〈蘆花大連に到着〉
作家永井荷風は牛込区市谷富久町市谷刑務所の北東にある余丁町に住んでいましたが、塩町(現四谷三丁目)から市電に乗って三田の慶応義塾大学に通勤する道すがら、大逆事件で幸徳秋水らが収監されていた市ヶ谷刑務所から霞ヶ関の裁判所へ向かう囚人馬車を見ていたことを小説「花火」「監獄署の裏」に書いているのを読んでいました。
世田谷区に転居し、近くの都立蘆花恒春園内の蘆花記念館の展示パネルで、徳冨蘆花が、明治天皇に幸徳秋水の助命嘆願書を出したことを初めて知り、蘆花という作家に大変興味を持ちました。さらに蘆花が旅順の小学校教師から「安重根の書」を寄贈されたものが展示されています。
蘆花が旅順へ旅行したのは、トルストイに会った後、シベリア鉄道での帰路に立ち寄ったのかどうかを世田谷区立粕谷図書館と世田谷文学館に尋ねましたが分かりませんでした。
ネット古書籍店で購入した『近代愛媛の新群像 愛媛大学蔵「世紀堂の世界」』から蘆花の作品「死の蔭に」を知りましたので粕谷図書館から借りてきて読み始めました。
大正2(1913)年9月から11月まで妻愛子、養女鶴子、小笠原琴子と四人で木曽路から伊勢、九州へ、そして南満州(中国東北部)の大連、海城、奉天(瀋陽)、朝鮮の平壌、京城と旅行をしています。
蘆花が大連、旅順、海城、奉天(瀋陽)で何を見たのか、そして何を感じたのかをこれから調べていきたいと思います。
「死の蔭の旅概略図」中野好夫著・筑摩書房刊「蘆花徳冨健次郎第三部」より引用
徳冨蘆花集第12巻大江書房復刻版「死の蔭に」から
356P「嘉義丸は大連大埠頭(はしけ)にやおら横づけになった」
358P「煙に捲かれ気味に歩いて居る内、ヤマトホテルの馬車が待つ處に來た。」
360P「日本橋を渡り、児玉町を過ぎ、滿鐵經營のヤマトホテルに威勢よく乘り込んだ。」(これは蘆花の記憶違いと思われる。児玉町と乃木町は埠頭がある町であるので、「児玉町を過ぎ、日本橋を渡り」となるであろう。)
①大連埠頭(ヤマトホテル馬車部の文字も見える)②児玉町(大山通や乃木町の文字が見える。大連と旅順は日本の租借地後、町名を軍人や軍艦の名前にしたところが多い)③日本橋(橋を渡る手前に、現在観光名所のロシア人街がある。近くに映画監督山田洋一氏が住んでいた三階建ての自宅が残っており、中国人家族が生活をしている。下の写真)
③日本橋
④大連ヤマトホテル
大連広場(正面は正金銀行)
正金銀行大連支店