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アイヌ民族関連報道クリップ

アイヌ民族・先住民族関連の報道クリップです。各記事の版権は発信元にあります。

特集ワイド:ザ・るぽ 原子力施設密集・下北半島を歩く 覚悟と恐れの間で(毎日新聞)

2011-06-22 00:00:00 | その他のニュース
特集ワイド:ザ・るぽ 原子力施設密集・下北半島を歩く 覚悟と恐れの間で


 ◇注がれる電源交付金 町並み変貌
 本州最北の地は揺れていた。原子力関連施設が集積する青森県下北半島を歩いた。「福島は人ごとではない」「後戻りはもうできない」--安全神話が崩れた中、「夢のエネルギー」との共存を選んだ人々の胸中は複雑だった。【中澤雄大】

 三沢空港に降り立つと、冷気が肌を刺した。この季節特有の偏東風(ヤマセ)が吹いた13日、再処理工場など核燃料サイクル施設がひしめく六ケ所村へ急いだ。

 「震度4でも使用済み燃料貯蔵プールの冷却水が漏れた。6強にもなれば当然、水が不足する。過剰なくらいの手当てをすべきだ」

 この日、村役場では村議会むつ小川原開発エネルギー対策特別委が初めて開かれていた。東京電力福島第1原発事故を踏まえ、貯蔵施設を管理する日本原燃の川井吉彦社長らが説明に追われた。しかし、昼の定刻が近づくと、議事次第通りに委員長が「(再処理工場の)一日も早い試験運転の再開」を要望してあっさり閉会してしまった。


ゴルフ場越しに見える六ケ所村の核燃料再処理工場(奥)
 六ケ所村に核燃サイクル施設立地構想が降ってわいたのは84年。69年、石油コンビナートなどを中心とした新全国総合開発計画「むつ小川原開発」によって村内の膨大な用地買収が進められたが、その後の石油ショックで頓挫。村内、県内を二分するほど激しい議論を経て、「安全性の確保」と「地域振興」などを条件に再処理施設を受け入れた。これまでに投じられた電源三法交付金は323億円余り。町並みもすっかり変貌した。

 「原燃は『不測の事態にも大丈夫』と言うけど、信じられないですね」。こう静かに語るのは、村中心部から車で20分ほどの丘陵地で「花とハーブの里」を営む菊川慶子さん(62)。再処理計画に反対する人々らを描いた映画「六ケ所村ラプソディー」(鎌仲ひとみ監督)にも出演。チューリップ祭りを毎年開くなど、核燃に頼らないスローな生活ぶりは多くの共感を得た。

 「でもね、村では全く話題にならなかったの。村内は利益誘導できる有力者と、そうでない人の差がはっきりしている。19回続けたチューリップ祭りも今年で終わりにしたの」。2年前に脳梗塞(こうそく)で倒れて、思うように農作業ができなくなったのが理由という。

 菊川さんに教えてもらい、再処理工場を一望できるスポットへ。ゴルフ場のグリーンの向こうに再処理工場と風力発電の風車がモヤでかすんで見えた。

 ヤマセ特有の冷たい雨が降る中、かつて最も反対運動が激しかった村北部の漁村・泊地区へ。朝、漁港を歩いた。刺し網の手入れをしていた目時(めとき)尚子さん(57)は「反対派はほとんど減ったよね。核燃施設はもうできたんだし、一緒にやっていぐしかない。この辺は活断層が走っているそうだから、何も起ごらねえごとを祈るしかないわ」。隣で作業をしていた女性が取れたてのウニを勧めてくれた。口に含むと、ほろ苦かった。

  ■


東通村の白糠海岸で昆布拾いをする男性。奥に東通原発が見える
 国道338号を北上し、六ケ所村の北隣、東通村を目指す。村境にあるつづら折りの難所、物見崎に立った。遠くに建屋が見えた。東北電力の原発1基が05年に営業運転を始めており(停止中)、東電も原子炉建設を予定する。

 海岸を歩いてみた。太平洋の荒波で流れ着く良質な昆布は1キロ700~800円になるといい、住民が競って拾っていた。初めて見る光景だが、どこか懐かしい。路上で昆布を天日で干していた漁業男性(60)は「オレは推進派だけど、もし何か事故が起きたら、この辺はひとたまりもねえな。原発の海域調査に年1、2度携わるが、1回約10万円になるんで助かる。原発がなければ、冬場は出稼ぎに行がねばなんねえし」。

 70年代に1万を超えた人口も3000人以上減った。過疎の村は生き延びる手だてとして原発を誘致した。立派な造りの役場や小中学校などを見るにつけ、交付金の“威力”をまざまざと感じる。一方で、失ったものはないのか。「青森なんて最たるへき地だから危ない施設が集まるんだろうけど、オレらにとって大事な古里なんですよ」。サーフィンをしていた青森市の会社員、木浪一也さん(50)の言葉に考えさせられた。

  ■

 翌日は、マグロの一本釣りで有名な本州最北端の大間町へ。津軽海峡を隔て、対岸の北海道が間近に見える。アイヌ語に由来するという奥戸(おこっぺ)漁港で、Jパワー(電源開発)が建設を進める大間原発(工事停止中)を撮影していると、幼い兄妹が仲良く遊んでいた。近くの主婦(70)は「町では漁業補償ももらったし、表立って誰も原発を話題にできない空気よね。自分の世代はもういいけど、子ども世代が心配だわ」と肩をすくめた。

 「大間は狭い町だから、逝く時は皆逝く。ウチは工事で恩恵を受けた口だけど、そうじゃない人々はとても心配なはず」。大間崎の民宿業、奈良さつさん(48)の言葉を聞き、原発と共存することは常に恐怖心と隣り合わせであり、恩恵を受ける代わりに「その時」の覚悟を求められるのだと知った。

 大間原発の建設差し止めを求めて函館地裁に提訴した原告団の一人で元町議の佐藤亮一さん(76)は「今なら間に合う。こんな時こそ勇気を出して声に出すべきだ。建設地付近の海底には活断層の存在や温排水が及ぼす漁業への影響も懸念されている」と指摘するが、町内では少数派だ。

 一方、若い世代から新たな動きが芽生えている。地元でまちおこしに取り組む「あおぞら組」組長の島康子さん(45)は「原発受け入れは、親世代の苦渋の決断。経済も原発で成り立っている」と現実を受け入れつつも、住民が今何を考えているのか、情報発信が足りないと思うようになった。「下北全体が原子力半島。ここから逃げられないのだからイデオロギーなどにとらわれずに、古里をどうするのか発言できる場をつくりたい」。年内にもシンポジウム開催など一歩を踏み出す考えだ。

 再び六ケ所村。古川健治村長に3・11以降、核燃に不安がないかを尋ねた。「かつての六ケ所は貧しいものの代名詞のように言われた。今では核燃のお陰で文化水準も向上したし、村民の収入も上がった。当然、手厚い安全対策を講じていく」。村長は自らに言い聞かせるように語った。

 取材後、日本原燃が村に寄贈した温泉施設「スパハウスろっかぽっか」に立ち寄った。「70歳以上の村民はタダ。ここらの年寄りは週に3回は送迎バスで来るんだべさ。本当に極楽だよ」とお年寄りの笑顔が返ってきた。豊かさとは何か--湯船につかって考えたが、のぼせるばかりだった。

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 ◇「特集ワイド」へご意見、ご感想を
t.yukan@mainichi.co.jp

ファクス03・3212・0279

毎日新聞 2011年6月22日 東京夕刊
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110622dde012040017000c.html

■ 室蘭の地球岬などが名勝ピリカノカ事業の指定候補に(室蘭民報)

2011-06-21 00:00:00 | その他のニュース
■ 室蘭の地球岬などが名勝ピリカノカ事業の指定候補に
【2011年6月21日(火)朝刊】

 国はアイヌ語地名などが残る名勝を文化財として保護する「名勝ピリカノカ」事業を進めているが、室蘭市内で指定候補になっている地球岬などの「室蘭市外海岸」が来年2月にも指定される見通しとなった。



 20日の市議会総務常任委員会で生涯学習課・矢元富子主幹が報告した。「室蘭市外海岸」はトッカリショ浜、地球岬、増市浜、ハルカラモイの4カ所をまとめた海岸線。総面積は54万3554平方メートルとなっている。

 今後のスケジュールは7月に同市教委が文部科学省に意見を述べた後、11月の文化審議会で答申。24年2月ごろには正式指定となる見通しだ。指定されれば、国の支援を受けて景観保全ができ、文化振興にもつながるという。

 国はアイヌ文化の世界遺産登録を目指して道内の名勝を文化財として保護する計画。平成19年に道内21地区を指定候補とした。これまでに豊浦町のカムイチャシなど6カ所が指定されている。
(佐藤重伸)

http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2011/06/21/20110621m_04.html

「宮崎駿監督のルーツは児童文学」 中川李枝子×阿川佐和子トークショー()

2011-06-21 00:00:00 | その他のニュース
「宮崎駿監督のルーツは児童文学」 中川李枝子×阿川佐和子トークショー


中川李枝子(なかがわ りえこ)=左=
1935年、北海道生まれ。高校卒業後、保母として働きながら執筆活動を行う。映画「となりのトトロ」のオープニング曲「さんぽ」の作詞も手掛けた。

阿川佐和子(あがわ さわこ)
1953年、東京都生まれ。慶応義塾大学卒業。99年に小説「ウメ子」で坪田譲治文学賞を受賞。「ビートたけしのTVタックル」の進行役、文筆家など幅広く活躍。



 スタジオジブリのアニメーション映画「借りぐらしのアリエッティ」と宮崎駿監督が児童文学について語った「ジブリの本棚」のDVD&ブルーレイディスク発売を記念したトークショーが5月30日、東京・南青山のスパイラルホールで開かれ、児童文学作家の中川李枝子さんと文筆家の阿川佐和子さんが児童文学の魅力を語り合った。

──本日は「いやいやえん」や「ぐりとぐら」シリーズを手がけた児童文学作家の中川李枝子さんと文筆家で児童文学の愛読者でもある阿川佐和子さんをお迎えしました。児童文学との出会いからお聞かせください。

中川 小学3年生で東京から札幌へ学童疎開して、4年生で終戦を迎えました。本が読みたくても手に入らない時代ですから、自分の持っている本を大切にして、友達と貸し借りしていました。なかでも大切な1冊がアンデルセン童話集でした。でも当時、外国の本を読むのはスパイだと言われて、大事な1冊を取り上げられてしまったことがありました。

阿川 外国の本を読むのは禁止だなんて、辛かったでしょうね。その後、その本はどうなったんですか?

中川 戻ってこなかったですね。そういう悲しい経験があるものですから、用心深くて、1冊じゃ心配なんです。だから岩波少年文庫の中でも「ドリトル先生」シリーズは3セット、いちばん好きな「小さい牛追い」「牛追いの冬」は5セットもあります(笑)。私の世代は、本に飢えていましたから、他の世代より本に対する想いはずっと強いと思いますよ。

阿川 私は実は子供の頃は本が苦手でして(笑)。珍しく私が本を読んでいると、家族が「佐和子が本を読んでるぞ!」って大騒ぎするくらい(笑)。そのうち父の仕事の関係で、岩波少年文庫を創刊された石井桃子さんと知り合って、石井さんが自宅で開いた私設図書館「かつら文庫」に通うようになりました。そこで「ドリトル先生」シリーズやアンドルー・ラングの「むらさき色の童話集」に出会ったんです。街で見かけない素敵な児童書がたくさんあって驚きました。

──岩波少年文庫は、戦後の日本における児童文学の第一人者、石井桃子さんが1950年に創刊。現在、400冊を超えるラインナップがあります。

中川 家にはほとんどが揃っています。今日のために久しぶりに読み返していたら、やっぱり楽しいですね。今日は愛読書の「小さい牛追い」「牛追いの冬」を持参しました。

阿川 昔の岩波少年文庫の装丁ですね。懐かしい!

中川 表紙は今と違ってアイヌの刺し子がデザインされたもので。初めて見たとき、なんて美しい本なんだろうと感激しました。

阿川 子供のための文庫なのに、以前はハードカバーで、この堅さが本として本格的で、大人っぽくてうれしかった。

中川 外国の生活を知る楽しみを教えてくれたのも、岩波少年文庫でしたね。オランダの作家のドラ・ド・ヨングが書いた「あらしの前」と「あらしのあと」は第二次世界大戦中と戦後が舞台の話なのですが、私たち日本人が戦争で苦しかったときに、外国の子供たちはどうだったのかを興味深く読みました。

阿川 かつら文庫の蔵書の理念は「おもしろい本」なんだそうで、教訓めいたお話はないですよね。

中川 そう、石井さんは教訓が大嫌いな方でしたから。阿川さんはどんな本がお好きなの。

阿川 エーリヒ・ケストナーの作品やドリトル先生シリーズですね。大人にはわかる社会批判や人種差別の問題が盛り込まれているけれど、子供に向かってこういうことには気をつけようと声高じゃないのがいい。

中川 ケストナーもドリトル先生も、読者を子供扱いしていないんですよね。君と僕、という対等の立場でね。

阿川 リヒャルト・レアンダーの「ふしぎなオルガン」を大人になってから読んで衝撃を受けましたよ。そこに収録されている短編「小鳥」がすごくシュールで、岩波少年文庫は子供だけのものにしてはいけない、大人にも通じる力があると気づいて、ますますファンになりました。

中川 いい本は繰り返し読めますもの。でも、いちばん楽しく読めたのはティーンエイジャーの頃ね。年をとると、子供の頃にはわからなかった大人の事情や男女の微妙な関係にも気づいちゃうから(笑)。

──阿川さんがナビゲータを務めた「ジブリの本棚」では宮崎監督が岩波少年文庫から「借りぐらしのアリエッティ」の原作「床下の小人たち」を含む50冊を選び、本への想いや宮崎作品の原点となった児童文学の魅力を紹介しています。

中川 選ぶのにはさぞ苦労されたでしょうね。宮崎さんと私は学年が5つ違うから、選んだ本に世代の違いや男の子と女の子の違いを感じます。

阿川 私が監督に話を伺って意外だったのは、アニメをずっと作ってきた方なのに、本当に岩波少年文庫が好きで、活字が好きで、いかに本が大事かということをたくさん話されたんですね。監督の根っこには児童文学があって、自分が興奮したりワクワクした世界をアニメで描きたいという気持ちが強い方なんだなと思いました。

──以前、宮崎監督から中川さんの「いやいやえん」をジブリで映画化したいというお話があったそうですね。

中川 宮崎監督が私の「いやいやえん」が大好きだとおっしゃってくださって。ただ私の作品は、本の形で読んでもらえばいいという考え。「いやいやえん」の中の「くじらとり」の話はジブリでアニメーションになったの。ジブリ美術館で見ることができますよ。ジブリのアニメは大好きです。とくに「火垂るの墓」はいいですね。本もアニメも楽しいんだけど、質が違うのよね。

──最後になりますが、現代を生きる子供たちのために、児童文学ができることはなんでしょうか。

中川 昔の子供は時間がたっぷりあったけど、今の子供たちは本当に忙しくて、時間に追われ、勉強ばかりしているでしょう。私は一人きりになって本を読むのがいい。教室でみんな一斉に10分間読書するなんて考えられない。人のいないところに行って読むのが好き、いまだにそう。ときにはひとり静かに本を読んで、本の世界に浸れる時間を子供たちに作ってあげてほしいですね。

阿川 私も同感です。私の兄は子供の頃、本を読み終えると、トイレにこもってしばらく出てこなかったんですよ。読んだ本の内容についてボーッと考えて、自分に重ね合わせたり、疑問が浮かんだら答えを考えてみたり。それがひとつひとつ自分の引き出しになっていくんですよね。そういう時間が読書には大切なんです。今みたいな時代だからこそ、活字と挿絵だけの世界で空想を広げるということが、子供たちにとって大事だと実感しています。

中川 本は生きる力になりますから。私も読んでいるほうが楽しくて。書くのはなかなかたいへんなのですが(笑)。




「ジブリの本棚」
DVD:3990円(税込) ブルーレイディスク:6090円(税込)

「借りぐらしのアリエッティ」
DVD(2枚組):4935円(税込) ブルーレイディスク:7140円(税込)

(2011年6月21日 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_interview_20110621.htm

F1ドライバー 小林可夢偉(こばやし・かむい)さん 「日本人唯一」の意地で戦う(朝日新聞)

2011-06-21 00:00:00 | その他のニュース


2010年10月30日付紙面から

F1日本グランプリの練習走行中。マシンを降り、自分の走りを振り返る=三重県の鈴鹿サーキット

2010年10月10日、秋晴れの鈴鹿サーキット(三重県)。自動車レースの最高峰、フォーミュラ・ワン(F1)世界選手権シリーズの第16戦=日本グランプリ(GP)=が催されていた。
前日の予選が大雨で順延され、予選と決勝が同日開催に。この異例の事態は、ドライバーに通常以上の集中力を要求し、緊張感をもたらす。だが――。
「雨の中、待っていてくれたファンに申し訳ない」
予選順延の発表を聞いたカムイの口からは、観客を思いやる言葉ばかりが続いた。
現在、F1の正ドライバーは世界に24人。このうち日本人は2人いるが、フル参戦している日本人は彼だけだ。
ホンダ、トヨタと、日本の自動車メーカーは相次いでF1から撤退。ブリヂストンも今季限りでタイヤ供給を終える。国内の有力スポンサーがない状況で、日本人が正ドライバーの座に就くのは極めて難しい。
「僕が成績を残すことでモータースポーツを盛り上げ、F1を目指す日本の子どもたちの将来につなげないと」
8月には国土交通省や観光庁を訪ね、大臣らと会談した。日本GPへ招待し、「サッカーのように、F1も世界のスポーツと認知してもらえれば。自分にできることがあれば協力したい」などと訴えた。観光庁の要請に応え、「スポーツ観光マイスター」にも就いている。
兵庫県尼崎市ですし店を営む夫婦の次男として誕生。「可夢偉」は本名だ。父が、アイヌ語で「神」を意味する「カムイ」という言葉に漢字を当てた。
9歳で競技用ゴーカートに乗り始めて以来、レーサーの道をひた走ってきた。F1での実戦デビューは、トヨタF1チームの控えドライバーとなった昨秋だ。代役出場ながら2戦を好走。トヨタ撤退後、ザウバーから正ドライバーに抜擢(ばってき)された。
フェラーリやレッドブルといったトップチームと比べ、中規模チームのザウバーは資金が少なく、マシンも非力だ。それでも、日本GPまでに5回入賞。メディアの注目、ファンの期待は高まってきていた。
「期待は感じている。それが結果につながるかは僕次第」
日本GPの決勝。
1周5.8キロの鈴鹿は、相手を抜きにくい世界屈指の難コースと言われる。時には時速300キロ超、心拍数180になりながら約1時間半、ミスなく計53周走りきらねばならない。
13周目。「僕らのマシンは直線が速くない。リスクを負ってでも抜くならあそこだ」。180度近いヘアピンカーブで仕掛けた。前方のドライバーの内側に鋭く入り、追い抜く。相手がベテランでも同僚でも、マシンが接触しようと動じない。同じ場所で計5回抜き、7位でゴールした。攻めに攻めた熱い走りに観客9万6千人が酔った。
「これで来年、またファンが見に来てくれる。そういう気持ちで走っていた。結果が実って、ほっとした」
小学校の卒業文集で、すでにこう宣言している。「ぼくの夢は、F1レーサーでチャンピオンをとることです」「この夢をかなえるために努力を続けようと思います」
日本人のF1王者――それは夢のまた夢だった。でも今の彼は、その名の通り、夢を現実にする可能性を秘めている。


1986年、兵庫県生まれ。「3歳から、うちや近所の店内でも三輪車を乗り回し、後輪を片輪浮かせて走ったり、30センチの段差を飛び降りたりしていた」(父・浩人さん)。9歳で競技用ゴーカートのレースでデビューし、数々の大会、シリーズで優勝。2001年、トヨタのレーシングスクールの奨学生に。04年、渡欧。F3ユーロシリーズなどを経て、08年にF1ドライバーの卵たちが競うGP2参戦。同時にトヨタF1チームの控えドライバーに。今季からスイスのチーム「ザウバー」の正ドライバーに抜擢(ばってき)され、第17戦終了時点で新人の中では最高の総合12位。

結果が大事。「結果病」にかかっているみたい

――自動車やレースに興味を持ったきっかけは?
家の前が国道2号。3~4歳の頃から、毎日のように道端に座り、通り過ぎる車を何時間も眺めているうちに興味を持ちました。9歳の時、テレビ番組で「小学4年生でも競技用のレーシング・ゴーカートをレンタルすれば乗れる」というのを見て、父に「乗りたい、乗りたい」とねだり、連れていってもらいました。父は自動車やレースにまったく興味がありませんでした。でも僕が幼い頃は自家用車を運転してレース会場へ連れて行ってくれたり、独学の末にメカニックとしてマシンを調整してくれたりしました。

決勝で7位入賞後、ザウバーのチームマネジャーと笑顔で握手=三重県の鈴鹿サーキット
――地元の商店街でも、レース感覚を養ったそうですね。
中学時代、友人4、5人と近くの商店街でママチャリで競走していたんです。買い物客の行動や目線を観察しながら、「この人はどっちに行こうとしているのか」「今、何をしたいのか」を事前に察知し、ぶつからないよう進路をとっていた。F1レースのスタート直後に、こうした体験が生きているかもしれません。小さいころに遊びながらでも、運転のスキルを体得するのは大切。コンマ数秒を争うレースでは、自然に体が反応しないと危険ですから。
――昨年の最終戦・アブダビGPで正ドライバーの代役ながら6位に入賞。その直後、トヨタがF1からの撤退を発表しました。
ドイツでのチームミーティングに呼ばれ、正ドライバーへ昇格されるのかと期待して行ったら、撤退を告げられた。あまりにもショックで、全然大丈夫じゃないのに「大丈夫」と言ってしまったくらい。帰りに愛車の中に1時間ほどこもり、「あれ、俺(おれ)、これで無職になったの?」と呆然(ぼうぜん)としていました。チャンスを信じて待っていたら、ザウバーから誘いがあった。僕に期待してスポンサーも集まってくれる。それに応えて次の世代につなげないとね。
――ザウバーは、トヨタと違って、個人経営の中小チームです。
トヨタと比べると、スタッフも予算も少ない。でも前へ進むために、あるものを、どう最大限生かすか、限られた予算をどう使うかにエネルギーを注入すべきだ、と切り替えました。本音は、やっぱり一番強くて速いマシンに乗りたい。いつかそういう日が来ると信じています。
――つらかった時期は。
毎年、成績を残さないといけないから、ずっとつらい。毎年いい条件、いい環境で走れるとは限らないし、たとえ前年王者でも翌年ダメなら、それで終わりです。目標としたゴールに向かって最適、最速のルートを見極め、練習してきたことを的確なタイミングで、百%出し切る。結果を出すのが大事。そうでないと、チームや周囲との信頼関係を失ってしまう。もう「結果病」にかかっているみたい(笑)。
――「勉強はあまり好きでない」と公言していますが、脳トレーニングをしているとか。
この厳しい世界、世の中を生き延びていくために頭を鍛えるのは重要。例えば夜、寝る前に翌日のレースのことでも、女性とのデートのことでも何でもいい。あらゆる状態に瞬時に対応できるよう、本番に向けたイメージトレーニングをする。常に何か考え、脳を速く動かしていると、いい発想が出てきます。

唯一の日本人

――国土交通省や観光庁を訪ね、F1のPRに注力しています。
日本の自動車メーカーが撤退した今、日本人ドライバーが不在となったら、メディアは注目せず、スポンサーもつきにくくなる。F1に対する世界と日本の評価ギャップがさらに大きくなってしまう。フル参戦している唯一の日本人として危機感、責任を感じています。大勢の人の協力、支援があったから、自分がここまで来られた。子どもたちに夢をもってもらえるようなかたちで恩返しができればいいとも思っています。
――F1ドライバーとしての信条は何ですか。
F1ドライバーは精密機械のようなもの。すべての感覚を研ぎ澄まし、風向き、タイヤ、路面、車の状態はどうか、限界がどこか、それぞれと対話しながら、速く正確に走らないといけない。自分は、仕事とプライベートで人間性が正反対だと思っています。プライベートでは遊ぶのが大好き。でも自分はF1で生き残っていきたい。やると決めた以上、犠牲にするものがあっても、仕事をプロらしくやらないと納得できない。それが人生、運命だから。
――最終的な夢は?
F1でまず1勝し、その後に年間王者。いつごろか? それがわかれば苦労しないのですが(笑)。


やんちゃ坊主は前向きだった

「可夢偉は、いろんな意味で破格だった」。トヨタの若手ドライバー育成プログラムの鈴木章代表、関谷正徳スーパーバイザー(SV)はそう口をそろえる。
受講当時は14歳で、最年少だった。ゴーカートに乗り慣れた少年の多くは、初めてフォーミュラカーを運転する際、車のエネルギーを制御できず、恐怖心からアクセルを踏み込めない。だが、本人は物おじすることなく、わずか3日間で順応できた。
運転は荒く、走行ラインも独特だった。「常識外なのにミスせず、異常に速い。衝撃的だった」(鈴木代表)
その一方で、レース報告書の作成をさぼったり、夜更かしをしたりするというやんちゃな側面もあった。渡欧直前の年末、鈴木代表の親が住職を務めていた山寺で修行させたこともあった。関谷SVは「かなり怒った。でもめげないし、腐らない。前向きな姿勢と要領の良さが成長を促した」と振り返る。
幼少時に所属していたクラブ「ジェミニカート」元代表の野田克さんは「あまりに速く、どこでも勝つから、嫌がらせもあった。その分、逆境に強くなったのだと思う」。
(原島由美子)

(更新日:2011年06月21日)

http://doraku.asahi.com/hito/runner2/110621.html

【登別】滞在型観光推進へ 登別アドベンチャークラブ旗揚げ()

2011-06-21 00:00:00 | その他のニュース
【登別】滞在型観光推進へ 登別アドベンチャークラブ旗揚げ
(2011年 6/21)

 登別温泉の宿泊客向けに、する民間組織「登別アドベンチャークラブ」が今月、旗揚げされた。観光庁が今年認定した北海道登別洞爺広域観光圏が目指す連泊滞在者の増加に連動した取り組みで、同クラブは「滞在型観光のワンストップ窓口として役割を果たしたい」と話している。

 アドベンチャークラブは、登別、白老、室蘭の体験施設や登別温泉の宿泊事業者・旅行代理店などが発起人となって設立した任意団体。民間事業者の連携という強みを生かす上で今後、レンタカーで人気の観光体験施設を巡る旅行パックを企画・販売する考えだ。

 旅行パックは登別温泉のレンタカー取次店を発着点に、室蘭市の工場夜景を鑑賞するコース、アイヌ民族博物館(白老)や登別伊達時代村(登別)での文化体験コース、登別・白老の日帰り入浴宿を巡るコース、乗馬やバギーなどを楽しむコースなど全7種類を販売予定。観光客の利便性にも考慮し、パックの申し込みと同時に訪れる施設の予約もできるようにするほか、地元で人気の飲食店もマップにして紹介する。大手旅行会社の担当者を招いた体験会も開く計画だ。

 同クラブでは「登別温泉を中心とした滞在型観光は、今まであまり注目されてこなかった分野。近年、観光客からのニーズも高いと感じており、地域ぐるみで圏域の魅力を売り込めれば」と話している。

http://www.tomamin.co.jp/2011s/s11062102.html