葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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6月23日は、沖縄県民を巻き込んだ地上戦が終結した日として、「慰霊の日」

2024年06月23日 | 憲法・防衛・平和・人権

6月23日は、沖縄県民を巻き込んだ地上戦が終結した日として、戦没者の霊を慰め平和を祈る「慰霊の日」です。

沖縄には三回しか訪問していません。新宿区議会議員に初当選した1971年の時に、那覇市議会議員選挙の応援に行きました。二回目は、新宿平和委員会会長として、2000年の日本平和大会in沖縄に参加したときです。三回目は、2009年に那覇市のチャペルで長男が結婚式を挙げたときです。

新宿平和委員会刊「葵から菊へ」(絶版)を一冊500円で販売しました。

亡父は第九師団第九輜重兵聯隊に所属していましたが、昭和18年(1943)2月に召集解除となり、杉並区で暮らしていました。しかし、第九師団及び輜重兵第九聯隊は、満州から昭和19年(1944)に沖縄進出並びに昭和20年(1945)1月2日に台湾への抽出転用となりました。

金沢の伯父長谷川政男から寄贈された「追憶 金澤輜重兵聯隊」が手元にありますので、沖縄第三十二軍に関する記述を抜粋します。(内容は「防衛研修所戦史室 編纂 戦史叢書」からの引用だと思われる。)

参考blog記事「敵艦船群ノ果敢ナル體當リ攻撃」陸軍特攻隊50名への“感状”受電綴。防研「市ヶ谷台史料」から

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四、沖縄の攻防戦

(前略) 第三十二軍は、六月三日ごろ概ね順調に新陣地の新配備につき、六月十一日からその陣地における最後の死闘に入った。十七日ごろ戦況は絶望的段階に入り、最早組織ある戦闘も行われなくなった。十九日、軍司令官は各方面に訣別を打電した。喜屋武半島複郭陣地における第三十二軍の抵抗も六月二十二日、遂に終馬となった。 
 軍司令官牛島満中将は参謀長 長勇中将と共に六月二十三日午前四時三十分、海岸に面する坑道陣地の入口において次の辞世の歌を詠じつつ日本古武士の礼式に則って切腹して果てた。 
  秋をまたで 枯れゆく島の青草は 
  皇国の春に 蘇へらなむ 
  矢弾つき 天地染めて散るとても 
  魂かへりつつ 皇国まもらむ 
 小禄地区における太田少将の指揮する海軍地上部隊もまた、六月十三、十四日全部隊突撃を敢行し、太田実少将およびその幕僚は十三日午前一時従容自決を遂げた。 
 敵が沖縄本島上陸以来、正に八十三日にわたる死闘の連統であった。 
かくて沖縄は完全に敵の手中に帰し、該基地の米空軍は西日本一帯を制圧することとなり、また敵本土進攻軍の大基地と化した。 
 六月二十五日、大本営は沖縄作戦の終馬を公表した。 
本作戦の特色と彼我の損害 この作戦の特色は、史上空前の大航空特攻作戦の遂行と国民の戦闘参加であった。数千の若人が祖国の難に赴き、一機克く一艦を屠るべく装備不十分なる改修練習機を駈って、防空砲火の火ぷすまと敵機の逢撃網を衝いて、敢然として敵艦船に突入していった。また十七歳よリ四十五歳までの男子を始め、可憐なる男女中学生に至るまで義勇隊を組織し、戦闘、通信、衛生、後方等の各種勤務に参加し、文字通リ軍民一丸となって闘った。数万の老幼婦女子もまたこの死闘の渦中に巻き込まれて、将兵と運命を借にしたので あった。 
 本作戦における日本軍は島民義勇兵を含めて約九万名が玉砕し、さらに島民非戦闘員の犠牲は実に一〇万に上った。軍の生存者は七千八百余名を数えたがその一半は負傷者であリ、他の一半の多くは沖縄作戦終馬後、なお坑道陣地に立龍もって抗戦を継続し、その中にはこの年の秋に及んだものがあった。一方米軍の損害もまた四万九千名(内戦死一万一千四百名)に達し、米軍司令官バックナー中将も六月十八日午後、陣頭指揮に艶れた。 
 米艦船攻撃のため使用された日本軍飛行機の延機数は、特攻機二、三九三(内陸軍機九五四)機を含め七、八五二(内陸軍機二、一「一〇)機を数えた。敵艦船の撃沈破は約四〇四隻と報ぜられた。因みに戦後の資料により米軍艦船の実損害は沈没三六隻、損傷三六八隻なることが明らかになった。但し米航空母艦、戦艦、巡洋艦の撃沈は一隻もなかった。 台風期直前にわたる沖縄作戦三カ月の敢闘は以上の如き数的戦果を超える重要なる作戦目的を達成した。すなわちこの敢闘により獲得せる貴重なる時によリ、後述する如く本土決戦作戦準備を概成し、敵の本土攻撃を遅延せしめた。その上敵を震嬉せしめた本島軍民の敢闘は、敵をして本土攻撃を一段と慎重ならしめた。
 
五、本土決戦(決号)作戦準備(挿図第一四一・一四二)

第二次兵備と統帥組織の変更  既述の第一次兵備につづいて四月八日、かねての計画にもとづいて第二次兵備の軍司令部七個(内朝鮮一個)、決戦師団八個、独立戦車旅団六個の動員が下令された。決戦師団には師団長以下若くて元気な幹部をそろえ、兵も現役兵の比率を多くされた。これら新設決戦師団には二百代番号がつけられた。 
 本土決戦においては関東および九州において重要決戦が予想され、しかも米軍の強烈な破壊攻撃によリ、本土が地域的に孤立に陥リ大本営または防衛総司令部の適切な指揮が困難になることが懸念されたので、四月五日第一、第二総軍司令部、航空総軍司令部が新設された。 (後略)

挿図第一四一

挿図第一四二

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米軍ダンフォール作戦(オリンピック作戦 1945年11月予定)

米軍ダンフォール作戦(コロネット作戦 1946年1月予定)

(了)

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