は多くイエス様を愛します。献身的に仕えるのです。イエス様もまた、その愛に答えて、多く愛を注いでくださいます。