アカツキですけど

百戦錬磨 もう百戦越えてますけど その先に何があるのか

継体天皇は百済系 亡命民

2015-05-29 14:42:22 | 皇室問題


継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450年?) - 継体天皇25年2月7日(531年3月10日?))は、日本の第26代天皇。在位は継体天皇元年2月4日(507年3月3日?) - 同25年2月7日(531年3月10日?)。

戦後、現皇室は継体天皇を初代として樹立されたとする新王朝論が盛んになった。
それ以前のヤマト王権との血縁関係については現在も議論が続いている。


諱はヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)とある。 なお、隅田(すだ)八幡神社(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある(詳細は「異説」の節にて後述)。別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。


『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。

継体は、ようやく即位19年後の526年、大倭(後の大和国)に都を定めることができたが、その直後に百済から請われて救援の軍を九州北部に送った。しかし新羅と結んだ磐井によって九州北部で磐井の乱が勃発して、その平定に苦心している(磐井の乱については諸説ある)。日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年もかかっており、皇室(実態はヤマト王権)内部もしくは地域国家間との大王位をめぐる混乱があったこと、また、継体(ヤマト王権)は九州北部の地域国家の豪族を掌握できていなかったことを示唆している。

誕生
450年?
近江国高嶋郷三尾野
(現・滋賀県高島市)

※まず継体天皇は大和民族ではありません 調べてきた結果です。

そして近江は百済民がたくさん入っていったところですからその先駆けです この人は。


あと『日本書記』を書かせたのが、近江 天智天皇とその弟です この流れ もう わかるでしょ・・亡命貴族たちですよ。


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概要-系譜


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関ヶ原の戦いで武将が陣を敷いたところを巡った後、一番立ち寄りたかった場所がここ である。磐坂市辺押磐皇子は履中天皇の皇子で王位継承権を持ち、葛城氏よりであっ たことから、雄略天皇に暗殺されることとなる。



履中天皇
りちゅうてんのう
第 17代に数えられる天皇。仁徳天皇の第1皇子。母は皇后イワノヒメノミコト。名はオオエノイザホワケノミコト。『日本書紀』によれば,仁徳天皇の死後皇位を望む同母弟の住吉仲皇子に難波宮を囲まれたが,平群木菟 (へぐりのつく) らと河内に逃れ,その後大和の石上神宮に入って,弟の瑞歯別王 (みずはわけのみこ) (→反正天皇 ) に仲皇子を殺させ,磐余雅桜宮 (いわれのわかさくらのみや) に即位した



すいませんが、日本書記を書いてるのが百済民族なので百済民族たちの有利になるように記録やねつ造されてるはずです。それが前提になると、まず履中天皇の皇子が市辺押磐皇子と日本書記に書いてあるのを、まず信用できません。

そして履中天皇が仁徳天皇の死後、弟の住吉仲皇子に難波宮を囲まれたというのも作り話かもしれません。そして瑞歯別王に住吉仲皇子を殺させたと書いてある記述もねつ造ではないかと思いますよ。実は暗躍してたのが百済民族たちで、百済民族たちが住吉仲皇子を殺し、それを履中天皇の差し金だとねつ造した・・・。


なんつっても、日本書記書いてるのが百済民の天智天皇とその弟の差し金なんだから、大和民族は悪者にされてる設定でしょ。自分らが勝手にきた亡命民なのに・・・。





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