goo blog サービス終了のお知らせ 

阿南神召キリスト教会 礼拝メッセージ

徳島県の阿南神召キリスト教会の礼拝メッセージです

御使いとヤコブの祈りの格闘

2019-08-30 18:18:46 | Weblog

2019.8.25.御使いとヤコブの祈りの格闘

聖書 創世記32:22~31

題  御使いとヤコブの祈りの格闘

 

はじめに

「聖書の祈りが私の祈りとなる」という本を学んできました。先週の「会衆の祈り」で、ほぼ終わりなのですが、その本の中で14章をまだ学んでいません。14章は「御使いの介入」というテーマです。ブラント先生はこう言われています。「実践的な祈りと取り組むときには『御使い』の働きも無視することはできない。現代においても具体的に検討したほうが良い項目である」と言われています。天においての御使いの使命は、神を賛美し、礼拝をするこちです。御使いは、神の命令に従って、神に仕えています。その彼らが神の命令のもとに、祈りの答えをクリスチャンの元へ届ける働きをしているそうです。

御使いは想像上の存在でもなければ、神話の中の話でもありません。人間の世界に現れることのできる存在です。聖書の中には普通の人間の格好をした御使いの出現が幾度も取り上げられています。「御使い」という言葉を検索したら、なんと新旧約聖書の中に、213節ありました。御使いは天の領域から遣わされてきます。人間が気がつくこともあれば、気がつかない状態の時もあります。私たちは、ただ、神の命令を実行してくれる御使いがいることを知るだけで、十分に励まされます。かといって、御使いにお祈りするわけではありません。お祈りは父なる神にイエスの名を通して聖霊の助けによってささげるものです。

 

1.ヤコブの格闘

旧約聖書の中にはたくさんの御使いの介入があります。その中から祈りにかかわる御使いの例を取り上げました。

ここではヤコブが御使いと祈りの格闘しました。おそらく人の姿をした御使いだったかもしれません。ここでは、御使いだったのか、主ご自身が人の姿をとってこられたのかはわかりません。

(創世記32:24~30)

「32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

 32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。

 32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」

 32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」

 32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

 32:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。

 32:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。

 この人と格闘していたヤコブはだんだん気が付いてきました。自分が格闘しているお方は自分を祝福することのできる、神ご自身だと気が付いたのです。そして、この方の祝福なしには生き延びることができないということを理解しました。なぜなら、ヤコブは「顔と顔を合わせて神を見たのに、生かされている。死ななかった。」と言っています。当時は神を見て、生きている人はいないと言われていました。

 

2.ヤコブが格闘したのは、誰と格闘したのか。

ヤコブが祈りながら、御使いと格闘している間、御使いもまた必死でヤコブと格闘していました。ですから、ここではこの御使いは人の姿をしていたのではないかと思われます。しかし、ヤコブは一方では自分自身と格闘していました。ヤコブは今までのアブラハム、イサク、ヤコブの神の守りを感謝していました。しかし、故郷の土地が近づくにつれて、兄のエサウの復讐が恐ろしくなり、不安でいっぱいでした。それは今までの苦労の何倍もの恐怖でした。そして、そういう人生の刈り取りをしなければならなくなった、古い自分の性格とも葛藤していたのです。彼が抱えていた問題は自分の内面にありました。

 御使いは神がヤコブを祝福するために遣わされたのですが、ヤコブの方では心の準備ができていませんでした。ヤコブは強すぎたのです。自我が強すぎたのでした。ヤコブが克服しなければならないものは、うそをつく者、後から来て先のものを押しのける者、ひねくれた者であるヤコブ自身でした。

 

 御使いは長い時間ヤコブと取っ組み合いの格闘をしました。激しい格闘は一晩中続きました。そしてついに御使いはヤコブの股関節を外したのです。股関節は人間の力のしるしでした。股関節が脱臼したので、ヤコブは負けてしまいました。ついに降参したのです。ヤコブは願っていた祝福をいただくことになりました。御使いは言いました。「あなたの名は、ヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。(28節)」勝ったというのは誰にでしょう。御使いにでしょうか。神に勝ったのでしょうか。

違います。ヤコブはヤコブに勝ったのです。その目的のために、ヤコブはみ使いと格闘したのです。

ヤコブという名前は「かかとをつかむ者」という意味でした。兄エサウの足を引っ張るものだったのです。しかし、ここで祈り、格闘した結果、ヤコブは自分自身に勝利したのです。自分の弱さを認め、その弱さゆえに神の祝福をいただくことができたのです。神がヤコブに名前を変えるように、新しい名前を名付けてくれました。「イスラエル」です。これは「勝利者」という意味です。ヤコブからイスラエルという名前に変わったのです。これは大きな人生の大きな転機でした。この目的のために、彼は御使いと格闘したのです。名前はその人の本質を表します。彼は勝利者になったのです。

 

3.神は今もなお御使いを遣わしてくださる

ヤコブは自分の内なる問題と取り組み、信仰によって解決したのです。神は今もなお、必要ならば、御使いを遣わして下さり、ヤコブと同じような祝福を分け与えてくださいます。

私たちの内側にもヤコブがいるのです。偽り、ひねくれた心、すぐ切れてしまう心、怒鳴り散らす声、など、古いアダムの性質が新しくなった私たちの心を支配しようとして、戦いを挑んでくることがしばしばあります。その時、気がついたら、「主よ、あなたの御使いをお遣わし下さい。」と祈りましょう。そして祈りの格闘をしましょう。良くない性格の束縛から解放されましょう。

 

ヤコブは「どうか、あなたの名前を教えてください。」と尋ねました。なぜなら、「主の使い、もしくは神ご自身」に出会ったという確信がありました。ですから、その名前を聞きたかったのです。御使いは直接に答える代わりに、「いったいなぜ、あなたは私の名前を尋ねるのか。」と言って、その場でヤコブを祝福してくれました。この祝福こそ、ヤコブが長い間欲しいと思っていたものでした。彼はそのみ使いと格闘した場所に「ペニエル」(神の顔)という名前を付けました。彼は顔と顔を合わせて、神を見たのに死ななかった。生きている。神が新しい命と人生をくださった」という感謝を込めてつけた名前でした。

 

とりなしの祈りをすると、神について知るより、自分のことが良くわかるようになります。自らの罪深さ、霊の側面の弱さ、自分自身にほめるところが無いことに気がつくのです。

使徒パウロはこの真理に気がついていました。そして「私が弱い時にこそ、私は強いからです。(2コリント12:10)」と言っています。

 

4.御使いが現れたという、現代における事例

ジョン・ウィンバーはモンタナ州(アメリカ合衆国)ボーズマンにある小さな教会を牧会する謙遜な牧師でした。彼は教会のあるガラティン渓谷のために熱心に働き、祈っていました。ある秋の日、山の中で、シカを追っていました。

 尾根に上り、シカに向かって銃を向けた所、一人の人が目に留まりました。消えたような感じがしましたが、すぐそばに現れました。男が声をかけてきました。「私を知っていますか。」

ジョンは不思議なものを見たので、答えました。「み使いだと思います。主の使いの方でしょうか。」「そうです。」「主はあなたと話すために私を遣わされたのです。」近くに岩があって二人は向かい合うように座りました。

御使いは言いました。「ここはきれいなところですね。」「今まで一度も来たことはありませんが、主があなたと話すために遣わしてくださったのです。地上で起こることはすべてあなた方を天国に向けて整えるためのものです。私たちは常に学び、主にお仕えしています。・・・」

「ジョン、主はあなたのすべてをご存知ですよ。家族のことも、教会のことも、・・・・今日はこの地方でどんなことが起こってほしいかを聞いてくるように仰せつかってきました。」ジョンの心は、すべての叫びが溢れそうになったそうです。

御使いは答えて言いました。「そうですね。すぐに与えることもできるのですが、それは私たちのやり方ではありません。私たちは普通人々を用いるのです。今回もそうするつもりです。」ジョンは霊において親せきと会話しているような気分でした。御使いは挨拶をして帰りました。二人は握手をしたそうです。御使いは最初見えたところに帰っていくと、ジョンに手を振り、姿を消しました。

 

 その後しばらくして、ジョンはモンタナ州のローレルからボーズマンへの帰り道、車を運転していました。役員会の帰り道でした。運転しながら賛美をしていると、主の臨在が圧倒的な形で訪れ、魂に語りかける者がありました。「ジョン、山で君のもとにやってきた男を覚えているかい?」「はい、はっきり覚えています。」と答えました。「じゃ、今本当にしてほしいことを一つ上げてごらん」と語られたようにおもいました。ジョンは答えました。「主よ。少し大きなことですが、教会の負債をすべて返してしまえたらと思うのです。」すると、主の臨在は消え、ジョンは引き続き、主を喜びながら車を運転し続けました。

 ジョンはこの経験については誰にも語ることはありませんでした。翌朝、8時ごろ、電話が鳴りました。教会に出席している一組の夫婦が、一つ話し合いたいことがあるから家に来てもらえないかということでした。着くと、彼らは教会会計を詳しく見直しているところでした。彼らは話し始めました。「こんなことは一度もしたことはないのですが、主が教会の負債を代わりに払うように求めておられるように、心に強く感じました。」そして、彼らは夫妻の半額に相当する小切手を切り、残りの半分は年の後半にお捧げしますと言ったのでした。

 やがて、負債を全部払い終わると、ジョン・ウィンバー牧師はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のモンタナ州の教区長に電話をして、負債の完済記念の祝福に来てほしいと頼みました。そして教区長が来ると、これまでの話を全て分かち合い、これを教会員とも分かち合っていいかどうかを尋ねたのでした。翌日、この証は教会全体に語られるところになりました。会衆は、みんなが驚きに包まれました。負債を代わりに払った夫婦も驚きました。御使いの話は初めて聞かされたからです。


最新の画像もっと見る