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バロックヴァイオリン 佐藤 泉  Izumi SATO

「コンサート情報」や「日々の気づき」などをメモしています。

2回目のマタイ受難曲 5)

2020年04月19日 | Save La Petite Bande


今日は4)に続き5)も消えないうちに

マタイの福音書26章3~5

Nr.4a . Rezitativ
Evangelist (福音史家)

Da versammleten sich die Hohenprister und Schriftgelehrten und die Ältesten im Volk in den Palast des Hohenpriesters, der da hieß Kaiphas,und hielten Rat, wie sie Jesum mit Listen griffen und töteten. Sie sprachen aber
(Then the chief priests and scribes and the elders of the people gathered in the palace of the high priest , whose name was Caiaphas. And they held a council about him to death. Then they said: )

その頃、祭司長、学者や長老たちはカイファという大祭司の官邸に集まり、イエスを罠に陥れ殺ろす策略を相談していた。しかし彼らはこういった。

Nr. 4b: Chor (Chorus)コーラス

Ja nicht auf das Fest, auf daß nicht ein Aufruhr werde im Volk. (Definitely not during the Feast, lest there be a riot among thr people. )

「祭りの間はやめておこう。民衆の中に暴動が起きるといけない。」

*************

福音史家に応えて、合唱がユダヤ教の祭司、学者、長老の悪だくみの様子を再現します。
こういう陰謀、策略は、いつの時代も変わらないですね。(過ぎ越しの期間には、人口3万人のエルサレムに10万人の巡礼者が犠牲の羊を屠るために羊を連れて集まったそうで、ごった返していました。)

バッハは祭司長や長老、学者たちの邪悪なエネルギーが渦巻く様を二つの合唱を使って描きます。彼らの頑なな意思が連打される音符で表現され、暴動というAufruhr (riot) という言葉は旋回する様な音型で描かれます。

ここで重要なことは ユダヤ教の祭司長、学者、長老、民衆を 二つのコーラスが演じる曲が10曲あるのですが、バッハがその配置を下記の様に左右対称に配置したことです。(#が曲の番号。 1~10は 製本するなら、こう対称して製本するという目安です) 何のために??

中心には、49番のトラヴェルソ・ソロとソプラノアリア「Aus Liebe」(愛より)が置かれています。 

これは冒頭の曲での問い「どうしてイエスは自ら十字架での死を受け入れたのか」に対する答えであり、キリスト教神学の中心だからに他なりません。
その中心に向かってこれらの弾劾や批難 嘲りが迫って来ますが、その喧噪の中 その答えが天から真っすぐ縦に貫かれています。絵画的ですね。

1  #4b  民衆の中に暴動が起こっては ---  人々を欺くことに       #66b    10
 2  #36b 神の子なのか?       ---  彼は神の子だと言っている  #58d   9
  3  #36d 誰が殴ったか言い当ててみよ --- 神殿の予言(自分を救ってみよ)#58b  8
   4   #41b  これは血の代金     --- その血の責任は我々と子孫にある#50d 7
    5   #45b  彼を十字架につけよ   ---  十字架につけよ     #50b 6

                   「#49 愛から」

バッハは耳で聞く音楽も、目で見る楽譜においても十字架を具現化(聴き手の想像力の中で実現する3D)しようとしたのではないでしょうか。目で見る楽譜を神に捧げるというのは、中世以来の伝統でもありました。一筆一筆 神に対する渾身の捧げものを作り続ける様子が見えて来ます。

(バッハの書く音譜は、しっかりとした筆圧でしかも優雅に、細かく、注意深く丹念に書かれています。)

8:50から4曲目です。

2回目のマタイ受難曲 4)

2020年04月19日 | Save La Petite Bande


なんとアップしたはずのこの回4)が消えてしまっていました もう一回あの長文を書くのかと思うと もう無理かも・・・やってしまった まあ、逆にいうとあの長文は必要ないということかと。 
気を取り直してもう一回。

**************

マタイの26章から受難曲は始まります。一章からの内容だけではなく、旧約聖書からの繋がりがあるのでちょっと大変。しかも、あまり事情を知らないと、「これだから一神教にはついていけない」と思うこと満載です。でも、ゆるゆる付き合っていると 急になるほど!ということも多く、日本文化とは遠い西欧諸国やバッハを少し近くに感じられます。

2曲目は福音史家が聖書の記述を述べるナレーションから始まります。バッハは聖書(マタイの福音書)の部分は赤インクで丁寧に書いておられるので真似します。

そしてすぐイエスも語り始めます。イエスが語る時だけは弦楽器が伴奏するのですが、このシャーーーン という響きでイエスの光背(宗教画に見る頭上の光の輪っか)が描かれます。



Nr.2 Rezitativ
福音史家

Da Jesus dise Rede vollendat hatte,sprach er zu seinen Jüngern (When Jesus had finished this discourse, he said to his disciples)イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。

Jesus

Jhr wisset, daß nach zweien Tagen Osten wird,und des Menschen Sohn wird überantwortet werden, daß er gekreuziget werde. (You know that after two days it will be Passover,and the Son of Man will be handed over, in order to be crucified.) あなたがたも知っている通り、二日後は過越際である。人の子は十字架につけられるために引き渡される。

バッハは十字架につけられるという意味の Gekreuziget という単語を捻じ曲がり、苦痛に満ちや音型にしています。

Nr.3 Choral

Heryliebster Jesu, was hast du verbrochen, (Most beloved Jesus,what wrong have you committed,)
心から愛するイエスよ、どんな罪を犯されたというのでしょう。

Daß man ein solch scharf Urteil hat gesprochen ? (that they have pronounced such a harsh judgment?)
これほどむごい判決をお受けになられるとは。

Was ist die Schuld ,in was für Missetaten, Bist du gerten ? (What is the guilt ? In what offense have you become involved ?)
その罪とは何でしょう。一体どんな悪事で捕らわれたというのでしょうか?

数百年前から伝わる讃美歌に、バッハがハーモニーをつけたもの。言葉の意味に従って複雑に、深く、鋭く、卓越したハーモニーと装飾をつけています。Missentaten (過失、罪 ) の所はごつごつした塊の様に書かれています。

7:25から2曲目です。

2回目のマタイ受難曲 3)

2020年04月08日 | Save La Petite Bande


昨日 一か月間の緊急事態宣言が出されましたね。皆さまどうぞご無事でいらして下さい。では一曲目から参ります。楽譜はこちらでも見つかります。

1: Chor, Choral

Kommt , ihr Töchter, helft mir klagen
来たれ、娘たち、我が嘆きを助けよ


いきなり恐ろしい場面が我々の目前に広がる。
十字架を背負い、喘ぎながら とぼとぼと歩むイエスの頭越しに、道の両側に集まった群衆(二つのコーラス)が大声で叫んでいる場面 「十字架の道行き」 である。

ここで象徴的に啓示されるのは、神の子羊であり、教会の花婿に例えられるイエスが、自ら激痛を伴って、重い十字架を引きずり歩き、十字架上の死によって 「旧約聖書から新約聖書へ」と橋渡しをしたことである。 

紀元前と紀元後その交わった一点を描こうとするバッハの胸の内を思う。

バッハは#系 ホ長調というキーを選ぶ。ドイツ語で十字架Kreuz は音楽記号の#の意味もある。

まずバス声部が、時を象徴する様に、脈打つリズムを容赦なく刻む。イエスが背負う十字架を引きずる様・・・という解釈もあるが、それよりも、太古から今に至る 脈々と冷徹に刻まれる神の時 を象徴するように私は思う。

他の楽器は哀しみに沈みながらそれに寄り添う。まるで群衆の中に混じり、自分の無力を嘆く弟子達の様に。

すると 二つのコーラスは大声で問いと答えを叫ぶのである。(合唱が叫ぶ!?)この二つのコーラスは Zionの娘達(教会)と信者を象徴していると思われる。(後には群衆や他の配役も担う)

その問いは簡潔だが深い。バッハ自身が幼い頃より自問自答を繰り返したのでは。。。と思わせる。

「イエスとは誰なのか?」 

「どうして彼は死なねばならなかったのか?」

「何故彼は死を 意思を持って引き受けたのか?」

「我々の罪が強いたイエスの犠牲は どんな模範を示しているのか」

ここで使われた単語は 後にアリアの中でそれぞれ見事に花開いていくことになる。

特に全曲を通じて重要な3つの言葉は Schuld (罪) Geduld  (忍耐) Liebe  (愛) 
 
そして、そのまさに慟哭の最中に天上から天使の声が聞こえてくる。(太字の部分:スコアを見ないと言葉がクリアには聞こえないかもしれない)中世の宗教画が映画になった様な臨場感である。

**************************************

Kommt ,ihr Töchter, helft mir klagen, (Come, you daughters ,help me lament)
来たれ、あなたがた 娘たちよ、わが嘆きを助けよ

Sehet (behold) 見よ  Wen? (whom ?) 誰を?

den Bräutigam , (the Bridegroom) 花婿を

Seht ihn (behold him ) 彼を見よ
      Wie ? (How ?) どのように?

als wie ein Lamm! (as a Lamb!)  犠牲の小羊としての姿を


O Lamm Gottes, unschuldig
Am Stamm desKreuzes geschlachtet (O blameless Lamb of God, stain on the tree of the cross...) 罪なき神の子羊 十字架に屠られた


Sehet (Behold) 見よ   Was ? (What ?) 何を?


Seht die Geduld (Behold his patience) 見よ 忍耐を

Allyeit erfunden geduldig, Wiewohl du warest verachtet, (Always found to be patient,although you were despised.....) どんな時も耐え忍ばれた。蔑まれたにも関わらず。

Seht (look ) 見よ    Wohin ? (Where ?) どこを?

auf unser Schuld (at our guilt) 我らの罪を

All Sünd hast du getragen , Sonst müßten wir verzagen. (All sin you have borne, or else we would have to despair) 全ての罪をあなたが担われた、さもなくば 我らが絶望せねばならなかったものを。


Sehet ihn aus Lieb und Huld, Holz zum Kreuze selber tragen! (Behold him, out of love and graciousness,himself carrying the wood for the cross.) 彼を見よ。慈愛と恩恵から十字架を自ら担われるお姿を。


Erbarm dich unser, o Jesu! (Have mercy on us,O Jesus!) 我らを憐れみたまえ、おおイエスよ!


Kommt ,ihr Töchter, helft mir klagen,(Come, you daughters,help me lament; ) 来たれ、あなた方 娘たちよ、我が嘆きを助けよ。

Sehet (behold) 見よ。   Wen? (whom ?) 誰を?

den Bräutigam, (the Bridegroom ) 花婿を。

Seht ihn (behold him) 彼を見よ。  Wie? (how?) どんな姿を?

als wie ein Lamm! (as a Lamb!)  犠牲の子羊としての姿を!


Kommt , ihr Töchter, helft mir klagen
(クリックでyoutube マタイ受難曲 一曲目へ)

2回目のマタイ受難曲 2)

2020年04月01日 | Save La Petite Bande
いかがお過ごしでしょうか。 雨の4月1日となりました。

世界中でまだ感染ピークすら見えない状況が続きます。山中伸弥先生がHPで必至の訴えをしておられます。

収束に半年以上かかるという意見もあり、マタイを予習してもコンサートには結びつかないかもしれません。
しかし、そこへ至る旅路の方が、結果より大事なのは言うまでもありません。

そこで 一曲づつ予習するつもりが、下記の録音を聴き始めた途端手は止まり、最後まで聴き入ってしまいました。 震災、福島事故、ブリュッセルテロ、いづれも3月でこの受難節と重なっていましたが、今回はまた別の危機感です。

「この危機は何を意味しているのか、、、」考えていた所、バッハがマタイの一曲目で鋭く問うていることに気が付きました。次回はそこから始めたいと思います。

*今回参照する下記の録音について

二つ目は一曲づつ頭出しが出来るようになっているので、説明に使わせて頂きます(動画説明の”もっと見る”をクリック)

**演奏形態について

ラ・プティット・バンドは昔シギスヴァルトが指揮をしてマタイ受難曲を演奏していました。(1989年のライヴ動画)

その後、バッハの時代合唱は「各パート一人づつ」 であったという論文が出て、試してみたシギスバルトは

[Less is More] を実感します。以来こちらの  歌手は1パートに一人、オーケストラも最少人数。指揮者なし(2009)で演奏しています。

2016年3月リハーサル冒頭で「今日は幸運なことに指揮者はいません! 誰も皆さんのエネルギーを奪わない。では始めましょう。」 とシギスヴァルトが楽し気に仰ったのを覚えています。(下記の写真の様な配置です。)ちなみに バルトが言うには、既に数十年前から指揮者なし、シギスの弾きぶりでするべきだと進言したそうですが、その時はシギスが首を縦に振らなかったとか。

目からの情報を最小限にし、耳と気配で演奏する。誰かひとりでも不注意だったり、逆に誰かに合わせようと目に頼り、腰が引ければ、一気に音楽が崩れる。

その緊張感が音楽を磨いた真珠の様に育てる・・・と知りました。 


2回目のマタイ受難曲 1)

2020年03月29日 | Save La Petite Bande
いかがお過ごしでしょうか。

ここ数週間次々に事態が急変、首都封鎖の可能性まで出て来た週末です。日本以外の国々では外出禁止になってしばらく経ちます。 届くニュースにまだ信じられない思いがしますが、感染症の歴史を思い出すと、現代だけが例外になりはしないことも ひしひしと感じます。

まず今日までに新型肺炎で亡くなった方、他の病気や事情で亡くなった方々のご冥福をこの曲で 祈りたいと思います。

さて、お休みが長期化するのは間違いなさそうなので、日頃出来ないことに取り組むチャンスと思うことにしました。

肺炎が収束すれば・・・ですが、この秋 ラ・プティット・バンドの「マタイ受難曲」公演が大阪、福岡、東京で予定されています。 

2016年プティットの「マタイ受難曲」来日に向けて 2015年から自分の予習のために「初めてのマタイ受難曲」 (全83回)というタイトルでマタイの福音書をこのブログで読んで参りました。

流石に時間がかかり、公演までには福音書を読んだところで終わってしまい J.S.バッハのマタイ受難曲の記述までは手が回りませんでした。

そこで、今年はマタイ受難曲 (68曲)を一曲づつ予習します。専門家の解説書と違って、甚だ いい加減な予習になると思いますが、お許し下さい。

まず2015年の「初めてのマタイ受難曲」を読み返してびっくり! 
ほぼ全部忘れているだけでなく、「これは誰?」と言うほど、今とは違う自分に出会いました。
人間は変わる、状況も変わる。

ならば普遍の至宝バッハの「マタイ受難曲」に まさに受難節だからこそ 立ち返りたいと思います。

次回 第一曲から参ります。





目次 と内容:シギスヴァルト・クイケン著 「バッハよ、我らのもとにとどまりたまえ」

2016年05月15日 | Save La Petite Bande
こんにちは。
ご無沙汰しております。いかがお過ごしでしょうか。
アッという間に初夏ですね

今日はシギスヴァルト著「バッハよ、我らのもとにとどまりたまえ」(安川 智子訳)の編集者:片桐 文子さん
による内容紹介をご紹介致します。


目次はこちら

片桐 文子さんは元春秋社の名編集者。2013年秋、シギスヴァルトに彼女をご紹介下さったのは、トラヴェルソの有田 正広先生でした。

初めてお話しした直後に自分の本棚を見て、彼女が編集された古楽関係の本の多さに驚きとご縁を感じたことでした。

それ以来2年以上の時間をこの本の出版に費やして下さいました。

本を出版するごとに、著者、編集者と翻訳者が良いアンサンブルをして、まさに人生のある時間を切り取るように捧げて下さってこそ本が生まれるのだと実感しました。


【内容紹介】

20世紀後半、音楽界を席巻した一大ムーブメント、「古楽復興」のパイオニアであり、今もなお最先端を走りつづけるシギスヴァルト・クイケン。
その天才音楽家が、音楽ではなく言葉によって、みずからの40年の歩みと古楽の真髄を語る。
各国語版をほぼ同時に刊行する大プロジェクトであり、現在までに、オランダ語、フランス語、英語、ドイツ語が刊行されている。日本語版は5番目の出版。

アラリウス・アンサンブル、グルタフ・レオンハルト、フランス・ブリュッヘン…… 綺羅星のような「古楽」運動の立役者たちにまじって、少年時代のシギスヴァルトが、ヴィーラントが、バルトルドが躍動する。
既存の伝統・音楽教育の古い型には決してはまらず、音楽そのものから得たみずからの確信のみを信じて歩んだ道。
そして出会ったバッハ……

本書は3部構成をとり、第1部は自伝的なエッセイ。その後はバッハの音楽を詳細に探求していく。第2部は器楽曲(ヴァイオリンをはじめ弦楽器の作品)、第3部は声楽曲で、特にテキストの扱いとそれを音楽化するバッハの手腕、器楽・声楽の編成について、確かな知性と深い直観に裏打ちされた、実に説得力のある文章が続く。
ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラや、「1パート1人」の考え方についてももちろん詳細な言及がある。

あいだに挟まれた「間奏曲」、そして最後のカンタータBWV6の詳述とそこからインスパイアされた「瞑想」は、音楽のなかに生きるシギスヴァルトの深い思索を語り尽くして忘れ得ない名文である。

片桐 文子 


この本はラ・プティット・バンドにご寄付頂いた方々にシギスヴァルトから贈呈されるものです。
詳しくはこちらのご案内をご覧ください。

マタイ受難曲最終公演

2016年04月07日 | Save La Petite Bande
続きが遅くなってすみません。

コンピューターを壊してしまい、新しいPCに振り回されておりました。
機能が先回りしすぎなほど新しくなった上に、windows 10 の特徴は デザインが硬くて美しくないこと・・・とつくづく思う今週でした。



さて続きです。
3月20日最後のコンサートがルーヴァンの教会でありました。
教会の長い響きの中で最初の音を鳴らした途端、やはりこの楽器たちは、この音響の中で使われるために設計されているのだと、改めて感じました。

当日はお客さんに毛布が用意されているほどの寒さ。
メンバーによっては毛糸の帽子にダウンのジャケットのまま演奏する、または赤いお客さんの毛布を腰に巻き付けて暖を取る、という状態でした。

そこで活躍するのが日本の使い捨てカイロですが、どうも数々の日本人留学生が持ち込んだらしく、楽屋で何人もが配られて持っていて、しかも、「これはどういう原理で温かくなるのか?」と本番15分前にも関わらず、話題沸騰!質問攻めにあってしまいました。

残響が長いので、お互いのアンサンブルが難しいはずなのですが、シギスヴァルトの持論に皆も絶対の自信を持っていたので、集中を切らさず演奏出来ました。最後のコンサートなので、名残惜しく皆それぞれの国に帰って行きました。

シギスヴァルトもご機嫌で、夕食の時一人づつメンバーの健闘を詳細に褒めていました。でも、なぜか本人には照れるのか、あまり言わない。直接言ってあげたらいいのに・・・ヨーロッパではなんでも言葉にしなきゃ!と皆いうけれど、意外に本人たちは無自覚に、”言わなくても分かる”と思っているらしいと拝察。

今日 下記の二つの新聞評が出ていたことを知らせて頂きました。

次回の来日は、2017年秋の予定だそうですが、はっきり決まりましたらまたお知らせ致します。

毎日新聞

ラ・プティット・バンド<マタイ受難曲>飾り気のない体現

二つのマタイ LPB とBCJ




It is not Japan ~♪

2016年03月30日 | Save La Petite Bande
続きです。

3月20日はベルギー・ ルーヴァン(本拠地)の教会でのコンサートでした。

プロジェクト最後の日でもあり、マネージャーのGeert (ヘルト)から 「絶対にアムステルダムのホテルを8:30きっかりに出発するから、くれぐれもそのつもりで!」と念を押されていた私たちは、ロビーに全員集合。

日本人の私は、ついつい 8:10にロビーへ降りたので一番乗り。
しかし、待てど暮らせどバスは来ず、またもや皆が 口々に「日本じゃないからね~♪」と言いに来てくれること40分。
写真は新鮮な空気を求めて皆 ホテル前に出ちゃったところ。


するとバスは何と誰も待っていないホテルの裏へ到着。
(つまり私は一時間立っていたことになる。) 

”これって普通なの?” と つい聞いたら、「うん!」 と答えてしまったチェロ奏者。
彼女と友人から、「普通じゃないだろう!」と突っ込まれていました。
「ま、よくある」の間違いだったらしい。


日本だったら大変なことになると思うのに、誰も文句も言わず、平然とバスへ。
もちろん運転手も謝まったりしない。楽しげにバスの中で、最長90分もオルガン奏者と議論し続けるシギスヴァルト。


その後も 席を順番にずらして、それぞれとおしゃべり。
よく 「疲れた・・・」とはいうのですが、どう考えてもバスで眠っているのを見たことがないし、一日も完全なオフなど
ない様子。。。

2時間15分後 なぜか予定通りにルーヴァンに着いたバス。
なぜだかよく分からない・・・


ルーヴァンの教会に着いたら、ミサの途中で13:30まで 待ち時間。
開演は15:00
ゆっくり食事して休憩して、待っているところです。

小型チェロを ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラの様にして弾いてみるシギスヴァルト。
休憩中もこうして何か面白いことをしていて、ぼーっとしていることがない。
調整出来ている楽器とは思えないけれど、シギスの音がする。

続く

マタイ受難曲公演 ご来聴ありがとうございました

2016年03月11日 | Save La Petite Bande


3月5・6・8日のコンサートご来聴ありがとうございました!

バッハのマタイ受難曲でしか起きないと言っても過言ではない、
聴衆の方々の感動がこちらにも伝わり、演奏後 舞台袖のスタッフも演奏家も、泣くのを我慢した表情で、皆静かに深くその感動を共有させて頂きました。

誰の目にも見えないのに、そのエネルギーの大きく暖かかったこと。驚きました。整えられた音楽が響くときそこに神が臨在する」という言葉を読んだことがありますが、まさにミューズも神も、バッハも我々とともに留まって下さった・・・”ような空気でした。

リハーサルの時、シギスヴァルトがその著作にあるとおりに  リハーサルを行ったのですが、他のどのアンサンブルでもそれとは反対の要求がされることが多いので、実は私は半信半疑でした。

しかしその結果、その場にいた誰もが共有した事実を振り返るとき、シギスヴァルトの見識は真実だったのだと確信したのでした。本人にそう言うと、”今頃分かったのか?! ”というような苦笑いをされました。(不甲斐ない弟子ですみません‘‘‘)

300ページにも及ぶ「バッハよ、我らのもとにとどまりたまえ」から、一部を転載することのリスクは承知の上で、ここにその部分をお読み頂きたいと思います。他にももっと適した場所があるのですが、とても長くなるので。。。

******************
バッハのヴァイオリン作品 ・・・中略 ・・・・バッハがヴァイオリンを通常とは異なる方法で用いることがとても多いことにはすぐに気づく。

同時にバッハがこの楽器の可能性を完璧に調査したこともはっきりと分かる。
バッハのもとでは、音楽の内容が何より優先であり、ヴァイオリンはその内容を表現し、供給する道具でしかない。

そのため、演奏家として自分が表に立つことに慣れているヴァイオリニストや、そのような視線の中で教育されてきたヴァイオリニストは、バッハに居心地の悪さを感じることがとても多い。そして彼らは別のレパートリーへと向かうことを好む。中略・・・・・

 私はここで、ヴァイオリン教育が今もなお、演奏する内容にはほとんど構わず、ヴァイオリニストが自分を輝かせる義務があるということにこだわりすぎている、ということを指摘しないわけにいかない。

ヴァイオリニストの野心的なエゴに当てこみ、コンサートの聴衆の大多数の趣味にも応えている、それはたしかだが、

ヴァイオリニストが自身のエゴをとりわけ際立たせる代わりに、一つの楽曲の内容を、技術と信念と趣味をもって表現する時、
この聴衆がやはり感動するのだということ、それももっと深く感動するのだということを、私は断言したい。

もちろんこれは音楽のタイプによる部分が大きい。控え目であることが、精彩のない、色あせた演奏につながることがあってはならないのは当然だ。
快活さが必要な時には、それも表現できなくてはならない! 
しかしきらきらと輝く音楽は、気取った誇張がなくとも、効果的で生き生きと、魅惑的なものになりうる。**********

写真は日本公演のリハーサルの様子です。

それからオルガンを提供して下さった梅岡さんのブログにも「こんなマタイ見たことがない・・」と書かれていました。


シギスヴァルト・クイケン著 「バッハよ、我らのもとに とどまりたまえ」出版のお知らせ

2016年02月14日 | Save La Petite Bande


こちらは春一番が吹いています。
お元気でいらっしゃいますか?

2年の紆余曲折を経て ようやくシギスヴァルト・クイケンの本の邦訳 3月1日に出版出来ることになりました



で、本当に厚かましいお願いなのですが、 もし宜しければ、ご迷惑でなければ
Face Book などでシェアして頂けませんでしょうか?
どうぞよろしくお願い致します。

フェイスブックと同じものですが、ここにお知らせを添付させて頂きました。


*************

「お知らせ」
シギスヴァルト・クイケン著 「バッハよ、我らのもとにとどまりたまえ」 (336頁)が3月1日ようやく出版されます!

2013年 ラ・プティット・バンドの経済的危機を支えるために ご寄付を募ることになった際、
シギスヴァルトはとても心苦しい思いをしていたそうです。
その際せめてものお礼の気持ちをお伝えすべく この本が執筆されました。
(ラ・プティットバンドによるバッハのカンタータ147番のCDも添えられています。)

一般書と違い、音楽とプティットバンドへの愛情を寄付という形で表して下さった方なら、この思いを共有して下さるだろう・・という
シギスヴァルトの寄付者への信頼をベースに記されています。

しかし、日本語訳を作るとなると、はたまた乗り越えるべき多くの壁が見え、呆然としておりましたが、元 春秋社の経験豊富な編集者で 古楽関係の本を沢山出版された 片桐 文子さんが現れ、しかも彼女から
安川 智子先生という名翻訳者をご紹介頂くという幸運に恵まれました。
(知らずに拝見していた古楽関係の教科書的作品は、片桐さんの編集によるものと後で分かり感激致しました。)

現在も最終のチェック他細かな編集作業をされています。
(本作りがこんなに大変だとはしりませんでした

そんなこんなで、随分とお待たせしてしまった本ですが、
非売品で500冊のみ出版されます。書店での販売などはございません。

シギスヴァルトが3月3日の来日後 一冊づつ直筆でサインをさせて頂き、お送りさせて頂きます。
またコンサート会場では、寄付受付コーナーを設け、本人から手渡しさせて頂きます。

*3月5・6・8日のコンサートにいらっしゃれない方は コンサートまでに 下記口座までご寄付頂ければ、
マタイ受難曲のツアー後、4月にはお送りさせて頂きます。

必ず お名前 ご住所、お電話番号、メールアドレスを savelapetitebande.jp@gmail.com 
までお知らせ下さい。

募金の受付口座は次のとおりです。一口3万円と高額で恐縮ですが、どうぞよろしくお願い致します。
******************
口座名 : サポート ラ・プティット・バンド

ゆうちょ銀行 からは

記号: 14330 番号: 6843191

* 通帳、カードによる ゆうちょ口座間のお振込みが可能です。

*************

他の銀行から ゆうちょ銀行へは、こちらの場号をお使い下さい。

「店名」四三八 (読み ヨンサンハチ)

「店番」438 普通預金 「口座番号」0684319
*******************
翻訳をして下さった安川 智子先生の <訳者あとがき> から一部をご紹介致します。

【「訳者あとがき」より】

・・・「これは単なる自伝でもエッセイでもない。「学術的な著作ではない」という著者の謙虚な言葉に反して、このなかには新鮮な発見と一次資料に基づく緻密な考察、演奏家としての体験に基づく洞察と実験の詳細、そしてバッハの楽譜の読み解き方などがぎっしりと詰まっている。クイケン氏の幼少期からラ・プティット・バンド結成の経緯、それからの演奏活動を辿る第一部は、そのまま二十世紀のピリオド楽器による古楽演奏実践の歴史であり、アーノンクールやレオンハルトとともにまさにその中心にいた当事者の口から語られるドキュメンタリーだ。オランダ、フランス語圏の音楽家の著書としては、日本語で読める貴重な一冊となるだろう。バッハの器楽作品と声楽作品の章は言うまでもなく、その間に置かれた間奏曲にいたるまで、本書には一文字たりとも不要な言葉がない。クイケン氏が抱く危機感は、ラ・プティット・バンドや音楽界の未来のみならず、私たちの時代や人間の行く末にも向けられている。演奏家として、教育者として、研究者として、時代の牽引者として、さらには夫として父として、クイケン氏が言葉に込めた魂のメッセージに、一訳者という立場を忘れて感動を覚えた。」

本の概要

[タイトル]

バッハよ、我らのもとにとどまりたまえ

(オランダ語のオリジナル版:Bleib bei uns, Bach by Sigiswald Kuijken. Lannoo, 2014.)

[体 裁]四六判上製カバー装/336頁

[発行日]2016年3月1日 初版第1刷

[著 者]シギスヴァルト・クイケン

[訳 者]安川智子

【著者・訳者の略歴】

[著者略歴]

シギスヴァルト・クイケン(Sigiswald Kuijken )

1944年ベルギー生まれ。バロック・ヴァイオリンおよびヴィオロンチェロ・ダ・スパッラの演奏家、指揮者。兄ヴィーラント(ヴィオラ・ダ・ガンバおよびバロック・チェロ)、弟バルトルド(フラウト・トラヴェルソ)とともに古楽界を牽引する「クイケン三兄弟」として知られる。1972年にラ・プティット・バンドを、1986年にクイケン弦楽四重奏団を結成。1971~96年デン・ハーグ王立音楽院、1993~2009年ブリュッセル王立音楽院にて教鞭をとる。2007年、ルーヴェン・カトリック大学より名誉博士号を授与。2009年にはオランダ政府より生涯功労賞(Life Achievment Award)を授賞。

[訳者略歴]

安川智子(Tomoko Yasukawa)

パリ第四大学メトリーズ課程及び東京芸術大学大学院博士後期課程修了。博士(音楽学)。現在国立音楽大学、立教大学他非常勤講師。共訳書にダランベール『ラモー氏の原理に基づく音楽理論と実践の基礎』など。