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随想録~つれづれなる一言日記⇒Part2はhttps://blog.goo.ne.jp/conny_mizukiにて

私こと瑞希祐作が、無秩序・無作為・無節操に自分の思いのままを書きつづってみました。楽しんでください!

多重人格論

2008-11-04 | ちょっと変わったお話
久々にHome townに帰ってきました。今回の出張では私と同じように世界に駐在するお仲間と会えて楽しいひと時をすごさせていただきました。特に主催者のF先輩や大陸棚の向こうで頑張っているM氏とは有意義な時間をすごさせていただいたことを感謝しています。といってここに書いてそれを読んでくれるかどうかは疑問ですが・・・。まあわかる人にはわかる会話もたまにはいいでしょう。(笑)

さて、こういう楽しい時間を過ごしているとき、ふと気づくことがあります。歳をとるにしたがって、人間誰しも「心」を隠すようになります。これは格好良く言えば、「大人になる」ということなのでしょうが、自分に対し「素直になれなくなる」ということでもあるような気がします。もちろん家族や恋人の前では皆さんは素直になれるでしょうが、相手・場面・状況によって自分を殺さなければならないことが多くなります。それがどんどん増えれば増えるほど、本当の自分を見失いがちになってしまうかもしれません。

今回親しいお仲間と話をしていて、なんかほっとしました。プライベートな時間は別にして、仕事に関してだけ言えば米国で若いお兄ちゃんと2人でやっているわけですし、時差も距離もあれば、同じ仕事をしている仲間が居ても、自分の存在が不安になることがあります。また人間いい人ばかりではありませんし、いつどこで何を言われているかわかったものでもありません。そういう不安が募れば募るほど、自分の気持ちが曲がってきます。これを維持するには自分の中の自分を見極めることとそれをしっかりと維持していく強い精神が必要ではないでしょうか?

さて、ここでいう「自分の中の自分」とは、その人間を構成する人格です。別に心理学の講釈をたれるつもりはありませんが、私の中には「白い自分」と「黒い自分」だけではなくいろいろな色の人格がいて、それが重なり合って形成されてると思っています。白とは素直(というかきれいだと思っているよう)な自分であり、黒とは憎しみとか妬みとか所謂心のダークサイトのことです。これ以外の色というのは、何かに熱中したり、感動したり、漠然と思ったり、人によって対する感情の向け方等がそれぞれ違う色をもっているような気がします。自分が多重人格もどきを意識しだしたのは、仕事とプライベートな自分以外に音楽をやっているときで、このときは何も考えずにひたすら集中しているときにふと自分の第3の人格を意識しました。ちなみにその時の写真があるのですが、結構「マジ」です。「へぇ・・・、自分でもこんな顔するんだ!」ということに気づかされたのです。これは一例ですが、映画を見て涙を流したり、何もすることがなくただぼーっとしていたときにはっと気づくこと、親や恋人、友達に接するときの顔は必ずしもひとつではないと思います。人は誰しも「多重人格」なのだと私は考えています。

でもそうなると「精神分裂なのでは?」といわれる方もあるかもしれません。そういう意味ではなく、それぞれの人格には色がありその色が混ざり合ってひとつの「心の色=人格」を形成しているのだと私は思います。そうでなければ、表裏ばっかりある人間で、この世は本当に怖い世界になってしまいます。そうならないのは、絶えず変化するそれぞれの色が混ざり合って形成されていくからではないでしょうか? 故にそれぞれの「色」がお互いを強調・反発をすることなくひとつにまとまっているのでしょう。

でも最近の暗い事件を聞くと、このような色のバランスがとれていない人間がだんだん多くなってきているような気がします。これは一時の感情に押し流されて、ひとつの「色」を出しすぎるからではないでしょうか? 常に自分の中で自分を冷静に見つめて見極めていくことが「心の葛藤」であり、「成長する」ということだと思います。

今回いろいろな人とお話する機会があってひさびさに自分の中にあるハートフルな「トリコロールブルー」が見つけられてうれしかったです。ちなみに私の言うこの色は、「心の平和と安定及び爽快感」を示しています。何かここだけ見ると自分がとってもきれいに見えますが、きっと実際は違うと思います。きっと私を実際に知っている人であれば、「この偽善者が何を言う!」と爆笑してしまうでしょう。(といいつつ自分でも可笑しくてしょうがない・・・。)

さて、皆さんはこうやって考えると自分の色は何色かわかりますか? ご自分で考えてみると良いかもしれません。まあ多分仙人のように「純白だ!」と答えられるひとはいないでしょう。(笑)

日本人とお酒

2008-10-20 | ちょっと変わったお話
前回のテーマ「紅葉シーズン」を書いてるときに、日本人の「風情」についてふれました。その時ちょっと頭を過ぎったのが、日本人にとって「風情」と「お酒」というのはなかなか切れない関係にあるものだなぁ? ということです。

さて、皆さんは以下のような言葉をよく聴きませんか?

春は「花見をしながら一杯やりたいね・・・。」
夏は「今日も一日暑かったね・・・。こういうときは生ビールを一杯。」
秋は「お月見をしながらちびりちびりと・・・。」
冬は「温泉での雪見酒は最高だね・・・。」

まあこれらはすべて一例に過ぎませんが、お酒を飲む人であればこのようなセンテンスは知らず知らずのうちに使っていることと思います。

いやはやこうしてみると、日本人は「風情」を理由にしながらも、年中「お酒」を飲むことばかり考えているようです。日本人から見た外人は、このような感覚があまり無いような気がします。(というか、こういう話題でお酒に誘う・誘われる、という話はあまり聞きませんよね? もしこのようなことをのたまう外人さんがいたら、きっとその人はかなりの「日本通」でしょう。) ただ日本人は「風情」を楽しみたいのか「お酒」を楽しみたいのか、いつも私の中にそういう疑問が湧いてきます。。確かに日本人は「目で見る文化」の民族であり、ちょっとした僅かな光景から「風情」を見つけだします。ただ、そういうところもある反面、それを言い訳にして「お酒」が飲みたいだけなよう気がします。自分が言いだしっぺになるのがいやなので、それを他の事に摩り替えるずるがしこさがあるのです。でも、それも一種の「風情発見」につなげているところが、絶妙すぎるんですけどね。

日本人の「お酒」好きは、その「組織的歴史性」に由来するところであり、他の人との距離を緊密に保ち、共有の認識を得ながらも、「無礼講」と称していろいろtいいたいことがいえるから、と言うのが理由かもしれません。「組織的歴史性」というのは何とも不可解な言い回しですが、これが結構日本人と米国人の違いを解くにあたって、面白い内容であると考えています。この辺はいずれ深く自分なりの考えを皆さんに披露したいと思っています。

さてさて、今日からペンシルベニア州の奥地に出張です。今回はルートに1時間半のドライブがついていますし、アパラチア山系の自然がいっぱいなので、今日も紅葉が楽しめるのを楽しみにしています。

「しまった・・・、日本酒を持ってくるのを忘れた・・・。」 ふと気がつきました。

仕方が無いのでどこかでもみじの葉っぱを捜して、それをカクテルにいれることにします。これもまた「風情のある」お酒の飲み方になるでしょうか?(笑)

二日酔い解決法

2008-10-12 | ちょっと変わったお話
先日久しぶりにあった昔の友人とお酒を飲みました。こちらに来てからは日本にいるときよりもこういう機会がぐっと減ってしまいましたし、またご無沙汰していればしているほど積もる話も多いものです。それにしたがってどんどんお酒の量も増えるわけでして・・・。

普段は車にも乗っているし、だいたい現地の人間は仲間とのコミュニケーションよりも家族を大事にするので、あまり夜の飲み会というのもありません。せいぜいお客さんが来たら食事をする程度です。非常に健全で且つ健康によいと言えばそれまでなのですが、ずっと長い間日本で酒びたりの日々を続けてきた私にとっては、時として物足りないと思うこともあります。(まあ最近は本当に健康自体もかなり改善されてきているのですがねぇ・・・。)

さてと、今回はまずおいしい日本料理屋に行き、まずはビール→焼酎と言った具合にはじまります。どーせ4人ならと、結局グラスでなくボトルで注文をしてしまいます。話が弾めば量も増えるので、一杯が二杯、二杯が三杯といった具合に軽やかに進むわけです。一次会が終わって、さあさようなら、とうまくいけばよいのですが、そこは同じ日本人同士。「まあまあもう一軒。」と言った具合に、ここは米国でありながら日本でのありがちなパターンに。そしてそういうのに都合がよいようなお店があるところにはあるのです。(米国のどことはいいませんが・・・笑) 今度はそこでウィスキーが出てくるのです。本当にメニューの表示がUSドルで無ければ、「ここは日本のスナックか?」と錯覚してしまうのです。そういうときが楽しいひと時なのです。

さて、「宴たけなわで・・・」と〆るころにはもう「うしみつ時」です。

年々老化が進行しつつある体にとっては、これだけのお酒を飲むと結構ほろ酔い加減というか千鳥足になってしまいます。20代後半のときは、それこそ一日日本酒換算一升飲んでも問題はなかったのですが、今はまあ3-5合が限界です。この姿にお土産をぶら下げれば、典型的な「酔っ払いオヤジ」の出来上がり! と言った感じになるのでしょう。まあ大体飲むときは近くにホテルを取るわけでして、部屋に戻るのには差して問題はないのですが・・・。

さて問題は、翌日です。頭がいたい気持ち悪いと「飲むんじゃなかった症候群」がいつも発生するのです。「後悔先に立たず!」とはまさに言ったとおりです。こうなるともうさめるまで寝ているのがベストです。でも往々にして、こういうときは飛行機に乗って移動とか帰らなければならないときなので、時間も無く大変な状況に追いやられます。そうなると、苦肉の策は、「水を大量に飲む」「シャワーを時間をかけて浴びる」などの方策が講じられるのです。まあ自分的には水よりも牛乳やカルピスウォーターのような乳製品のほうが効き目があるような気がしますが、とりあえずある程度飲んで体内のアルコール濃度を減少させるのです。それからシャワーはどちらかというともちろん体から酒臭さを消すのもありますが、長い間浴びることにより、徐々に体が目覚め、活性化するような気がします。まあこれでもダメなら、あきらめるだけですが・・・。

恐らく皆さんも自分自身でいろいろな「二日酔い解決法」をお持ちだと思います。もしよければいいのがあれば教えていただければと思います。

でも、人間ってやっぱり懲りないですね・・・。同じことを繰り返すんだから・・・。(笑)


2つの「ぼけ」

2008-09-20 | ちょっと変わったお話
昨日まで東京への台風の接近が騒がれていましたが、幸いなことに南のほうに避けてくれました。おかげで、朝から天気は回復傾向となり、昼過ぎには台風一過の青空が広がりました。

と言うことで、今日は朝から勢力的に東京で残った仕事を片付けに出かけました。

先ほどホテルに戻ってきたところですが、今日一日久しぶりにあちこち歩きました。はっきり言って疲れました。というのも米国ではどこに行くにしても車でいくことになるので、あまり歩くことがありません。でも東京ではどこもかしこも渋滞だらけ、おまけに道にはたくさんの人が歩いています。自転車に乗って人並み&車のそばを過ぎさって行く人も数多くいます。「あぶないなぁ・・・」と思うこともしょっちゅうです。だから車で行くより、電車で移動するほうがずっと安全だし、早いのです。それ故、駅から目的地への移動、また駅構内の階段の昇降などやたらめったにあるかなくてはならなかったのです。

まあ適度な運動と言われればそうかもしれません・・・。

でも久々にこれだけ人が密集していると、どうも慣れません。歩いていても直ぐに人にぶつかりそうになったり、人波にさらわれそうになったりと、自分のペースが維持できないのです。約3年半の米国生活の中で、自分のゾーンの広さが日本にいるときよりもかなり広くなっているのを感じました。だからその中に他人が入ってくるのが非常にストレスになるわけです。それを気にしだすと自分のペースが狂ってくるのです。なるほど、海外から来る人間がこのペースに馴染めないのが良くわかるようになりました。ということは、自分自身も既に「欧米か?」してしまったのかもしれません。

そういう意味では、「時差ぼけ」ならぬ「スペースぼけ」になっているのでしょう。

さらにもうひとつ「ぼけ」を感じていることがあります。それは、「寛容さ」ということです。米国にいれば、所詮マイペースの米国人に付き合うために、かなり自分が他の人に対し、「まぁ、しょうがないかぁ・・・。」と言った具合に許せるのですが、日本にいるとどうも気が短くなりがちです。車に乗ってて渋滞すると、いらいらしてくるし、昼ごはんとかで待たされると、「いったい何をしてるんだろう?」とか気が気では無くなります。どうもこの日本の風土というか、自分が日本人であるというHome感覚から、ついつい「日本人なんだからもっとしゃきっとせい!」とでもいうような厳しさが、出てくるのかもしれません。米国人なら許せることが、日本人がすると許せないという極めて内輪に厳しくなっているのです。

いやはや、こうした「ぼけ」は今私の中でかなりの葛藤を作り出しているのです。困ったものです。

さて残すところあと3日間の日本ですが、まだまだやらなければならないことがてんこ盛りです。湿気の多い暑さ、この2つの「ぼけ」と戦う日々が続くと思うと、げんなりです。

でももうひとつ憂鬱なことは、やっぱり「人間ドック」かもしれません。明後日・・・受けなければならないのです。だから今日・明日はお酒は止めて少し健康体になっておこうかと思っています。(笑)

単なる気休めにしかなりませんが・・・。

ところが・・・

2008-09-16 | ちょっと変わったお話
いやはや、本当についていないときはついていないもので、いろいろと厄介事が重なるものです。昨日の明け方にいろいろと準備をしていたのですが、折からのハリケーン“IKE”のあおりを食らった形になり、自宅付近が超特大のサンダーストームに襲われてしまいました。いつもならたいしたことないのですが、今回に限って、それも日本に行く直前なのに、轟々と雨が降っていたのです。家の細君がまたこんなときに限って「家のベースメントは大丈夫かしら?」なんていうものだから・・・。不吉な予感です。

朝、出発の1時間暗い前にベースメントに降りた細君が驚きの形相で階段を駆け上がってきました。なんと予言通り床下ならぬ地下室浸水になってしまったのです。最初はほんの少しだったのですが、最後には(ベースメントの)フロア全体に水溜りが広がる状況になってしまったのです。あわてて階下から荷物を運びあげる始末。もう汗だくです。ひどい雨は降り続き、これでは飛行機もきっとゆれるでしょう。「飛ばないかもしれない・・・、キャンセルはどうするのだろう?」と私の頭を過ぎります。今日は日曜日、故に旅行会社もお休みです。全部自分で対応しなければならないのです。もはや、これは「日本にいくな!」という神のお告げに違いない! とも思い、98%出張取り止めを覚悟しました。この家の復旧にはかなりの手間がかかると踏んだからです。これで家にいないものなら、何を言われるかわかったものではありません。米国人は家族が一番、仕事は二番なので、こういった場合は間違いなく家族を優先させます。私もそうするつもりでした。

ところが・・・、

雨が次第に小降りになりはじめ、どうやらこれ以上にはならない予測が出てきたのです。これが私の判断をまた混沌とした状態に戻したのです。私の場合、こういう風になると極めて早く判断をするほうで、この時点では9割9分(ちょっとあがってる)まで行かないつもりでいました。でも細君はとりあえず状況がこのままであれば、大家を呼べば何とかなると言い出したものですから、再度行くことに決め、(自分の気分が乗らない)裏腹な状態のまま、また間に合うかどうかわからないまま、とりあえず飛行場へ向かいました。チェックインのタイムリミットに間に合うかどうかのタイミングで空港に到着すると、折りよく細君から電話がかかってきており、「大家が見に来てくれて、対応してくれるといったから大丈夫よ!」というありがたいお言葉。これは逆に言えば、「この悪天候の中を飛行機に乗れ!」ということを意味しているのです。当然飛行機嫌いな私が積極的にならない状態だったのですが、しぶしぶカウンターに行くと、ぎりぎり間に合ってしまったのです。いっそうの事、間に合わなければよかったのに・・・。

ところが・・・、

今度はシカゴから東京への便の予約番号は見つかったのですが、シカゴまでの予約がカウンターで見つからないという事態が勃発したのです。確か予約をきちんといれてあったはずなのに、入っていないのです。原因がわからない状態でしたが、とりあえず「空席があるの?」と聞くと、これがまたしっかりあるのです。なけりゃよかったのに・・・。またしても頭を過ぎるのは、「この悪天候の中、飛ぶのか?」という恐怖心。精神的についていないのです。

ただ、こうなるともう仕方がないので、覚悟を決めました。日本に行くことに・・・。仕事もありますから・・・。まあ家のことは細君に任しておけば、きっと良い英語の交渉の勉強になるでしょうと、自分に言い訳していました。ということで、一路シカゴへ、おそるおそる乗ったフライトはそれほど揺れることもなく到着しました。

ところが・・・、

乗り継ぎ便に乗ったのはいいのですが、今度は飛行機の機体トラブルが発生したのです。機長の説明では、乗客を乗せた後にタイヤを交換するというのです。これでまた1時間のロスです。いつもなら国際線はANAなのですが、今回だけは特殊事情でAmericanだったのです。故に要領がわかりません。更に日本にもどったら友人と食事をする約束にしていたのですが、これに間に合うのだろうか? という新たな精神的ストレスの発生です。もうこうなれば「後は野となれ山となれ!」です。不貞寝を決め込みました。うとうとしている間にやがて飛行機は修理を終え、滑走路へ向かい、1時間強遅れて日本へと出発したのです。

12時間半後・・・、

日本につきました。今成田エクスプレスで東京に移動中です。どうやら約束の時間には間に合いそうです。すこしづつですが、緊張感がほぐれてきました。とりあえず日本についてよかったです。でも今日一日はいったい何だったんでしょうか? ついていないときって本当にこういういろいろなことが重なります。こういうときはじっとしているのが一番。さもなくば、とっぴな発想で状況を変えるのが二番なのですが、今回のように状況に翻弄されると打開策が見当たらないのは困ったものです。

もう今日は、「ところが・・・」は結構です! おいしい食事をしてすべて水に流しましょう!


IXXI

2008-09-12 | ちょっと変わったお話
今日久しぶりに会社に来たところ、入り口にある4つの旗(米国・英国・日本・社旗)が半旗になっていました。そうです。今日はあのSeptember 11th なのです。あの忌まわしき事件で多くの尊い命が犠牲になったあの日からちょうど7周年なのです。

当時私は日本にいましたが、夜のニュース番組をつけたところ、騒然とした状況が映し出されたのを記憶しています。「何が起こったのだろうか?」と食い入るように見ていたところへ、旅客機がビルに突っ込みました。そして崩落・・・。あの光景は人生で二度と忘れない光景のひとつです。

人間は歴史の中でいろいろな間違いを犯してきました。戦争であまたの人間が死にました。それは事実です。原爆を投下し罪の無い人々が亡くなりました。これも事実です。そしてこの事件・・・。「いつになったら人間は愚かなことをやめるのか?」というのは誰もがする永遠の問いかけなのです。

人間は理知なる生き物でありますが、やはり「動物」なのです。自分より優れたものを尊ぶとともに疎み、また劣ったものを卑下したり支配したがるのです。これは「本能」なのです。ただ他の生き物と違うのはこの「本能」を「理性」が押さえ込んでいるのです。いや、正確に言うと抑えているというのが適切かもしれません。この箍が何らかの理由ではずれた時に、人間は動物にもどるのです。

このテロも一種の人間の「本能の具現化」かもしれません。そうであればまた同じ間違いを繰り返すことになるでしょう。この歴史の一ページをよくかみ締めて、更に「理性」を強化することが人間にとって「平和」への近道かもしれません。

どれだけ正当化しようにも「戦争」や「テロリズム」は人殺しであり、正しいものではありません。人間はそれがわかっているはずなのです。でもどこかで政治・経済・思想等のバランスがおかしくなり、理性の箍が壊されるのです。そうするとこのような過ちが犯されるのです。

戦争が戦争を呼ぶように、今テロリズムが新たなる戦争を呼ぼうとしているのかもしれません。米国を含む欧米諸国のテロリズムに対する軍事戦略が新たにロシアとの緊張バランスをゆがめ始めています。それが「グルジア侵攻」につながったとも言えます。幸いなことにロシアにも「事情」がありますので、これ以上大きなことにはならないとは個人的には思いますが、中東諸国・北朝鮮等様々な火種が世界中あちこちに存在しているのです。これらがいつ均衡を崩すかは、きっと専門家でも想像つかないというのが本音だと思います。

では人間はいつになったら争いをなくすのでしょうか?

私は極めて悲観的な見解でいます。「きっと世界共通の敵が現れたとき、人類はひとつになって立ち向かうのだ!」と・・・。これは良く映画や漫画であるようなテーマですが、人間が「動物」である以上、きっと自分の「敵」といつも見合っていなければ生きていけないと思うのです。だから全世界共通の敵が現れない限り、戦争は根絶できないと思います。

でもそうかと言って、人間は「理性」がありますから、このような忌まわしき経験を思い出し、積み重ねることによりその箍が壊れにくくなると私は信じたいと思います。

今日は誰もが「戦争とは?」「テロリズムとは?」を考えるための日ではないでしょうか? と思います。

100トピックス達成記念!

2008-09-08 | ちょっと変わったお話
いよいよ今回で100トピックス目です。一部かさなったり、コメントコーナーとかもありましたが、純粋にトピックスとしてこれが100回目の内容です。いやはや3日坊主と考えていましたので、とりあえずここまでこれたのはちょっと信じられないくらいです。すべては私自身のおかげです。(謙虚という言葉がないなぁ・・・。)さらに記念すべきこの回をお酒を飲みながら書いているというのは、かなり不謹慎であることは間違いありません。(笑)

今日は多分こんな感じのだらだらで終わってしまうと思います。
(まあ記念すべき回数なので、勘弁してください。笑。)

意外にも大よそ3ヶ月での達成ですので、計算するとほぼ1日1つずつのネタを書いてきました。「よく、そこまで書けるなぁ?」という方もいるかもしれませんが、いやはや、こういう環境にいるとネタは尽きないものなのです。一日必ずひとつ以上は何かが、事件が、起きるのです。それを仔細に分析していれば、何でもかんでもネタになるのです。多分このままのペースで行けば300回くらいを続けるのは十分可能ではないかと思います。

一番大事なことは、やはり「続ける」ということだと思います。一日ひとつは何かトピックスを考えてそれについて考えてみる。それは大事なことだと思います。忙しければ、見落としてしまう日常の出来事を、ふと考えて、「あれ? これってどういうことだろうか?」「これは何故こうなるのかな?」と考えてみると、意外な発見があるような気がします。

このブログをはじめて一番良かったことは、何事に関しても自分自身で分析し、再考してみるという癖がついたことです。ちょっと見過ごしがちなことでも、一度深呼吸をして考えなおすと意外と新たな発見があるものだと思いました。

これからも結構書きたいネタはあります。例えば、「なぜ米国人は“I Love you!”を奥さんや彼女にいつもいうのか?」、「米国にいる人間とうまく付き合うには?」とか「アメリカナイズされた日本人」等々まだ暖めているものはあります。きっと皆さんも言われてみれば、「あ、そうか!」とか「言われてみればそうじゃない?」というものはあると思います。ただ、そういうことは、自分では思っていても、指摘されないとなかなか気づかないことかもしれません。平たく言えば、自分が気がつかないだけだと思います。こういうことを的確に指摘したとき、自分でもひそかに感動するのです。それが楽しみなのです。(笑)

人間は意外と回りに流されやすい動物だと思っています。他の人の言動、環境そしてとりまく状況により自分の意思とは別に行動を余儀なくされやすいのです。その際に「何でだろう?」と思うことはありません。特に日本人であれば組織の学習を受け、組織で育ってきていますので、「常に周りに合わせること=協調性」を要求されます。それゆえに、本来であれば気づくべきことが気づかないままで終わってしまっているのです。

正直なところ、私も米国にくるまで、そしてこのブログを始めるまで、いくつもの「不思議であること」を全くおかしなことと考えていませんでした。いろいろと改めて分析・考えてみることで、初めてわかることというのはいろいろとあるのです。故にこれからもこれを続けることで、自分が活性化するであろうという淡い期待を抱きつつ書いていきたいと思います。「くだらない!」と思いつつ、お付き合いくださっている皆様、どうか飽きずに読んでいただけると幸いです。これも「継続は力なり」なのです。これからもよろしくお願いいたします。

多分次回のこういうダレダレした文章を書くのは、多分1周年記念でしょう。多分それまでは続けなくては、と思います。(本当にできるかな?)

さて明日は何を書きましょうかねぇ・・・?

5・4・3・2・1・・・ 

2008-08-31 | ちょっと変わったお話
「どうも米国人はカウントに弱い!」ということをうちの子供が言い出しました。

ちょうど外で夕飯を食べているときに、5歳くらいの女の子が私の後ろにあった熱帯魚の水槽に吸い寄せられ、中で踊っている魚たちに「きゃーきゃー」言っていました。それを見ていたその子の父親が、最初は「なあに?どうしたの・・・」とか言っていたのですが、だんだんエスカレートするので、私たちに気を使って、「こっちにきなさい!」というような注意を与えたのです。でも子供のすることですから、そんなに簡単に言うことを聞きません。最後の手段として、「こないならカウントを数えるよ! 5,4,3・・・。」と言い始めたのです。すると子供は急におとなしく言うことを聞いて自分の席に戻りました。

それを見ていて、この発言が出てきたのです。

うちの娘によると、どうも米国人はカウントを数えられると、警戒したり、相手が本当に怒っていると思うみたいなことを言っています。つまり、カウントを数えられる=相手は相当怒っている=数え終わったら罰せられる、という方程式が自然と組みあがっているようなのです。つまりカウント=最終手段という構図なのです。

これは子供のころからの学校生活で身に着けられているようです。日本では最近ちょっと?ですが、学校では先生が自分の授業に関しては責任をもって指導をします。当然その際には必ずクラスでの決め事=ルールがあります。保護者は毎年クラスの始まったころに子供が持ってくる「授業中のルール」というものにサインをさせられます。これには事細かに、授業方針、評価の仕方、罰則の規程が書かれています。何回かルールを破ったら親の呼び出しとかそういうものまで載っているものも普通です。基本ルールとは別に、授業中の「躾」の一環として、このカウント法が一般化しているようなのです。だから米国人はカウントに弱いというのです。

まあ確かに前にFed-exのところで書きましたが、「あと30秒まってくれ」「わかった、1,2,3,4…」「いや60秒にしてくれ。」という担当者とのやりとりがありましたよね? これがそれに通ずるものがあるのです。彼にしてみれば、時間稼ぎと思って言った台詞が、逆にカウントを数えられ、前述のような「カウントのトラウマ」にかかってしまったのかもしれません。

今回のこの一件はあくまで私と娘との仮説に過ぎませんが、今度チャンスがあったら試してみる価値があると思いました。ご存知の通り日本人と違い「お気楽道」を突っ走るこっちの人間を、如何に精神的に追い込むかが我々の鍵であり、その中でこの手段が有効に使えれば少なからずプレッシャーを与えることが可能になります。

こういうものは心理学的には「刷り込み」と同じものです。長い間の繰り返しにより自然と身についたものですから、自分でわかっていても体が反応してしまうのです。いわゆる「ギアス」と一緒のように精神を支配されてしまうのです。まあ大げさな言い方ですが・・・。こういうものをひとつでも知っていると知らないでいるのでは、相手に対する「戦略」に大きな違いが出てきます。そういう意味では、この何気ない娘の一言は、おもしろい発見になるかもしれません。

「でもまあ、犬じゃないんだから、カウントはいくらなんでもないだろう?」とも思います。

まあ今度何かの折に試してみましょう。うまくいったら大発見です。(笑)

バランスの時代

2008-08-18 | ちょっと変わったお話
東西冷戦の終結以来、世界は多極化の歴史を歩んできました。第三勢力の強大化、少数民族主義の台頭、宗教的価値観の相違等、あらゆる事情による世界での紛争が起きては消え、消えてはおきるというような繰り返しです。戦争を肯定するつもりはさらさらないのですが、そうした緊張が第1次・第2次世界大戦のようなグローバルな戦闘に拡大していないのがせめてもの救いです。でも日本に居る人間には感じないそうした「不安定感」は常にこの世界を覆っているのです。

湾岸戦争・イラク戦争の火種は依然くすぶり続けているものの、そのインパクトは歴史の流れの中で徐々に終息していくような傾向にあります。このまま世界が平和な方向に進めばよいのですが、やはり戦争がなくなれば、またどこかで勃発するというのが悲しきかな歴史の繰り返しなのです。これは単に人間や国家の欲望というわけではなく、争いという遺伝子をどこかに持っている人間の性なのかもしれません。自分にとって味方・敵を作ることにより、味方とは連帯感を、敵からは見えない恐怖感を受け、それに立ち向かおうという意識の高揚を得ているような気がします。

確かに世界規模で国を超え、宗教を超え、そして民族を超えた結集ができるとすれば、それは人類に対する敵や脅威が訪れない限りないかもしれません。アニメーションや映画の世界ではありませんが、宇宙からの侵略とか惑星衝突とかが起こらない限り、この小さな地球という舞台で日々争いは繰り広げられることになるでしょう。

今現在は各国間の中で「バランス」が保たれています。どこかが突出しようとすれば、他の勢力から圧力がかかる。例えば、湾岸戦争・イラク戦争における米国とEUの関係、今回のグルジア侵攻に関してもロシアに対するフランス・米国の牽制などは、まさにそのバランスから出てきたものと思います。こういうバランスが機能しているうちは、大きな災いが起きることは考えにくいと思われます。あくまでも国家の「常識の範囲内」ですべてのものが動いているからです。

ところがこのバランスが崩れてしまったらどうでしょうか?

国と国、そういう単位であれば主権国家の力のバランスで、ある程度の暴発は防げるのですが、テロとなるとそうは行きません。国家の「常識」が相手には通じないわけです。これの対処法には本当に苦労します。「セプテンバーイレブン」以降、国家ではない見えない「国・敵」との戦いは、以前のこのバランスを崩しつつあるように見えます。今はまだそういうものが常態顕在化することは難しいのですが、これが次第に世界規模の結社化による特定国への破壊行動となれば、それはそれでこの世のバランスを崩すことにつながるかもしれません。

これは私個人の見解ですが、この「見えない敵」を作りだした一つの要因は日本から出てきたものであると考えてます。「サリン事件」がそうです。「無差別テロによる大量殺人」は、スケールさえ違えば広島・長崎を越えるような厄災を引き起こす可能性があります。場合によっては世界の破滅という危機さえ引き起こしかねません。そういうきっかけを世界に示してしまったわけですから・・・。

ではどうしたらよいのでしょうか?

やはりひとりひとりがそれぞれに応じた「バランス」を保つことが必要です。つまり自分のことだけではなく、他の人のことを考え、リスペクトし、そして相手をもどうしたら満足・幸せにできるのかを考える必要があるのではないでしょうか? 「そんなことしたってどうにもあるものじゃない!」と言われる方も居ると思います。たぶんそのとおりかもしれません。でも一人ひとりが今の自分をふと振り返ってみて、少しでも考え方を変えてみると今まで見えない何かを見つけられるかもしれません。

ちょっと今日のテーマは大きすぎるテーマでしたね・・・。でも考える価値はあると思います。

ECO CAR

2008-08-01 | ちょっと変わったお話
車の運転をしていかなければならない米国では、車に関しても個人個人がある一定の知識を持たなければなりません。というのも、日本と違い、家がどこにでもあるとはかぎりません。下手をすると40-50Kmにわたり何もないところをひたすら走らなければならないときもあります。たまに高速を走っていると、「この先40マイル、ガソリンスタンドなし」とかいう看板が出ているほどです。「パンク」、ガス欠」だけではなく、何かトラブルが起こった場合に対処する術を知っておく必要があります。

私はこの対策として、「Premio」という日本語対応のできるロードサービスと契約をしています。何かあった場合24時間日本語で対応してくれるので、最後の切り札なのです。最後の切り札故、使うことはまずありません。年間75USDくらいの安心料なのですが、この3年で使ったのはただの1度だけ。夜遅く同僚宅の家の前に止めた車の鍵を巻き込んでしまったのですが、その際に一度試しただけです。でもこのときの対応たるや結構早く、「やっぱり日本のサービスだなあ。」と感心した覚えがあります。

日本の場合何でもかんでも余計過ぎるくらいのサービス過剰であることが、こちらに来てから感じました。ガソリンも全部入れてくれるし、ボンネットを開けてのチェックや空気調整までしてくれます。恐らく最近は「セルフサービス」というのもかなり増えていると思いますが、多分こっちの人が見たら、「すごい」を通り越して「なぜ余計なことをするのだろう?」と唖然とするかもしれません。まあ寡頭競争に勝つためにはそのくらいしなければなりませんねぇ・・・。

しかし最近の新聞を見ているとガソリン代が値上がりして歯止めがききません。日本では税金がかなり(20円以上?)占めているので今では180円/Literくらいになってしまうのかもしれませんが、こちらで見ている分には、信じられないくらいの高さです。(ヨーロッパはもっと高い??)大凡の傾向ですが、日本を1とすれば、こちらは大体0.6程度だと思えます。(西海岸とかの高いところだともっと高いのもありますが。)ガロン単位ですが、2年くらい前には2ドルを切ることもありましたが、現在は3ドル半ばです。一時期うちの周りでも4ドル近くまで行きましたが、何とか4ドルの壁を越えずに乗り切れたようです。これからはもっと安くなることを祈っています。

話は戻りますが、こちらでは日本よりずっと距離を乗るので、前述の通り何かあった場合のリスクは常に考えなければなりません。インジケーターにランプがともれば、チェックを欠かしません。トラブルが起きる前に自分で予防することが大事なのです。だからいろいろと知っておかなければならないことが多いのです。日本にいれば、何かあればガソリンスタンド直行で、本当に上げ膳据え膳のサービスを受けられます。でもこのサービスが我々から知らなければならないはずの知識を得るチャンスを奪っているのです。もっと知識を知っていれば、2-3年に一回の車検も受けなくてもいいでしょうし、大事に乗るようなことになるでしょう。そういう意味では、日本人は「贅沢」なのかもしれません。

車を大切に乗れば、その分長持ちします。だから必要な知識を学び、しっかりメンテをすべきでしょう。それが世界のエコに繋がるかもしれません。我々には努力が必要です。

最近分かったことですが、「クルーズコントロール」を適正スピードで使うと、全体的に2マイル/ガロンくらいの節約になることが分かりました。私もこうした観点からエコに協力していきたいと考えるようになりました。(何もスピード違反がどうだからというわけではありません。苦笑)日本ではクルーズコントロールを使うこと自体難しいかもしれませんが、機会があれば試してみればよいと思います。

「せまい日本そんなに急いでどこに行く?」 確かにその通りです。だからもう少しエコ化な車の使い方を考えましょう。