葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

パソコン大好き爺さんの日誌。mail:akebonobashi@jcom.home.ne.jp

陸軍二等兵鶴彬は軍法会議で裁かれ、衛戍監獄で水ぶろに(敵前逃亡其の六)

2014年06月13日 | 幸徳秋水・鶴彬

 石川県高松町生まれの反戦川柳作家鶴彬つるあきら(本名喜多一二)は1930(昭和5)年1月10日に第九師団第七聯隊に入隊しました。画像は旧第九師団第七聯隊跡地に所在する陸上自衛隊中部方面隊第14連隊金沢駐屯地。管理人の亡父は、1937(昭和12)年7月「盧溝橋事件」(盧溝橋事件は陸軍の謀略・私説)、8月「大山中尉殺害事件」(大山事件は海軍の謀略・定説)を契機に第二次上海事変が勃発し、第九師団第七聯隊第七輜重兵聯隊に応召して、9月から上海・蘇州・南京・徐州を転戦。二年間の兵役を終え帰還しました。

陸上自衛隊金沢駐屯地

(株)日本機関紙出版センター刊(1998年)「反戦川柳作家 鶴彬」深井一郎(金沢大学名誉教授)著には、鶴彬が陸軍第九師団に応召したが「第七聯隊赤化事件」によって逮捕され、軍法会議で懲役2年の判決を受け、大阪衛戍えいじゅ監獄に収監された様子が詳しく描かれています。以下その部分を抜粋します。

 (略)なお、この手紙による〝二年間逢へない″の文面は、当時、一般に壮丁として入隊する初年兵は二年間の兵役期間を済ませると、めでたく除隊するのが慣わしであった。もっとも戦局がきびしくなれば、直ちに召集される危険はあった。鶴彬も、世間の常識によって、二年の辛抱で娑婆に帰れると考えていたのである。

 〝高松町の人々は無産党が兵隊に入ったらどうなるだろう。何か一波乱おこすのではないだろうかと、心配やら期待のまじった気持ちでいい合っていた…″(丹羽又兵『鶴彬を偲ぶ』)
 昭和四年のメーデーに「ナップ」と染め抜いたハッピを着た青年団のリーダーであり、村の祭りでの「カベ川柳」の貼り出し、また図書館作り運動のリーダーなど、近在切っての理屈屋でもあった鶴彬を見る町民たちの偽りのない眼であったであろう。
 養父が入隊のために用意した紋付を、「天皇陛下は貧乏人に無理してまで着て来いとは言われない」と言って木綿の紺がすりを着流して営門をぐつたという。高松駅では「祝入営」と書いた幟が林立していたが、一本だけ長い赤旗のような布に「送同志」と書いたのが鶴彬の幟だつた。駅長が危険信号と見誤ると抗議したので、一応は降ろしたものの、汽車が出発するや、隊まで同行した彼の同志たちは、窓からこの幟をサッと流した。赤い幟は長くはためいて遠ざかっていった-と当時の人が語っている。

 1930(昭和五)年三月二五日の金沢『北國新聞』は、二二日の午前六時、日本労働組合全国協議会(全協)石川支部のキャップ蓮村時男が東京で逮捕されたことをつたえ、かれを首謀者とする軍隊赤化事件が、金澤第七聯隊内でおこなわれたことをほのめかして、静かな北陸の軍都金澤の市民を驚かした。
 年を越した昭和六年二月三日づけの同紙は、蓮村とともに名古屋新聞金沢支局の記者で、昭和三年六月に結成された全国無産者芸術団体連絡協議会(ナップ)の石川支部書記長小島源作がこの事件に関係し、さらに、かれが第七聯隊に昭和五年一月に入隊した二人の陸軍二等兵、角田通信および喜多一二とともに起訴され、すでに予審を終結し、有罪と決定したことをつたえ、おほろげながらこの事件の輪郭をようやくあきらかにした。
 このいわゆる「第七聯隊赤化事件」のその後の状況を新聞は、五月の公判の簡単な模様と、六月三二日の判決の模様を小さく伝えただけで、事件そのもののくわしい内容は、ついに報道されないまま終ってしまった。
 地元の『北國新聞』は、昭和六年五月一六日付で次の通り報じている。
   「軍隊の赤化を企てた 二兵卒の公判開かる」
    核心に入るに先立ち傍聴禁止
    けふの第九師團軍法会議-
 歩兵第七聯隊に赤化を企てた同聯隊第九中隊歩兵二等卒喜多一二(二三)同角田通信に係る治安維持法違反事件第一回公判は、十五日午前九時より、裁判官渡砲兵中佐、特にこの事件のため名古屋より赴任して來た坂口法務官係り、竹沢検察官立会の下に第九師團軍法会議で開廷されたが、宮行参謀長、前原旅団長、小林司令部附少将、河村聯隊区司令官等特別傍聴席につき、一般傍聴席には師団及び憲兵隊関係者、北川重吉民地十数名の労働組合有志にナッパ服の連中も交って、立錐の餘地なきまでにつめかけ物々しき光景を呈してゐた。
 定刻午前九時、先づ竹沢検察官は起訴事実を述べ終って、喜多一二の事実審理に移り、被告は十八才の時から郷里石川県河北郡高松町を出奔し東京、大阪各地を轉々して街のルンペンとして苦闘をつゞけ、つひに労働運動に入った径路を慎重に取調べたが、被告は過去九ケ月の獄中生活に疲労の色もなく、歯ぎれのよい東京辯ですらすらとこれに答へ、時には、「疲れたから休ませてくれ」と裁判長に要求して、居ならぶ厳しい軍人連を驚かせた。
 同十時四十分取調は事件の核心にふれんとするや、突如、裁判長は安寧秩序をみだし軍隊の發達を阻害するおそれありとし、一般の傍聴を禁止する旨宣言し、これに対して谷村弁護士より北川重吉民地無産闘士の特別傍聴の申請があったが、結局、養父喜多徳次郎一名が許可され一同退廷した。
続いて『北國新聞』五月十六日付には、
  「午後も引続き 公開禁止で審理」 (二段抜き見出し)
 -今日は朝八時半から開く 歩七の赤化事件の公判-
 軍隊の赤化を企てた歩兵第七聯隊第九中隊歩兵二等卒喜多一二(二三)同角田通信(二三)に係る治安維持法違反事件公判は、十五日午後一時より第九師團軍法会議で再開されたが、午前に引続いて傍聴禁止裡に喜多及び角田の取調をなし、渡裁判官以下各判士の被告に対する質問あり、同三時三五分より半時間休憩の後、両被告の証據調べに移り、東京より来澤した労働黨顧問神道辯護士代理、谷村辯護士および益谷辯護士より意見の開陳あり午後七時閉廷した。なほ今十六日は午前八時から続行する。
と記されている。
 続いて『北國新聞』五月十七日付には、
     「赤化宣伝の二兵卒へ求刑」 (一段見出し)
     -二年半と一年-
  歩兵第七聯隊の赤化事件公判は、十六日午前八時半より引続き一般傍聴禁止裡に開廷されたが、竹沢検察官より被告喜多一二に対し懲役二年六ケ月、角田通信に一ケ年の求刑あり谷村、益谷両辯護士の辯論あって正午閉廷した。判決言ひ渡し日は未定である、と記されている。
 実は、事件の真相はつぎのようなものであった。
 昭和五年(一九三〇)一月一〇日に入営した喜多二等兵が、六月から八月にかけて、日本共産青年同盟の機関紙『無産青年』数部を、数回にわたって秘かに隊内にもち込み、外部のナップ、全協のメンバーらと連絡をとりつつ、軍隊内で読者を獲得しようとして、当時、全協傘下の小さな金属工場の労働者出身の同年兵角田通信に接近した、というものであった。
 翌昭和六年六月一三日づけで、第九師団軍法会議は、角田については、「素行善良改俊ノ情顕著」で、「思想方面トハ一切関係ヲ絶チ軍務二精励シ、除隊後ハ善良ナル國民卜為り忠孝ヲ本分トスヘキ旨ノ自供」をみとめて懲役一年(執行猶予二年)の判決を行ったが、喜多一二の方は、「天皇ノ統率シ給フ軍隊ヲ資本家地主ノ利ヲ図ル為ノ道具卜看倣シ又無産階級出身兵卒二対シ階級意識卜反軍思想ヲ扶植シ……」また、「日本共産黨及日本共産青年同盟ヲ支持シ之力拡大強化ヲ企図シ居クリトノ点二付 同人ノ当公廷二於テ右ノ点ノ殆ンド關心ナカリシ旨ヲ辯疏スルトモ……自分ハ日本共産黨及ビ日本共産青年同盟ガ擴大強化スルハ良イト思ヒ居クル旨……日本モロシアノ如キ国ニナレカシト恩フ心アリクルガ故二自分ノ手筈ノ中ニ「労働者農民政府樹立萬歳」「ソビュート政府・日本共産黨萬歳」等ノ文句ヲ記載シタリ……」の理由をもって治安維持法違反で、ほとんど求刑どおりの懲役二年(未決通算一五〇日)の判決を行い、喜多は大阪衛成監獄に送られた。

(略)
 除隊の時、班長が、「四年も軍隊にいて、星一つで家に帰るのは恥かしいだろう。もう少しまじめだったら何とかしてやれたのに」と言った。おれは、「軍隊の階級というのは天皇が決めると思っていた、天皇のために働かなかったから星一つで当然だと思っていた、ところが、おまえなどが何とか出来るものならこのままでは納得できん、人事係と一緒に聯隊長の所までいって談判する一といってやった。それで班長も人事係の下士官も大変な目にあったそうだ。

(略)

 ほとんどおとろえを見せていない精神力や、機をとらえて鋭敏にはたらく着想は、依然喜多一二のものである。
 しかし、一方では七聯隊の衛成拘禁所(通称、重営倉)当時、一日中壁にむかって正座させられたと言い、大阪衛成監獄での水風呂がひどかった、と洩らしていた彼である。

(略)1937(昭和12)年

 深川日本橋の霊岸橋近くにあった木材通信社の事務所へ、十二月三日朝出勤してきた鶴彬は、待ち伏せた特高警察により逮捕され、警視庁に連行され、その日のうちに野方署に拘留された。
 いわゆる『川柳人』弾圧事件である。
これと同時に、『川柳人』同人たちが、全国各地で逮捕留置され、あるいは取調べを受けた。

(略)

 野方警察署での鶴彬のようすについて、平林たい子の『砂漠の花』の中に一部の描写が記されている。
 留置中に病に罷った鶴彬は、豊多摩病院へ監視付きのまま入院する。
 八月二十五日付の書簡には、
 〝啓、赤痢を得て表キへ入院してゐます。昨暮十二月三日以来漸く得た解放です。″と記している。続いて八月二十九日付のそれは、〝発病以来、重湯と林檎の汁で細々と命をつなぐのみです。いづれお礼は全快の上で親しく御拝眉の上で〟
とある。これが、鶴彬の絶筆となった。

【注】淀橋区柏木町(現新宿区北新宿4丁目)にあった東京府立豊多摩病院付近の公園に鶴彬の顕彰碑を建立する運動が始まっています。問い合わせは治安維持法犠牲者国家賠償請求同盟(略・国賠同盟)新宿支部・阿部俊雄(電話:090-2724-5583)

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 明治元年「軍防裁判所」ヲ設... | トップ | この高校生たちは「海外で殺... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

幸徳秋水・鶴彬」カテゴリの最新記事