アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

阿波の国 ようやく縁のキーワードが出てきた。菅公のひいじいさんがいたとこだ そこ。

2015-08-09 21:12:34 | 日記

阿波踊り 徳島 三好町


あたしと縁が出てきたよーだ。


阿波国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。




◎菅公のひいじいさん↓



菅原 古人(すがわら の ふるひと、天平勝宝2年(750年) - 弘仁10年1月10日(819年2月8日))は、奈良時代から平安時代にかけての貴族。氏姓は土師宿禰、のち菅原宿禰、菅原朝臣。阿波守・土師宇庭の子。官位は従五位下・遠江介。秋篠安人を弟とする説もある。

経歴[編集]

宝亀10年(779年)外従五位下、天応元年(781年)6月従五位下に叙せられる。同月、古人・道長ら一族15名が居住地である大和国添下郡菅原邑にちなんで菅原姓(菅原宿祢)への改姓を願い出て、これを許される。延暦9年12月(791年)には菅原朝臣の賜姓を受ける。延暦21年(802年)遣唐使に随って唐に渡り、延暦24年(805年)帰国。

学問に優れ文章博士・大学頭を歴任し、侍読を務めた。だが、学問以外には無頓着であったため、菅原家は朝廷からの援助を受けていたという。





◎菅公のじいさん↓



菅原 清公(すがわら の きよきみ / きよとも、宝亀元年(770年)[1] - 承和9年10月17日(842年11月26日))は、平安時代初期の公家・文人。遠江介・菅原古人の四男。官位は従三位・左京大夫。

父・古人は高名な儒家であったが、家に財産がなかったことから、清公ら子息は窮乏し苦しんだという。清公は若い頃から経書と史書を学び、延暦3年(784年)詔により皇太子・早良親王に付き従い、延暦8年(789年)奉試に及第して文章生に補せられる。学業に優れて秀才に推挙され、延暦17年(798年)対策に及第して大学少允に任ぜられた。[2]

延暦21年(802年)遣唐判官に任ぜられ、近江権掾を兼ねる。延暦23年(804年)空海・最澄らとともに唐に渡り、遣唐大使・藤原葛野麻呂とともに皇帝・徳宗に謁見し、その引き立てを得た。延暦24年(805年)帰国して従五位下・大学助に叙任される。
淳和朝に入り、天長元年(824年)播磨権守に左遷されるが、時の人はこれを憂いた。
孫の菅原道真が天神として祀られたことから、子の是善とともに天満宮に祀られている。
人物[編集]
人徳があり、生物を愛して殺生を好まなかった。老いてからは勤行のために仏像の製作や写経に励む一方、常に名薬を服用して顔貌が衰えることがなかったという。



菅原道真845年あたりから903年





四国昔話八十八ヶ所巡り 弘法大師と衛門三郎 - 空海
www.ku-kai.org/kono.html - キャッシュ
昔、弘法大師が巡錫の折、伊予の国上浮穴郡荏原(現在の愛媛県松山市恵原町へ 立ち寄られた時、1人の童子が弘法大師の前に現れ、 「ここに罪深い人が ... 832年( 閏年)、徳島の切幡寺から逆に巡るとお大師さまに会えると思い逆回り(逆打)を始めまし た。




源満仲912年あたりから997年

藤原摂関家に仕えて、武蔵国・摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任




伊予 村上水軍

摂津 武家棟梁 住吉神社

越後 産地 糸魚川翡翠 米

越前 南朝 新田義貞

陸奥 北畠顕家 源満仲 源頼義 河内源氏陸奥国守





越後国(えちごのくに)とは - コトバンク
kotobank.jp/word/越後国-36708 - キャッシュ
天武天皇のときに越国が三分されてその一つが越後国となったといい,大宝2(702)年, 越中国から 2郡を編入。 ... 東北地方から南下してきた武士の城(じょう)氏は、平安末期 には越後一国を支配する棟梁(とうりょう)として成長した。 ... 武(けんむ)新政後は新田 義貞(にったよしさだ)が越後守...
辞書別に見る:日本大百科全書(ニッポニカ)-藩名・旧国名がわかる事典



小国町歴史資料館 中世(鎌倉~戦国)|新潟県長岡市小国町ホームページ
www.oguni-navi.jp/gallery/history02.html - キャッシュ
平安時代から小国を支配していたのは小国氏です。小国氏は ... 南北朝時代、頼行から 7代目にあたる小国政光は、南朝勢力の棟梁として越後各地の北朝勢力に対抗して 善戦しました。しかし南朝が敗北したため、小国の史書等とともに抹殺されてしまいまし た。



風間信昭 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/風間信昭 - キャッシュ
風間 信昭(かざま のぶあき、生年不詳 - 正平9年/文和3年(1354年)頃)は鎌倉時代 末期から南北朝時代初期にかけて、南朝方として活動した越後国の武将。通称、信濃守 また越後守とも。同国頸城郡(現在の新潟県上越市)の直峰城主。越後風間氏の当主。

生涯-墳墓-脚注-参考文献
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