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「靖國」11月号に論説「御親拝の実現と防大生の行軍参拝の継続を」

2021年11月11日 | 歴史探訪<靖国神社>

「靖國」11月号に論説「御親拝の実現と防大生の行軍参拝の継続を」が掲載されましたので<文字起こし>をしました。

著者の軍事評論家柿谷勲夫氏は「徴兵制が日本を救う」、「自衛隊が国軍になる日」、「英霊に感謝し日本人の誇りを取り戻そう」等の著作があります。

衆議院選挙の結果、岸田内閣は自民・公明与党と日本維新と国民民主が憲法改悪で蠢動しているときに、この論考が果たす役割が見えてきました。

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御親拝の実現と防大生の行軍参拝の継続を

 数十年前から十一月下旬又は十一月初旬の日曜日の早朝、靖國神社の境内で三?五百名の防衛大学校学生の集団を見掛けます(但し、服装は、当初は終始「戦闘服」、ある時期から行軍は民生品の「体操服」、到着後は帰校用に借り切ったバスで運搬した「制服」)。
  彼等は靖國神社に参拝するため、前日の午後、防大(神奈川県横須賀市)を出発、約七十五キロメートルを夜間行軍して到着したもので、本行軍参拝は六十年前の昭和三土ハ年以来、毎年欠かさず行われており、今年も実施されれば六十一回目となります。
  防大の卒業生は年に四百数十名。それ故、卒業生は在校期間平均して一人一回参拝した勘定になり、自衛隊の幹部自衛官の三人に一人、高級幹部の大半は行軍参拝の経験者です。
  本報『靖國』以外で防大生の行軍参拝を報じる出版物はほとんどありません。それ故、国民の大多数はこの事実を知りません。
防大生参拝の動機
  朝日新聞は閣僚の参拝について「日本が過去への反省を忘れ、戦前の歴史を正当化しようとしていると受け取られても仕方あるまい。靖国神社には、先の戦争を指導し、東京裁判で責任を問われたA級戦犯14人が合祀されてもいる」(令和三年八月十七日付「社説」)などと批判しました。
  が、戦争とは国策の衝突の結果起きるもので、正義が勝って不正義が敗けるのではなく、強い方が勝って弱い方が敗けるのです。大東亜戦争の目的は自存衛と大東亜の新秩序の建設でした。自存自衛は達成出来ませんでしたが、アジア諸国は欧米の植民地から解放され独立、大東亜の新秩序の建設は達成しました。敗けたが故に勝者がわが国に主権がない占領下、〝東京裁判〟で戦争の全責任を押し付け、国の指導者に戦犯の烙印を押しました。
  国家は兵隊さんに「戦死すれば靖國神社に祀られ、天皇陛下からも拝んで戴ける」と約束しました。首相以下大臣が靖國神社に参拝するのは約束の順守で、朝日新聞の主張は国に対し、反論できない英霊との約束を破れとの極めて理不尽な要求です。
  戦死と災害死や通常の公務死との根本的違いは、戦死は戦時下に国の命令によって身の危険を顧みず任務を遂行中、貴い一命を捧げたことにあります。それ故、どこの国でも、戦死者に感謝と敬意を表するため国家元首以下が、戦死者が埋葬されている施設に参拝します。
  わが国は戦争には敗けましたが、昭和二十年八月十八日に東久邇宮稔彦王首相が御参拝、十一月に昭和天皇が御親拝、十月と十一月に幣原喜重郎首相が参拝、その後は占領軍の指示で参拝できませんでした。
  しかし、昭和二十六年にサンフランシスコ平和条約が調印されますと、条約発効前に吉田茂首相が、発効後は昭和天皇の御親拝、吉田、岸信介、池田勇人首相の参拝が続いていました。
  御親拝、首相の参拝が続く中、私たち第三大隊第四中隊第一小隊を中心とする学生十二名から防大生も英霊に感謝すべきだとの声が沸き上がりました。当時、二学年以上の外泊日は学校が定めた月に一度でした。昭和三十六年は大東亜戦争開戦二十年であり、開戦日に最も近い外泊日に士官候補生らしく靖國神社まで夜間行軍して参拝することを決めました。
  外泊には許可が必要です。外泊の目的は英霊に感謝、服装等は戦闘服(当時「作業服」と呼称)に銃携行(英霊に「捧げ銃」するため)、移動は往路徒歩、復路国電とする申請書を提出しました。が、なかなか許可が下りません。
  当時、自衛隊は「税金泥棒」などと言われましたが、自衛官が銃を携行して演習場などへの往復に公共の交通機関の利用や行軍は当たり前、自衛隊記念日の観閲式も自衛隊の駐屯地でなく明治神宮外苑の絵画館前、まして陛下が御親拝され、内閣総理大臣がする靖國神社に防大生が参拝しても問題がある筈がありません。
  にもかかわらず、許可が下りない理由は、銃を携行して戦闘服で真夜中に行軍すればクーデタと誤解され、マスコミから叩かれる。疲労から帰路国電に乗車すれば、居眠りして銃が盗まれたり紛失したりすることを危惧したのでしよう。
  再三にわたり要望する学生の熱意に大隊指導官桑江良逢二佐、小隊指導官・中平進ニー尉が同行することで許可されました。しかし、銃の携行は認められません。中平一尉にその理由を聞きますと、「君たちのような無鉄砲者は鉄砲なしだ」といなされました。
  当日は、横浜で大休止した辺りから警察のパトカーに尾行されました。皇居で万歳三唱し、靖國神社に到着しますと、防大の大型トラックが駐車していました。行軍で疲労した学生を公共の交通機関に乗車させないための学校当局の配慮でした。
  桑江二佐は私たちの卒業後、行軍参拝継続をされ、年々参加者が増大、学校の年中行事として定着したのです。小泉純一郎首相の参拝に反対していた五百簇頭眞氏や同首相が参拝した直後、朝日新聞で参拝を批判した国分良成氏が防大校長時代にも、行軍参拝は続きました。
  尚、桑江氏は首里出身、沖縄一中から広島陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校を卒業、陸軍大尉。陸上自衛隊では第一混成団長(那覇)などを歴任、陸将補。退官後、沖縄県議会議員を務められました。
御親拝、首相参拝は昭和まで
  防大生が行軍参拝を始めた後も、目覚ましく発展していた昭和時代、昭和天皇は昭和四十年(戦後二十年)の「秋季例大祭」、昭和四十四年の「御創立百年記念大祭」、昭和五十年十一月に御親拝され、首相の参拝は〝A級戦犯〟合祀(昭和五十三年)後も続きました。
   が、昭和六十年八月十五日、中曽根康弘首相が参拝しますと、敗戦後四十年、人級戦犯合祀後七年、何も言わなかった中国が突然、文句を言ってきました。中曽根氏は中国の内政干渉を甘受してその後の参拝を止め、御親拝は昭和五十年を最後に中断しています。
中曽根首相の参拝中止後、首相在任中に毎年参拝した首相は小泉純一郎氏だけ、申し訳程度に参拝した首相も宮澤喜一、橋本龍太郎、安倍晋三各首相のーニ氏だけです。
  宮澤首相は天皇御訪中直後の平成四年十一月、公用車を使わず私人の資格で参拝。総理に登りつめながらのこっそり参拝に戦死した学友に申し訳ないと思ったことでしよう。
  橋本首相は平成八年、自身の誕生日の七月二十九日に参拝しましたが、中国の抗議を受けるとその後の参拝を断念しました。その一方、平成九年九月訪中した際、天安門広場の「人民英雄記念碑」に献花し最敬礼しました。中国に恫喝の効果を確信させました。
  安倍首相は就任前に「中国に抗議されてやめるのか。極めて非常識な反日的行為に屈する形でやめるべきではない」「一国のリーダーは、国のために戦った人たちに祈りをささげる義務がある」と述べていましたが、首相としての参拝は平成二十五年の一回きりでした。
  「昨日の敵は今日の友」、アメリカ国民は戦後〝A級戦犯〟合祀後も含め高級将校、同夫人、民間人ら多数が昇殿参拝しています。
  先般、東京オリンピックのため来日したバイデン大統領夫人に、菅義SW相が四月訪米した際におけるワシントン郊外のアーリントン国立墓地参拝の見返りとして、靖國神社参拝を期待しましたが、しませんでした。日米同盟の深化が叫ばれる中、残念に思いました。
  しかし、頭を冷やして考えれば、日本の首相がしない靖國神社に大統領夫人の参拝を期待する方が、虫がいい話です。
御親拝実現、
行軍参拝の継続
  私たちが行軍参拝した当時は、行軍参拝の継続や首相の不参拝などは全く考えていませんでした。
  閣僚もかつては、ほぼ全員が参拝していましたが、逐次減少し、今回の自民党総裁選挙の立候補者で、閣僚時代、参拝したのは女性だけです。
  このような嘆かわしい状態であるが故、防大生は今後とも毅然として参拝し、日本人の誇りと矜恃を示してもらいたいと念願するものです。
 最後にわが国を真の主権国家にするため総理に要望があります。御親拝の実現です。(九月三十日記)

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