
かなり暑くなりました。いかがお過ごしでしょうか?
ペトロに続いてユダのその後が描かれます。
Nr.41a: Rezitativ 22:46からです。
Evangelist:
Des Morgens aber hielten alle Hohepriester und die Ältesten des Volks einen Rat über Jesum,daß sie ihn töteten. Und bunden ihn,führeten ihn hin und überantworteten ihn dem Landpfleger Pontio Pilato. Da das sahe Judas,der ihn verraten hatte, daß er verdammt war zum Tode,gereuete es ihn,und brachte herwieder die dreßig Silberlinge den Hohenpriestern und Ältesten sprach:
(In the morning,all the chief priests and elders of the people met to deliberate about Jesus,in order to put him to death. They bound him,led him off,and handed him over to the governor,Pontius Plate. When Judas,who had betrayed him,saw that he was condemned to death,he felt remorse, and brought back the thirty silver coins to the chief priests and elders,and said: )
夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスをどのようにして殺そうか協議した。そして、彼を縛り引いてゆき、総督ポンティオ・ピラトに引き渡した。
イエスを裏切ったユダは、イエスに死罪が下されたのを見て後悔し、銀貨30枚を祭司長と長老に返そうとして言った。
Judas:
Ich habe übel getan,daß ich unschuldig Blut verraten habe, (I have done evil, for I have betrayed innocent blood.)
ユダ:私は罪を犯しました。無実の人の血を売り渡したのです。
Evangelist:
Sie sprachen: (They said:) 彼らは言った。
Nr.41 : Chor
Was gehet uns das an ? Da siehe du zu ! (What's that to us ? That's your problem! )
我らの知ったことではない。自分で始末するが良い。
Nr.41c : Reyitativ, Duett:
Evangelist :
Und er warf die Silberlinge in den Templ, hub sich davon,ging hin und erhängete sich selbst, Aber die Hohenpriester nahmen die Silberlinge und sprachen: (And he threw the silver coins into the Tempe, departed ,went away and hanged himself, But the chief priests took the silver coins and said:)
そこでユダは、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、自分で首を吊って死んだ。しかし、祭司長たちは銀貨を拾い上げて言った。
Hohenpriester:
Es taugt nicht,saß wir sie in den Gotteskasten legen,denn ist Blutgeld. (It is not proper for us to put them into the Temple treasury,for this is blood money.)
これは、血の代金だから、神殿で浄財に加える訳にはいかない。
Nr.42 : Arie (Baß)
Gebt mir meinen Jesum wieder! (Give me back my Jesus!) 私のイエスを返せ!
Seht,das Geld,den Mörderlohn,(See ,the lost son throws)見よ、この金、人殺しの報酬を
Wirft euch der verlorne Sohn (the money ,the payment for murder,) 放蕩息子が投げ出したのだ、
Zu den Füßen nieder! (down at your feet! )あなた方の足もとに
Gebt mir meinen Jesum wieder! (Give me back my Jesus!) 私のイエスを返せ!
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ユダは恐らく凍りつくほど後悔していた。
ある日本人の牧師先生が仰るには「ユダは許しを請う相手を間違えた」
ユダはイエスを殺そうと画策する人たちに、「自分が間違っていた、、」と告白しお金を返した。もし、イエスに対して悔い改めると言っていたら・・・ なるほど@の想像です。
さてバッハとピカンダーは どう捉えていたのでしょうか。
42番アリアで ユダを ”放蕩息子”(ルカの福音書15章11~32 下段参照)と例えた歌詞には、バッハとピカンダーの強い意思を感じます。
当時は公式にこの考えを表明することは、大変な批判に曝されたのではないでしょうか。 当時も今も ユダの復権など全く認められないという説も数多い。(人が自分がまさに創造主であるかの如く 他人を裁く光景


それに対して”放蕩息子” にユダを例えたバッハとピカンダーは「悲惨の中から、真の信仰を知り、悔いて神に迎えられる人」という意味をそこに込めた。それは二人の確固たる主張ではないでしょうか。
放蕩息子の話はこちら(ルカの福音書15章11~32)
イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟のほうが父親に、『お父さん、私に財産の分け前をください』と言った。それで、父親は二人に身代を分けてやった。
何日もたたないうちに、弟は何もかもまとめて遠い国に旅立ち、そこで身を持ち崩して財産を無駄遣いしてしまった。
何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その地方に住む裕福な人のところへ身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、食べ物をくれる人は誰もいなかった。
そこで、彼は我に返って言った。『父のところには、あんなに大勢の雇い人がいて、有り余るほどのパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。
ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
そこで、彼はそこをたち、父親のもとに行った。
ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
しかし、父親は僕たちに言った。『急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。
それから、肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄のほうは畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
そこで、僕の一人を呼んで、これは一体何事かと尋ねた。
僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
しかし、兄は父親に言った。『このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身代を食い潰して帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
すると、父親は言った。『子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。』」
これは現代でも議論になるかと思います。この兄に賛成の人も、弟に自分を投影する人も多い。
しかし、このたとえ話の主人公は 実は父親(神)なのだということをH,ナウエンから教わりました。そこから、我々はどんな存在なのか、、、が浮かび上がって来ます。
バッハは18世紀にすでに透徹した視点でそれを見つめていた。父の意思は何なのか、バッハが突き詰めて考え抜いていたことは、多くの作品が物語っています。
ペテロ、ユダも他の弟子達も、その12人それぞれの性格が 実は一人の人間の中に存在するのではないか!?

少しづつその割合が人によって違うだけで、ペテロの否認もユダの凍る後悔も 我々の中にあるではないか?