葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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青山軍用停車場は明治天皇霊柩列車の青山仮停車場で終焉

2021年07月14日 | 歴史探訪<赤坂・青山・原宿・四谷>

明治天皇(めいじてんのう、1852年11月3日嘉永5年9月22日〉- 1912年明治45年/大正元年〉7月30日[1])明治天皇の御霊を祀る神社を東京に創建することとなり、関東一円の複数の候補地からの選定の上で、大正9年(1920年)、明治神宮が東京に鎮座した。また、神宮外苑には聖徳記念絵画館葬場殿の址地)をはじめ、各種の文化・体育施設が建てられ、神社のほかに立案されていた記念事業の少なくない部分を引き継いでいた。現在のJR信濃町駅と千駄ヶ谷駅間の中央快速・総武線の線路南側にあった青山練兵場(現在の神宮外苑)と線路北側の輜重兵大隊(現在の慶応大学病院と新宿区立第四小学校)のための軍用駅として、「青山軍用停車場」を敷設した。これとほぼ同時に甲武鉄道市街線(新宿駅 ⇔飯田町駅間)の工事も行い、1894年(明治27年)に路線が開業した。千駄ヶ谷駅の開業はその10年後である。(大正天皇大喪の礼が新宿御苑で行われた際、千駄ヶ谷仮停車場が開業。駅舎はJR高尾駅に移設。)この軍用停車場跡は英照皇太后および明治天皇の大喪の礼の際に2度にわたり、「青山仮停車場」として霊柩列車を京都の桃山駅へ奉送運行する際に使用されている。

1894年(明治27年)  9月23日:新宿駅⇔ 青山軍用停車場間が開業(青山軍用停車場の開設)。
          10月  9日:新宿駅⇔ 飯田町駅間が開業(甲武鉄道市街線の開業)。
1895年(明治28年)12月30日:新宿駅⇔飯田町駅間が複線化。
1896年(明治29年)  9月25日:青山軍用停車場の廃止。
1897年(明治30年)  2月  2日:新宿駅⇔ 青山仮停車場(初代)間が開業。英照皇太后の大喪の霊柩列車の始発駅として1日限りの営業(翌3日廃止)。
1912年(大正元年)  9月13日:青山仮停車場(2代目)間が開業。青山葬場殿で行われた明治天皇の大喪の礼の際の霊柩列車の始発駅として2日間の営業(翌々15日廃止)。

明治天皇一年祭を機に発足した明治神宮と聖徳記念絵画館の造営は、1915年(大正4年)に着工した。しかし、第一次世界大戦がはじまり、その影響で物価・賃金が急騰し、造営予算に支障をきたした。そこで明治神宮造営局造営課長の発案で全国各地の青年団が上京し、労力奉仕という形でこれに協力した。工事の際、工事材料の搬入のため、鉄道院に対し千駄ヶ谷駅より外苑に分岐する鉄道引込線の敷設を交渉し、青山軍用鉄道と青山軍用停車場跡の敷地を利用して、1919年(大正8年)10月に軌道延長1045メートルが完了。「造営局千駄ヶ谷側線」と呼ばれた。

甲武鉄道市街線紀要」(国会図書館デジタルコレクション)

『甲武鉄道市街線紀要』には、青山軍用停車場について次のような記述がある。『七月二十七日工兵方面本署ヨリーケ月半ノ日限ヲ以テ青山軍用停車場ヲ建設スへキノ委嘱ヲ受ケタリ是ヨリ先キ青山練兵場二軍用停車場ヲ置キ甲武線二聯絡スルトキハ西廣島二達スへク東靑森二通スルヲ以テ陸軍省及參謀本部二於テ屢々本社ノ技術部二調査ヲ委托セヲレタリ征淸ノ大擧ハ俄然此工事ノ速成ヲ要セラレシヲ以テ本社ハ全カヲ茲二注キ畫夜業務二從事シ九月十七日ヲ以テ殆ント四哩二至レル軍用停車場ヲ竣成セリ同月二十三日ヨリ軍隊輸送ヲ開始セラレ夫ノ世界戰史上二威名赫々タル旅順ノ第一師團威海衞ノ第二師團臺灣ノ近衞師團ハ實二此ノ軍用停車場二賴リテ派遣セラレタリ二十八年五月ヨリ六月二到ル凱旋軍隊二亦實二此軍用停車場二賴レリ新線創業者ノ希望茲二至リ達シテ尙ホ餘リアリト謂ツへシ媾和成ルノ後課僚西山瀨沼杉山ノ三氏及余等二十七八年ノ戰功チ賞セランシモノ茲二起因スヲ知ル是レ本社ノ最モ光榮トスル所ナリ軍隊ノ輸送略ホ結了シ本社線復タ運輪遮斷ノ惧ナキヲ知リ十月九日新宿牛込間ノ營業ヲ開始セリ』

【現代訳文】『七月二十七日工兵方面本署よりーケ月半の日限を以て、青山軍用停車場ヲ建設すべきの委嘱を受けたり。是より先、青山練兵場に軍用停車場を置き甲武線に連絡するときは西広島に達すべく東靑森に通ずるを以て、陸軍省及參謀本部に於てしばしば本社の技術部に調査を委託せられたり。征淸(清国征服)の大挙は俄然此の工事の速成を要せられたりを以て本社は全カをここに注ぎ、昼夜業務に從事し、九月十七日を以て殆んど四哩に至れる軍用停車場を竣成せり。同月二十三日より軍隊輸送を開始せられその世界戦史上に威名赫々(かくかく)たる旅順の第一師団、威海衞の第二師団、台湾の近衞師団は、実にこの軍用停車場に賴りて派遣せられたり。明治二十八年五月より六月に到る凱旋軍隊に又、実にこの軍用停車場に賴れり。新線創業者の希望ここに至り達して尙余りありといいべし。講和条約成るの後、課僚西山、瀨沼、杉山の三氏及他ら二十七・八年(日清戦争)の戦功を賞せらんしもの、ここに起因するを知る。是れ本社の最も光栄とする所なり。軍隊の輸送路を結了し本社線復活と運輪遮斷のおそれなきを知り、十月九日新宿牛込間の営業を開始せり』

乗車する麻布歩兵第三連隊の将兵

 

大番町陸橋図(煉瓦造り)

玉川分水(新宿御苑内の湧水と玉川上水大木戸の余水は、渋谷川となる)に架けた橋梁。

現在の大番町跨線橋は、1927年(昭和2年)にこの区間が複々線化された際に完成した構造物で、甲武鉄道時代の構造物ではないと「土木学会関東支部」から回答があった。

(了)

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