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泉鏡花に因む新宿区と金沢市

2012年01月20日 | 金沢日誌

 新宿区市谷加賀町は江戸時代初期の第四代加賀藩主・前田光髙夫人(清泰院)の屋敷があったので、俗に加賀屋敷とよばれた。これが町名の由来である。

 先日、金沢市下新町にある泉鏡花旧居跡の記念館を見学したが、展示パネルに「鏡花は芸者すずと神楽町に住んでいた」と書かれていたので学芸員に詳しく尋ねた。

 15日に、老人ホームへ入居している母親の見舞いで上京した折りに、新宿区歴史博物館の学芸員から「牛込華街讀本」(1937年・牛込三業會発行【注】)を見せてもらい、鏡花に関連する部分のコピーをしてきた。

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 【注】芸者街でいう三業とは料理屋、待合、芸者置屋(芸妓屋)のことで、遊郭では貸座敷、娼妓、引手茶屋をいう。

 「牛込華街讀本」には芸者すずが身を置いていた芸妓屋「蔦永楽」は「神楽町三丁目二番地」であると書かれている。さらに『二丁目二十二番地に文豪泉鏡花先生がお引き移りになったのは【注】明治三十六年三月で、その五月數年相識(おしりあいの)伊藤すず女(じょ)と同棲せられたのも、先生と神楽坂といふ土地を結びつける因縁深いものがあったわけで、さてこそ「神楽坂の唄」をお作り下さったのも當然だといふことになります。尤も同年十月三十日「横寺町の先生」事恩師尾崎紅葉先生を喪くなされてからも、この土地を去り難くてに思われたのか、三十九年七月逗子に静養される迄神楽町にお在でになったのであります』との記述もある。 【注】南榎町二十二番地から転居した。

 この文献から、「婦系図」(おんなけいず)のお蔦の名前は「蔦永楽」に因むことがわかった。

新派『婦系図)』湯島境内の場』の中で、お蔦と主税の切ない別れの場面です。

「お蔦 」いい月ね。ああ、いい景色…ちょいとごらんなさいよ、この景色を。
「主税 」あゝ、なるほどねぇ。
「お蔦 」嫌だ、初めてでも気がついたようにさ、あなた今夜はよっぽどどうかしているのねぇ。
「主税」 どうかもしようよ、月は晴れても心は闇だ。
…………………………(中略)…………………………
「主税」 お蔦。
「お蔦 」あい?
「主税 」俺はお前に話がある。
「お蔦 」話なら家へ帰ってからだってできるわ。さ、帰りましょう。
「主税 」お蔦。
「お蔦 」なによう。
「主税 」俺はもう、死んだ気になってお前に話す。
「お蔦 」そんな冗談言ってないで、さあ。
「主税」 冗談じゃない。どうか俺と別れてくれ。
「お蔦 」別れる?……からかってないで、早くうちへ帰りましょうよ。
「主税 」そんな暢気な場合じゃない……本当なんだ。どうか俺と縁を切ってくれ。
「お蔦 」縁を切る?貴方気でも違ったんじゃないんですか。
「主税 」気が違えば結構だ。……俺は正気でいっているんだ。
「お蔦 」そう、正気でいうのなら、私も正気で返事をするわ。そんなことはね、いやなこってす。

…………………………(中略)…………………………
「主税 」お蔦、俺は決して薄情じゃない。誓ってお前を飽きゃァしない。
「お蔦 」また飽きられてたまるもんですか。切れるの、別れるのってそんなことはね、芸者の時にいうことよ。今の私には、死ねといって下さい。

 鏡花とすずが同棲してた神楽町二丁目二十二番地(現・神楽坂2-22)は東京理科大学のキャンパス内である。同大学は2011年3月25日に、北原白秋泉鏡花の旧居跡ととして記念石碑を建立してくれた。(近日中にその画像をアップしたい)

 管理人は、これら泉鏡花の史資料と新宿区無形文化財である「百人町鉄砲隊」のDVDを金沢市長公室に送った。新幹線金沢駅ー東京駅開業記念の「百万石まつり」で鉄砲隊種子島銃の演技が披露できるこを念願していることを添え書きした。

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