宋(そう、420年 - 479年)は、中国南北朝時代の南朝の王朝。
周代の諸侯国の宋や趙匡胤が建てた宋などと区別するために、帝室の姓を冠し劉宋(りゅうそう)とも呼ばれる。首都は建康(現在の南京)。
420年 - 479年
新しい皇帝には実弟の順帝が擁立されたが、幼少の事もあり実権は蕭道成が握った。479年、順帝は蕭道成に禅譲し、蕭道成は斉王朝を開き、ここに宋は滅亡した。なお、同族相食む中で滅亡した宋であるが、順帝は禅譲後に殺される直前、「2度と王家に生まれたくない」と述べたとまで伝わる[16][20]。
国家体制[編集]
外交[編集]
対外的には、北涼・吐谷渾・北燕・高句麗を冊封下に置き、北方の柔然とも結んで、華北で有力だった北魏に対抗した(ただし、吐谷渾と高句麗は北魏からも冊封を受けた)。
倭の五王による南朝への入貢の大半は宋の時代におけるものである。また、北燕や後仇池など華北の小国を冊封下に置き、それぞれ爵位を与えて北魏と対抗させた。
倭の五王の遣使[編集]
5世紀に倭国(日本列島)の王のうち5人が相次いで南朝に使者を派遣して朝貢した。この5人の王を倭の五王という。倭の五王の遣使は413年から477年までに少なくとも9回が確認されるが、このうち413年の倭王讃による遣使は東晋に対してであるが、421年から477年までの倭王讃、倭王珍、倭王済、倭王興、倭王武の遣使はいずれも宋に対するものである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B_(%E5%8D%97%E6%9C%9D)
東晋(とうしん、拼音: Dōngjìn)は、中国の西晋王朝が劉淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である(317年 - 420年)。西晋に対し史書では東晋と呼んで区別する。
396年 - 418年安帝 姓名司馬徳宗
418年 - 420年恭帝 姓名司馬徳宗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%99%8B
420年 - 422年武帝 姓名劉裕
422年 - 424年少帝 姓名劉義符
424年 - 453年文帝 姓名劉義隆
453年 (元凶劭)姓名劉劭
453年 - 464年孝武帝 姓名劉駿
464年 - 465年前廃帝 姓名劉子業
465年 - 472年明帝 姓名劉
472年 - 476年後廃帝 姓名劉
476年 - 479年順帝 姓名劉準
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B_(%E5%8D%97%E6%9C%9D)