葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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こりゃ大変だ!東京メトロ四ッ谷駅改修工事で「旧御所トンネル」が見えなくなる

2018年03月02日 | 歴史探訪<赤坂・青山・原宿・四谷>

田園調布学園社会科教諭の川口重雄さんから下記のメールが着信しました。
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各位     2月28日〔BCC、本日第1信〕
お早うございます。
明日は弥生3月、昨日は靖国神社見学会に高等部3年生徒11名+保護者など10名と一緒に行ってきました。
遊就館見学は、昨年から学校見学の場合「ただ」。
法政大学沖縄研究所見学後に、3月9日(金)に見学する「旧・御所トンネル」―東京メトロ丸ノ内線四ツ谷駅の荻窪方面プラットホームから見えます。
「旧・御所隧道」は、日清戦争勃発の1894年8月1日の直後の9月23日から兵員輸送にあたった旧甲武鉄道(現・中央総武線)のトンネルです。
赤坂御所(現・迎賓館)の地下を通ることから、この名がつけられました。
毎年「防衛省・新宿区内の戦争遺跡見学会」の折に四ツ谷駅の特別のお計らいで「無料」でプラットホームに入場し、見学しています。
そのご挨拶で改修工事中の駅事務所をお訪ねしたのですが、駅員さん曰く「四ツ谷駅改修工事」が終わると、プラットホームから見えなくなります」
えっと思いました。
総武線の電車からもちらっと見えますが、「しっかりと」見たい方はお早めに。
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早速管理人は、東京メトロ四ッ谷駅に行き、駅員さんに聞いたところ、プラットホームに屋根カケの工事で壁もつくるのでトンネルが見えなくなるそうです。
これは大変と下記の陳情書を、東京地下鉄(株)、東日本旅客鉄道(株)の社長と新宿区長宛に発送しました。
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東京地下鉄株式会社
代表取締役社長 山村明義殿
2018年3月1日

東京都世田谷区千歳台
東京の戦争遺跡を歩く会主宰
新宿区議会議員待遇者会会員
長谷川順一

東京メトロ四ッ谷駅プラットホーム工事に関する陳情
陳情の要旨
東京メトロ四ッ谷駅プラットホーム工事を設計変更して、「旧御所トンネル」が見えるような「窓」を設置して下さい。
陳情の理由
新宿区発行の「新宿区平和マップ」A(四谷・神楽坂)コースのスタートはJR東日本・東京メトロ丸ノ内線・南北線四ッ谷駅の「旧御所トンネル」となっており、下記の説明文があります。
『丸の内線四ッ谷駅新宿方面行きホームの先端から見えます。明治20年代、甲武鉄道は新宿から東京中心部への線路延長を計画していました。ちょうどその頃、日本と清国(中国)が対立し(日清戦争)、青山練兵場(現・神宮外苑)から兵隊を大量に輸送する必要に迫られました。そのため、陸軍は御用用地の下にトンネルを掘る許可を取り付け、明治27年10月9日開通しました。現在もJR総武線下りで使用されています。』
現在、東京メトロ四ッ谷駅はエスカレーター設置、コンコース改修、プラットホーム屋根等の工事が進捗しておりますが、プラットホーム屋根と壁の設置工事が完成すると「旧御所トンネル」が見えなくなってしまいます。
よって、壁の設計を一部変更して「窓」を作って下さるよう陳情致します。
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東日本旅客鉄道株式会社
代表取締役社長 冨田哲郎殿

東京地下鉄株式会社代表取締役社長 山村明義殿宛に下記の陳情文を提出いたしましたので、御社からも同社に要請して頂くようお願い申し上げます。
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新宿区長 吉住健一殿

東京地下鉄株式会社代表取締役社長 山村明義殿宛に下記の陳情文を提出いたしましたので、新宿区からも同社に要請して頂くようお願い申し上げます。
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 >日本国有鉄道新宿駅発行「新宿駅100年のあゆみ」より<
(新宿区立新宿歴史博物館でコピーした)

 甲武鉄道は新宿一八王子間を開業させる以前から、東京の中央部へ線路を延長させ、東京西部との旅客輸送に新たな活動分野を求める独自の運輸構想を描いていた。
 その一環として、明治22年(1889)5月22日には、甲武鉄道線を神田区三崎町まで複線延長させる市街線の仮免許状下付を出願した。これは、市内の軍隊輸送を迅速円滑化したいという陸軍の要望がきっかけになっていた。陸軍はすでに、新宿と小石川の砲兵工廠との間に鉄道を敷設することを日本鉄道会社に諭示したという経緯があった。(注1)甲武鉄道会社の常議員雨宮敬次郎と検査役岩田作兵衛はこれを実現させようと、市街線建設を企画したのだった。
 同年7月13日に仮免許を得ると、すぐに測量にかかった。その後、諸般の事情からルートを変更する事態(注2)が生じたが、曲折のすえ、現在の中央線の位置に落ちつき、明治26年(1893)3月1日、市街線新宿一四ッ谷一飯田町間建設の免許状が下付され、7月から着工の運びとなった。
 線路は単線で、最急勾配は牛込一飯田町間の1000分の11・4であった。駅は信濃町、四ッ谷、市ヶ谷、牛込、飯田町に設けられ、明治27年(1894)10月9日、新宿一牛込間5・6キロキロ、翌2昨4月3日、牛込一飯田町間804㍍を開業した。そして当初の計画通り、同年12月30日に同区間を複線にした。
 当時、日本と清国の国際情勢は険悪な状態にあった。そのため軍部は、青山練兵場に軍用停車場を設け、甲武線と連絡して、西は広島、北は青森までの軍隊の直通輸送計画をたてていた。
 甲武鉄道会社は軍部の要請で、軍用停車場と軍用線の建設工事を委託されたが、工期を1カ月半と要求され、全力をあげてこれに当たった。その結果、市街線開通直前の9月17日に工事を完成させ、6日後から軍隊輸送を行った。この間、8月1日に日清戦争がぽっ発し、世相はいちだんときなくさくなった。

(注1)鉄道当局は、陸軍東京砲兵工廠で製造した小火器・弾薬類と陸軍三崎町練兵場で訓練した兵隊を外地に運ばせる目的もあって、飯田町四丁目の砲兵工廠付属生徒舎用地を始発駅に提供させた。大砲類の製造は大阪砲兵工廠であった。

平凡社刊「江戸東京大地図」より







市ヶ谷駅から四ッ谷駅へ向かって走る列車(後ろに見える建物は、市ヶ谷台の陸軍士官学校)


小石川後楽園内にある陸軍造兵廠東京工廠跡記念碑(敷地の形をしている)




砲兵工廠の土台基礎煉瓦(東京ドームホテルの後ろに展示されている)

(注2)甲武鉄道が仮免許出願した時のルートは、始発駅飯田町ー牛込駅ー市ヶ谷駅ー市谷本村町(陸軍士官学校前)ー市谷富久町ー三光町ー新宿駅だったが、陸軍の要請によって市ヶ谷駅ー四ッ谷駅ー信濃町駅ー代々木駅ー新宿駅のルートに変更した。このコースは畏れ多くも、青山御所の下にトンネルを掘らなければならないので、会社としては躊躇したが、陸軍が宮内省の許可を得るからと言われたのでトンネル工事をした。



管理人が作成した「鉄道と戦争の歴史」説明パネル。他には「横浜駅の変遷」・「品川西南線」・「宇品短絡線」がある。

鉄道博物館ライブラリー室の調査によると、牛込駅から信濃町駅まで四つのトンネルがあったが、複々線工事のため昭和3年(1928)には「御所トンネル」のみとなった。壊されたトンネルは「四番町トンネル」(現・新見附橋)、「三番町トンネル」(市ヶ谷駅)、四ッ谷トンネル(旧甲州街道)の三箇所である。






「新宿駅100年のあゆみ」にある写真は「四ッ谷トンネル」である。
四ッ谷トンネルの(東京方)の上部に取りつけてあったカブト<右>、(新宿方)の上部に取りつけてったカブト<左>(交通博物館蔵)写真提供は「コープみらい平和部会」会員の方より



迎賓館脇の坂を下り、みなみもと町公園手前を若葉2丁目鉄砲坂へ抜ける道の陸橋から、信濃町ー四ッ谷駅間の中央線上・下線と総武線上り線のコンクリート製トンネル、更に総武線下りの煉瓦造りの「旧御所トンネル」が見える。
日本の鉄道は狭軌レールであるが、あの狭い外濠の土手に線路を敷設したことを見ると、狭軌レールでなければ出来なかっただろうと感慨に耽っています。






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