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「永続敗戦論 戦後日本の核心」<領土問題> VOLⅡ 千島問題「ダレスの恫喝」

2024年09月13日 | 海底電線・領土問題

 第二章 「戦後の終わり」を告げるものー対外関係の諾問題


北方領土問題(前略)

 しかし、ここにおいて、世に言う「ダレスの桐喝」が行なわれる。すなわち、当時の米国務長官、ジョン・フォスター・ダレスが、鳩山(一郎首相)に先立ってソ連と交渉していた重光葵外相(当時)に向かって、「この条件に基づいて日ソ平和条約締結へと突き進むのならば、米国は沖縄を永久に返さないぞ」という主旨の発言を行ない、介入したのである。その論理は、日本はサンフランンスコ講和条約において千島列島をすでに放棄している以上、自ら領有していないもの(具体的 には、択捉島と国後島)を米国の許可なく他国に譲ることはできないものであった 。
 これはまことに恐るべき強弁にほかならなかった。サンフランシスコ講和条約においてほかならぬ米国が千島列島の放棄を日本に強いておきながら、後になってその放棄を盾にとって「お前の持っていないものを他人に譲ることはできない」と迫ったのである。このようなダレスの強硬な介入の意図は、有馬哲夫の整理によれば、次の二点にある。すなわち、「(一)北方領土問題が日ソ間で解決することを妨げ、日本人の非難の目がアメリカの沖縄占領に向かないようにする。(二)日本にソ連に対する強い敵意を持ち続けさせ、日本がソ連の友好国になったり、または中立政策をとったりすることなく、同盟国としてアメリカの側にとどまらせる」ことが、ダレスの意図であった。ダレスの行為は、まさに 「恫喝」と呼ばれるにふさわしいものであった。 
日米関係史研究者のマイケル・シャラーによれば、「何とか妥協点を見出そうとする重光の努力をはねつけ、ダレスは 「ソ連が全千島を手に入れるなら、アメリカは永久に沖縄に居座ることになるだろう。そうなれば、どんな日本政府も存続できないだろう」と断言した」。 
 かくして日本は、「沖縄をとるか、北方領土をとるか」という苦しい選択を迫られた。正確を期して言えば、日ソ共同宣言の線で平和条約締結に進むならば、返還されるのは歯舞・色丹の二島にすぎないのであるから、沖縄をとるか歯舞・色丹をとるかという選択である。その規模や人口の違いを考慮すれば、沖縄が優先されたのは必然的な選択であった。同時に、このどちらの島をとるのかという選択は、冷戦構造の世界における同盟者(というよりも宗主国)として米国をとるのかソ連をとるのかという選択でもあったが、戦後の日本人の大部分にとって前者をとることは自明であった。してみれば、北方領土問題は、まさに解決されないことが好都合な問題にほかならなくなった。サンフランシスコ講和条約から日ソ共同宣言に至る過程、そこで合意された内容を見れば、「四島を返還せよ」という日本側の主張は明白に無理筋であり、これに対してソ連が妥協する可能性は限りなく低かった。つまり、日本としては、相手方が絶対に呑むはずのない要求を突きつけ続けることによって、友好関係の樹立を常に頓挫させることが、事実上目指されてきたのである。そしてそれは、実際によく機能してきた。 
 しかし、言うまでもなく、ソ連崩壊、冷戦構造の崩壊によって、状況は根本的に変わった。ロシアを仮想敵国として名指し続ける必然性は消滅した。問題は、それにもかかわらず日本の対露外交方針が基本的に変わっていない、ということである。そこに見出されるのは、「ダレスの桐喝」を受けて当時の日本政府が余儀なくこしらえあげた無理な論理に、もはやその必然性がないにもかかわらずひたすら固執し続け、挙句自縄自縛に陥っている哀れな姿である。そして、ダレスでさえも予想できなかったことには、沖縄に米国(軍)が居座り続けているにもかかわらず、恫喝された者たちの後継者たちは、依然として日本政府を構成している。 
 外務省は、日本がサンフランシスコ講和条約において千島列島の放棄を宣言しているにもかかわらずソ連・ロシアに対してその一部の返還を要求してきたことの矛盾を整合させるために、「千島列島」が指す範囲を常識とは異なるものにする、という屈理屈じみた手管を弄してきた。 
すなわち、「南千島」とも呼ばれる択捉・国後の二島は「千島列島」に属さない、という見解である。外務省は現在、次のような公式見解を発表している。 


 平和条約そのものは千島列島の地理的範囲をはっきりと定めていませんが、我が国の立場は十分明らかにされています。平和条約にいう「千島列島」には、日本固有の領土である歯舞群島、色丹島及び国後、択捉両島は含まれないとの解釈は、我が国を拘束するいかなる国際合意とも矛盾しません。 
 日本政府も国会審議などで、国後、択捉両島は日本固有の領土であって、サンフランシスコ平和条約で放棄した「千島列島」には含まれないという見解を繰り返し明らかにしてきています。 


 ここには、指摘されるべき問題がいくつもある。まず第一に、すでに述べたように、「平和条約にいう「千島列島」には、日本固有の領土である歯舞群島、色丹島及び国後、択捉両島は含まれないとの解釈」は、詭弁的である。歯舞・色丹に関しては、これらが千島列島に含まれないという見解を吉田茂が首相在任時に打ち出しており、説得性はそれなりにある。これに対し、「国後.択捉は千島列島ではない」という見解は、後ほど見るように、常識に逆らうかたちでつくられた政治的こじつけにほかならない。 
 次に、「日本固有の領土」という日本の領土問題で必ず用いられるマジックワードがここでも使われている。「固有の領土」なる概念は、日本政府が領土問題についての基本見解を述べるに際して多用されるにもかかわらず外務省はこれを定義しておらず、また国際法的にも定義づけられないので、ほとんど意味不明であるのだが、外務省の用法を見る限り、「戦後日本が原則的な政治的正当性を伴って領有を主張できる領土」という程度のことを意味していると思われる。そうであるとして、この論理に固執するのであれば、なにも択捉島までを「日本固有の領土」とする合理的理由は全く見当たらない。戦後の対日処理の大原則に従って、千島列島の全島、その北東端、占守島に至るまでの領有権を主張してこそ筋が通るはずであるが、外務省がそのような主張を展開した事実はない。ここから了解されるのは、「固有の領土」概念は、確たる原則に基づいた主張ではなく、これまでの対米無限従属的外交方針を永続化させるための、無原則な御都合主義を正当化するための方便にすぎない、ということである。 
 そして最後に、「日本政府も国会審議などで、国後、択捉両島は日本固有の領土であって、サンフランシスコ平和条約で放棄した「千島列島」には含まれないという見解を繰り返し明らかにしてきています」、という記述は明白に虚偽である。確かに、「ダレスの恫喝」が生じる(一九五六年八月一九日)前後から、外務省筋から米国の意向を察するかたちで「択捉・国後は千島列島に含まれず」という見解が出されている。だが、それ以前のサンフランシスコ講和条約の国内承認プロセスにおいては、西村熊雄条約局長『(当時)が一九五一年一〇月一九日の国会答弁において「条約にある千島の範囲については北千島、南千島両方を含むと考えております」と発言、またその一週間後の二六日の国会では、日米安全保障条約特別委員長であった田中萬逸が「遺憾ながら条約第二条によって明らかに千島、樺太の主権を放棄した以上、これらに対しては何らの権限もなくなるわけであって、国際司法裁判所に提訴する道は存しておらない。またクリル・アイランドの範囲は、いわゆる北千島、南千島を含むものである」、と述べているのである。これらの経緯から見えてくるのは、サンフランシスコ講和条約締結当初の政府は、日本がすべての千島列島を放棄したとの立場を明確にとっていたにもかかわらず、その後立場を変更し、さらにその変更を隠蔽して国民を欺き続けている、ということにほかならない。 
 ソ連が崩壊し新生ロシアとなってからも、 ロシア政府は 「日ソ共同宣言が領土交渉の基礎となる」旨を繰り返し表明し、 一九九三年の「東京宣言」をはじめとして日本もこの原則に対する同意を与えている。それにもかかわらず、歯舞・色丹以上のものを要求し続けるという態度は、駄々っ子同然のそれであると言うほかない。問題は、この当然の道理を日本国民の大半が理解できておらず、駄々っ子の主張を自明的に正当な要求と思いなしている、という異様な状況である。見てきたことから明らかなように、この要求を貫徹するためには、究極的には、千島列島の放棄を約したサンフランシスコ講和条約を否定・破棄しなければならない。しかし、日本社会はそれを直視しようとはしない。ここに「敗戦の否認」がある。 
 それでもなお、法律や外交文書に関する談義とは別に、千島列島に関する戦後処理は正道を外れており、日ソ共同宣言は日本の窮状につけ込んだ苛酷で正義を欠いたものであった、という日本国民の感情を拭い去るのはむずかしいかもしれない。無論、ソ連の対日参戦から日ソ共同宣言に至るまでの行為には、道義的に非難されるべき事柄が多々ある。しかしながら、多くの日本人が見落としているのは、こうした横暴は、ソ連にとっては、日本のシベリア出兵(一九一八~二二年)に対する報復の要素を持っていた、という事情である。日本が総数で七万人以上の兵力を投入したこの軍事行動は、歴然たる内政干渉であった。その後の一九二五年に日ソ基本条約が結ばれ、国交が樹立されるが、その際シベリア出兵に対する賠償は一切行なわれず、またこのときの軍事行動によって日本が獲得した北樺太の石油利権は保護されることが確認された。これは要するに、いまだ革命と干渉戦争・内戦のつめ跡から立ち直っていないソ連の窮状につけ込むかたちで、日本にとって有利な条件を相手方に呑ませた、ということにほかならない。 
 このように、国家の行動というレベルで日ソ両国の行なってきたことを振り返るならば、「どっちもロクでもない」としか論評の仕様がない。一般的に言って、国家の振りかざす「正義」なるものが高々この程度のものであることは、何度でも肝に銘じられるべきである。問題は、自国の行動や主張に限っては無条件的な正義と一致しうると考える幼稚な心性を清算すること(それは日本に限られた課題ではないが)であるが、「敗戦の否認」が続けられている限り、この課題が達せられる見込みは決して立たないであろう。(後略)

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この記事を書くにあたって、志位和夫著「領土問題をどう解決するか 尖閣、竹島、千島」には「ダレスの恫喝」が触れられていない。何故なのかと日本共産党国際委員会に質問しましたが、よく分からないので「情報提供」としますとの回答でした。

<参考資料>

産経新聞2021年4月6日『2度あった「ダレスの恫喝」 岡部伸

ウィキペディア「ダレスの恫喝」

豊下楢彦著・岩波現代文庫「尖閣問題とは何か」104~106P

(了)

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