アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

3万両に対しての印紙代は?? 9万両なんで じゃいくら

2015-06-23 19:58:01 | 日記

http://encyclopedia.aceplanning.com/15.htm





金一両は元来一両(大宝律令では小両、延喜式以降は10匁)の質量の砂金という意味であったが、次第に質量と額面が乖離するようになり鎌倉時代には金一両は5匁、銀は4.3匁となり、鎌倉時代後期には金一両が4.5から4.8匁へと変化している。文明16年(1484年)、室町幕府により京目一両は4.5匁(約16.8グラム)と公定され、安土桃山時代すなわち元亀、天正年間には、京目一両は4匁4分 (約16.4グラム)と変更され、京目以外の基準は田舎目と呼ばれた[1]。甲州金は田舎目一両すなわち4匁(約14.9グラム)を基準としてつくられ、この通貨単位が江戸時代の小判の額面1両の基となった。甲州金の通貨単位は「1両=4分=16朱=64糸目」という四進法の単位系であった。これが江戸幕府に継承され、江戸時代の通貨の基軸となった。
金拾両(じゅうりょう、44匁)は一裹(つつみ)あるいは一枚と呼ばれ、後に大判の量目(質量)の基準となり、銀拾両(43匁)は同じく一裹あるいは一枚と呼ばれ、後に丁銀の量目の基準となった[11]。このような「枚」という単位は中世から江戸時代にかけて、主に恩賞および贈答用の通貨単位として用いられた。
慶長小判の質量は京目一両の金4.4匁に銀0.82匁を加え、金座の鋳造手数料0.44匁および吹減分0.02匁を引いて4.76匁と決められたとされる[1]。しかしその後、改鋳により含有率、質・量とも劣る小判が発行される様になり、質量単位としての両と通貨単位としての両の乖離は拡大することとなった。
「両替」という言葉は、近世初期に金吹屋あるいは銀吹屋において砂金あるいは練金を引取り鑑定し、秤量貨幣としての灰吹銀と交換した、いわゆる南鐐替(なんりょうがえ)が変化したものであり、また金と銀の量目替(両目替、りょうめがえ)に由来する[7]。また両替商で一両小判を秤量銀貨や銭貨に換(替)えたとする説もある[12]。
天正年間の1両は米4石、永樂銭1貫文、鐚銭4貫文とほぼ等価であった。
江戸時代、金貨・銀貨・銭貨の為替レートは日々変動していた。一方江戸幕府は御定相場として慶長14年(1609年)に、金1両は、銀50匁(約187グラム)、銭4貫文(4,000文)に等価と布告し、後の元禄13年(1700年)に、金1両は、銀60匁(約225グラム)、銭4貫文と改正したが、幕府は相場が行き過ぎた場合のみ介入し、普段は市場経済に委ねていた[1]。
また、貨幣吹替および飢饉の影響などによる変動はあったものの、米1石(当時の人一人の一年分の米消費量にほぼ相当する)の価格は1両前後であり、元禄年間から幕末の世情不安に至る前まで、ほぼこの前後の水準で推移した。
1両が現在の貨幣価値に換算したらどの程度になるかは諸説ある。相対的な価値は慶長期と急激な下落を見た幕末期では概ね一桁以上は異なる上に、生活様式が現在と全く異なるため物価基準であるか賃金基準であるかにより、さらに物価も品目により大きく異なる。中学校歴史教科書では「小判1両は、江戸時代初めには今の10万円ほどの価値があったが、幕末には3,000円-4,000円程度まで価値が下がってしまった」と記述しているものがある(五味文彦・高橋進・斎藤功ほか45名『新編新しい社会 歴史』東京書籍、2009年)。 日本銀行金融研究所貨幣博物館のサイトによると、元文期を基準として賃金で1両=30~40万円、そば代金では1両=12~13万円、米量価では1両=約4万円、に相当するとの事である[13]。 また、現在のように成人者で合法な売買ならば、誰でも自由にお金が使えたわけではない。身分とセットで考える必要もあるため、現在への換算は難しいのである。
1871年6月27日、新貨条例が公布され、『両』にかわって『円』が用いられるようになった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« まだまだだね | トップ | 9万両詐欺られて黙っていられ... »
最新の画像もっと見る