goo blog サービス終了のお知らせ 

阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

イエスはバラバの身代わりになって

2014-04-07 22:51:16 | Weblog

2014.4.6.イエスはバラバの身代わりになって

聖書 ルカ23:13~25

題  イエスはバラバの身代わりになって

はじめに

1.ヘロデとピラト

2.バラバ

3.沈黙の愛

 

はじめに

 温かくなり、桜が満開になりました。桃の花も満開です。日本が桜の季節になるとイスラエルではアーモンドの花が咲き、過ぎ越しの祭りの季節になります。過ぎ越しの祭りとイエス様の十字架の死刑は切り離すことはできません。イエス・キリストの十字架の死刑と復活は春の重要な出来事です。今年は4月15日から過ぎ越しの祭りが始まります。その日は普通満月で明るい夜のですが、今年は皆既月食が起こり、月が暗く、赤黒くなるそうです。非常に珍しい現象です。それから、この皆既月食がイスラエルの祭りの日に起こるというのも珍しいのです。今年は過ぎ越しの祭りだけでなく、仮庵の祭りにも、皆既月食が起こるそうです。何か、イスラエルに起こるかもしれません。イスラエルだけでなく世界にとっても重要なことが起こるかもしれません。

イエス・キリストの十字架の死刑と復活はこの世の暗闇を打ち破った霊的勝利の日でもありました。今から2000年前のことですが、この出来事が私たちの生き方と深い関係があります。

 本日の聖書の個所はイエス様の裁判の個所です。その結果、殺人と暴動の罪で捕らえられていたバラバという犯罪人が釈放されて、無実のイエス様が十字架の死刑を受けることになりました。非常に理不尽な判決です。どうしてそうなったのでしょうか。

 イスラエルの民の長老会、祭司長、律法学者たちは朝早く集まって宗教会議をしました。そして、イエス様を有罪にしてピラトのもとに連れてきたのです。イエスを訴えた訴状は3つありました。

①            国民を惑わした。

②カイザルに税金を治めることを禁じた。

③自分は王キリスト(救い主)だと言っている。

さて、ピラトはどのように対応したのでしょうか。

 

1.          ピラトとヘロデ

ピラトはイエスにユダヤ人の王かどうか質問しました。イエスはそうだとお答になりました。他にも調べましたが、何も犯罪に当たるようなことはありませんでした。イエス様がガリラヤ出身だとわかるとガリラヤ地方を治めているヘロデにイエス様を送りました。ちょうどその頃、ヘロデもエルサレムに来ていたからです。ヘロデはイエスに会いたいと思っていましたので喜びました。主イエスが行う奇跡を見たいと思っていたからです。しかし、イエス様は沈黙して何もお答えになりませんでした。祭司長や律法学者たちは激しく、イエスを訴えました。ヘロデもイエスをあざけり、侮辱しました。その上、派手な衣を着せて、ピラトのもとに返しました。ヘロデは何も罪を見いだすことができなかったのです。

ヘロデも、ピラトも残虐な人でした。普段は、敵対している人たちでした。しかし、この日は仲良くなったのです。これはいじめの構造です。一人をいじめると他の人たちはそのいじめに加わって、団結するのです。その残虐で敵対していた二人が一致してイエスの無実を証明したのです。しかし、民衆は納得しません。ますます、騒ぎ立てます。

ピラトは言いました。「あなた方はこの人を、民衆を惑わすものとして、私のところに連れてきたけれども、私が調べたところでは、あなたがたが訴えているような罪は何も見つかりません。ヘロデも同じです。見なさい。この人は死罪に当たることは何もしていません。だから、私は懲らしめた上で、釈放します。」ピラトは3度も民衆に呼び掛け、イエスを釈放しようと努力しました。しかし、多くの群衆の声に負けてしまうのでした。

この懲らしめは鞭打ちの刑でした。この鞭には鉛やガラスがはいっており、体じゅうに傷が入り、時には出血して、死んでしまうこともあるような刑罰でした。

これはイザヤの預言が成就する為でした。

(イザヤ53:5)「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

 

2.バラバ

民衆の多くはピラトの声をさえぎって「十字架につけろ、十字架につけろ。」と叫びます。

「バラバを釈放せよ。この人を除け。」ユダヤの群衆はメシヤ像が期待していた者と違ったので、失望したのでした。民衆は自分たちをローマから救い出してくれる人をメシヤだと考えていました。また、指導者たちはイエスのことを「メシヤではない、悪霊付きだ」と言って、民衆に不信感を抱かせました。指導者たちを通して、イスラエルはこの時、民族として、聖霊に逆らう罪を犯したのです。イエスはメシヤであられたのに、それを受け入れず、十字架につけてしまったからです。民衆は自分では何も善し悪しを判断することのできない人々でした。一週間前のエルサレム入場の時はイエス様に対して、熱狂的な歓迎を表し、今日はコロッと違う態度を示しているのです。罪深い人間の弱さを見せられます。

バラバは暴動と強盗と殺人の罪で捕らえられていた人でした。十字架の刑につけられる予定でした。バラバにしてみたら、釈放されるなどというのは夢のようなものです。そんなことは起こらないはずでした。ところが、バラバが釈放されて、イエス様が十字架につけられることになってしまいました。バラバは一方的な恩寵によって、釈放されることになりました。バラバの罪は赦されるものではありませんでした。当然刑罰を受けるべきものでした。しかし、それが何の努力もなしに釈放され、受けるべき刑から解放されたのです。(ルカ23:25)「ルカ 23:25 すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入っていた男を願いどおりに釈放し、イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。」

 このバラバは現代では私たちクリスチャンの姿です。聖書は「義人はいない。一人もいない。」と言っています。罪人の私たちには多くの赦されない罪がありましたが、イエス様の十字架の刑よって、罪が赦され、永遠の刑罰から解放されたのです。そして神の国に入ることができるようにしてくださいました。それだけではなく、神の作品としての生き方をすることができるように祝福して下さっています。

 3.沈黙の愛

父なる神には人間を救うという偉大な計画がありました。そのために、神のひとり子をこの世に送ってくださいました。ひとり子のイエス様は父なる神の命に従って、人間になって、この世に来てくださいました。この世の理不尽な状況を受け入れて、十字架に至るまで、従順に従ってくださいました。私たちの罪の身代わりになって、十字架についてくださいました。十字架の刑に至るまでの裁判の間、ほとんど沈黙を守り、ひたすら、父なる神の命令に従って、十字架の刑を全うされたのでした。死に至るまで忠実でした。

(イザヤ53:7)「 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」

(Ⅰヨハネ4:10)「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 イエス様はバラバの身代わりになりました。バラバには理解を超えた神の愛が注がれたのです。彼は罪がゆるされ、死刑から解放されました。ピラトの弱さもイエス様は自分の背に背負ってくださいました。ピラトは民衆の声を制することができなく、ついに彼らの声に負けて、正義を貫くことはできませんでした。もし暴動になったら、どうしようという心配と恐れが彼を支配したのです。それは、自分と家族の安全を守るという立場を貫いたからです。これは私たちの中にもある弱さです。私たちも人の顔色をうかがいながら、ものごとを決めることはありませんか。また、イエス様は自分を十字架につけたユダヤ人の罪も赦されました。

「父よ。彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのかわからないでいるのです。」(ルカ23:34)という祈りに表されています。十字架を通して、主の身もとに来る人々を拒まれることがありません。みんな赦して下さいます。今があなたの人生の分岐点です。主イエスの赦しと愛を受けて、祝福された人生を送ろうではありませんか。神の命、復活の命をいただいて、よみがえるのです。

(ピリピ2:6~9)「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」


最新の画像もっと見る